第4話
「How are You? ご機嫌いかが、って意味ね」
「ハァウアァユウ。ご機嫌いかが、ね」
蘭、洋妾と称されていた女性は百合子のことばを復唱し、ノオトに書き込んでいく。
「グッドモオニング、ハロオ、グッドイヴニング、グッドナイト、挨拶もいろいろね」
「挨拶って大事だわ」
「ええ。でも、挨拶だけじゃあ会話が続かないでしょう」
「すこし休憩にしましょう」
「ええ。ちょっと待っていて。お茶を淹れてくるわ」
蘭が席を外すあいだ、百合子は教科書を開いて内容を確認する。
(こんなことなら、もっと真面目に勉強しておくべきだったわ)
かちゃかちゃと食器同士がぶつかりあう音をたてながら、蘭が台所から戻ってきた。
「どうぞ」
百合子の目の前に置かれたティカップに注がれていたものは紅茶。薫り高く、鼻を近づけなくても鼻腔をくすぐる心地よさに百合子は頬を綻ばせた。
「ねえ」
百合子は右隣に腰かけた蘭に訊いた。
「あなたのご両親は阿蘭陀の人なのでしょう?」
「ええ、父がね。母は日本人よ」
「その、英語ができなくて、お父様とはどうやってお話ししていたの?」
「父も英語はできなかったと思うわ。母もできなかったし」
なにより、と蘭は口につけていたカップをおろし、寂し気に微笑んだ。
「私が物心つく前にいなくなってしまったから。母も、すぐ病気になって、私は独りきり」
「そう」
「でも、寂しくはなかったのよ。母を看取ってくれた先生が私を引き取ってくれてね。しばらくは長崎にいたの」
優しかったわ、と蘭は過去を懐かしむように目を細めた。
「こんな髪だったから、よくいじめられたけれど、先生だけはそうじゃなかった。西洋にお友達の多い人だったから見慣れていたのかもね」
それから先生を訪ねてきた異人の患者に見初められ、この家で暮らすことになったのだという。
「でも、忙しい人みたいでね。年に何度かしか訪ねて来てくれないの」
(それは)
百合子は胸を締めつけられる思いだった。彼女は洋妾について調べていた。洋妾とは、在留外国人の愛人となった日本人女性の愛称。蘭は夫と呼んでいたが、おそらく相手には同郷の正妻がいるはずだ。
「でも、きっと私が英語を話したら喜んでくれるわ」
百合子は相手のことを嬉しそうに話す蘭に、本当のことなど言えるわけがない、と思った。
「なぜ、そんなにもその人のことを愛しているの?」
百合子が訊ねると、蘭はすこし恥ずかし気に、しかし誇らしげに答えた。
「私の髪を、綺麗だって言ってくれたの」
(ああ)
百合子はその照れ笑いで気づいてしまった。
(私だって綺麗だって思ったわ)
けれど、
(この人をこんなふうに笑わせることができるのは、その人だけなんだわ)
私にもその笑みを向けてほしい。少しでいいから、と思いながらも、百合子はそれが叶わないことだと知った。
「なら、もっと勉強しないとね」
「ええ」
蘭の瞳は希望で明るく、彼女の笑顔の一因に自分が関われたら、それだけで満足だと百合子は思った。
(おこぼれでもいい。その輝きを近くで見ることができるのなら)
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