カンザクラのせい


   ~ 二月十六日(金) 靴磨き ~


   カンザクラの花言葉  あなたに微笑む



 営業スマイルという言葉があるらしい。

 そりゃあ誰だって、ムッとしながら売り込まれるよりも。

 楽しそうに、嬉しそうにすすめられたらちょっとは興味が湧くものでしょう。


 でも、だからと言って絶対に必要のない品にお金を払いたくはないわけで。


「へへっ、旦那、なの。せっかく初めての店に行くんだ、ご機嫌な感じに靴を仕上げてやりますぜ、なの」

「結構です。一足千円も取られるくらいなら自分でやります」

「そうつれねえこと言わねえでくれよ旦那、なの」


 人の家の玄関に上がり込んで、勝手に靴磨きやを開業したこいつは藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪に、ハンチング帽などかぶり。

 そこにカンザクラの枝をひとつ、ぶすっと挿しているのですが。


 パッと見、桜が脳天から咲いちゃったみたいに見えるのですけど。

 ……君ならありうるので、ちょっと心配なのです。



 それより、いったいどこで入手したのやら。

 昔のドラマで見た覚えのある路上靴磨きセット。


 思わず足を乗せたくなる絶妙な高さの木箱の周りに、古ぼけた道具をしっちゃかめっちゃかに並べて営業スマイルなど浮かべていますけど。


 磨かせないよ?


「まずはこれを履くの」

「革靴を? デニムなのに?」

「しのごの言わないの」

「……履いてもいいけど、磨かせたりしないですから」


 木箱に足を乗せなきゃいいだけの話だ。

 俺は右足だけ遊びに付き合ってやると。

 膝の裏に手ぬぐいを通されて。


「ふんすっ!」


 両腕で思い切り足を持ち上げられて。

 革靴ごと見事に木箱へ落とされました。


「へいらっしゃい」

「らっしゃらないです。なんたるちからわざ。歯医者に予約してあるので、とっとと出掛けねばならんのです」

「へっへっへ。そうおっしゃらずになの」


 言うが早いか真っ黒な革靴に、靴墨どばあ。


「おい」

「今日はどちらまで?」

「歯医者に予約してあると言っとるでしょうが」

「せっかく初めての店に行くんだ、ご機嫌な感じに靴を仕上げてやるぜ、なの」


 そんな軽妙なトークと共に、革靴をぼろ雑巾でしゃっしゃかやっていますけど。


「ちょっと、早くしてくださいな」

「もうちょっとなの、お客さん」

「いいよ、スニーカーで行くから。と言いますか、デニムなので革靴じゃ微妙なのですが」


 さっきも言いましたが。

 スニーカーで出かける気だったのですけど。


「そうは問屋が卸さないの。これで行くの」

「勘弁して下さい」


 しゃっしゃか。

 しゃっしゃか。


 鼻の頭に墨を付けた靴磨きやさんが。

 楽しそうに鼻歌を歌いながら。


 しゃっしゃか。

 しゃっしゃか。


 軽快に擦っていくと。

 次第にピカピカの光沢が浮かび上がります。


 確かに気分はいいですが。

 それとこれとは話が別で。


「せめて、靴を履いたままで立ちっ放しなのは勘弁してください」

「これが正しい靴磨きスタイルなの」

「まあ、昔の映画で見たのは確かにこんな感じだったけどさ。それよりこの靴磨きセット、どうしたの?」

「パパのなの」


 しゃっしゃか。

 しゃっしゃか。


 楽しそうにやっているのは。

 そんな理由もあったんだね。


 古い物を捨てられなくて。

 実におじさんらしいのです。


 きっとおばさんに叱られながら取っておいたものが。

 こうして穂咲を楽しい気持ちにさせているんだ。


 しゃっしゃか。

 しゃっしゃか。


 そんな音を聞いていると。


 ぴかぴか。

 ほこほこ。


 幸せに包まれるのです。


「へいおまち!」

「……ピッカピカになったね。さあ、もう出ないと間に合わない」


 俺は幸せな気持ちと共に財布から五百円玉を一つ取り出すと。

 靴磨きやさんに渡しながら、革靴を脱いでスニーカーを下駄箱から出しました。


「……旦那、革靴で行かないの? あと、千円なの」

「半分しかできてないからね」


 片方だけピッカピカじゃ、逆にみっともないです。


「時間ギリギリだ。それじゃ行ってきま……、のわっ!?」


 颯爽と一歩目を踏み出した靴が踏んだのは、ピンと張られた穂咲の手ぬぐい。

 見事にキャッチされた俺の足が、木箱の上にドスンと落とされます。


「へいらっしゃいなの」


 言うが早いか真っ白なスニーカーに、靴墨どばあ。


「おい」

「今日はどちらまで?」

「……風呂場かな。スニーカーを洗わないといけなくなりました」



 こうして俺は、再びの予約でもう数日歯痛と共に過ごすことになりました。


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