第7話

 自宅に帰った百合子は「ただいま」もろくに言わず、自室に閉じこもって床に倒れ込んだ。

(逃げてしまったわ)

 唇に触れると、後悔とともに甘美な記憶が蘇る。

(叶うのなら、もう一度)

 いいえ無理だわ、と目を閉じたとき、部屋の外から怒声が響いた。

「百合子!」

 起き上がり入り口を見ると、父が息を荒くして立っていた。

「なぜ、俺が怒っているかわかるか」

 百合子は伏していた体勢から起き上がり、後ずさりした。

「近所の人に、何と言われたかわかるか」

「いいえ、あの」

「この恥知らずが!」

 父の平手が百合子の頬を打った。叩かれたところが熱を帯びてじんじんと痛む。

「やめて、あなた!」

 母が父を制止するよう腰に縋りついた。

「何かの間違いよ。きっとご近所さんが見間違ったのだわ。ねえ。洋妾と接吻だなんて」

 母に言われ、百合子は眩暈を覚えた。

(見られていた)

 いつも充分に気をつけているつもりだった。しかし、今日は蘭が急に出てきたから。

(ええ、そう。きっと見間違いよ。ただ急に話しかけられただけなの)

 そう答えようとした。そうすればすべて丸く収まる。蘭には会えなくなるかもしれないが、彼女ならもう大丈夫だ。だって、もともと一人だったのだから。私がいなくなっても、以前の生活に戻るだけだ。

「よりにもよって洋妾だぞ。贅沢したいがために異人にすり寄る、野良犬より卑しい女が百合子に近づいただけでも許しがたい!」

(卑しい? ずっと一人の夫を待ち続けるあの人が? 何も知らないくせに!)

 百合子はかっと体が熱くなるのを感じた。叩かれた頬の熱よりももっと熱く、沸騰した血が全身を駆け巡るかのように。

「したわ」

 蘭は父の目を睨みながら言った。

「あの人は卑しくなんかない」

「このっ!」

 父が手を振り上げても、百合子は怯まなかった。耐えてみせる、と身を強張らせたが、平手は飛んでこなかった。

 外がやけに騒がしく、それに気づいた父は外を振り返っていた。

「なんだ?」

 父と母が部屋を出て、玄関に向かう。百合子はほっと安堵したあと、二人を追って外に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る