第3話

 百合子は放課後になっても帰らなかった。すべての生徒が学校から出て行くのを見届け、ようやく鞄を取って教室を後にした。

 彼女は洋妾の館を覗きに行くつもりだった。そのさまを人に見られては都合が悪いので、目撃者になり得る者がいなくなるのを待っていたのだった。

(噂なんてへっちゃらよ)

 学校と自宅のちょうど中間地点。そこに洋妾が住む館があった。

 その家は少し背の高い塀に囲まれた文化住宅だった。外観は瓦葺きで急傾斜の屋根、モルタル塗りの白壁に数が多い硝子窓。玄関はドア式で近代化の志向が強く見られる。

 朝と同じく、百合子は塀に手をかけて少しだけ体を持ちあげ、中を覗いた。

 すると、彼女が来ることをわかっていた、とでも言うように洋妾が朝と同じ体勢で百合子を見ていた。

 予想だにしていなかった事態に百合子の体は緊張で固まってしまい、塀から降りて逃げることもできず、洋妾と見つめあう時間が続いた。

 先に動いたのは洋妾だった。彼女はにこりと柔らかく微笑むと窓を開け、百合子に向かって手招きした。

「こちらにいらっしゃいよ。ほら、キャラメルをあげるわ」

 百合子は塀から降り、正門を開いた。そのことに抵抗はなかった。短い距離を歩くあいだに息を整え、平静であろうとした。

(キャラメルが欲しくて行くんじゃあないのよ。ただ)

 玄関前の飛び石を横切って庭に入り、洋妾が顔を出している窓の正面に来た。

「よく来たわね。はい、ごほうび」

 洋妾は百合子にキャラメルを差し出した。

「いらないわ」

「そう? でも、もらっておいて悪いということはないんじゃなくて?」

 彼女はそう言って身を乗り出し、百合子の手を取ってキャラメルを一粒握らせた。

(手、冷たい)

 されるがままキャラメルを握らせられた百合子はそう思いながら、細められた洋妾の目を間近で見た。

(やっぱり、鳶色だわ)

「ねえ、お話をしましょうよ」

 洋妾はそう言いながら、キャラメルを一粒口にした。一度唇ではさみ、それから薬指で口内に押し込む。百合子はその指、唇の動きに見惚れ、ぼうっとしていた。

「ねえ、もしかして、私が怖い?」

 百合子ははっとし、頭を振った。

「お話がしたいの?」

「ええ。私にはそういう人がいないから」

 うつむき加減になった洋妾の顔に暗い影が差した。

「羨ましいわ」

 彼女は再び手を伸ばし、百合子の制服、スカアフの端に触れてそれを持ち上げた。スカアフはするりと洋妾の手から滑り落ち、百合子の胸を叩く。

「女学生なのよね」

「こんなの、お父様の見栄でしかないわ」

 百合子はスカアフを指ではじいた。

「お父様のお知り合いが家に来るたび、学校のない日でも制服を着せられるのよ」

 そうするとみんなこう言うの、と百合子は声を低くし、父親の知人を真似た口調で話し始めた。

「やあやあ、ご息女があの女学校に通っておられるとは、お父上もさぞ鼻が高いことでしょう。それに引き換えうちの娘は勉強なんかよりも蜻蛉取りに夢中で。いやはや、あの調子ではお嬢さんのように女学生になるなんて夢のまた夢でしょうなァ、って」

 ふふ、と洋妾は小さく笑った。しかし、

「あなたにはわからないのよ」

 と静かに言った。

「勉強したくてもできない人間の気持ちなんて。もし」

 もしも私が女学生なら、と洋妾はまた百合子の制服に触れた。

「可愛い制服の学校を選んで、みんなと同じ場所でいっぱいお勉強して、異人さんと仲良くおしゃべりできるようになりたいわ」

「英語なんて話せるようになってどうするの? このあたりに異人なんてめったに来ないのに」

「夫とお話しするの」

 洋妾が笑った。笑っているのに、しかしその笑顔は百合子の胸を締めつけるような息苦しいもので、助けを求めるような悲痛の色が滲んで見えた。

「おかしいでしょう? 私たち、お互いの言っていることがわからないの。それなのに」

「なら」

 百合子は洋妾の言葉を遮った。自分でも驚くような大きい声が出た。自分がこの先に何を言おうとしているのかもわからないまま、勢いに任せて言った。

「わたしが教えてあげるわ」

「教えるって、何を?」

「英語を、よ。わたし、これでも学校で一番英語ができるのよ」

 嘘をついた。それでも、洋妾の表情が明るくなっていくのを見て、よかったと思った。

「本当?」

「ええ、きっと」

 百合子は小指を差し出し、洋妾と約束を交わした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る