ひとりごと、ふたりぼっち

 福寿草が咲き始めたという記事が、カラー写真付きで新聞に載っていた。


「もう春なんだね」


 窓から見える庭はまだ白い雪に覆われているが、同じ市内でも陽当たりの良し悪しで草花の芽吹く時期も変わってくる。だとしても、あとひと月もすれば、この雪も溶けるだろう。そして庭の半日陰に土筆がびっしりとはえてきて、今年も草むしりが大変になるのだ。


「邪魔くせえ」


 新聞を先に読み終わった夫は、大きな音をたてながら、食料の備蓄品や調味料が入った棚の前でなにやらしていた。その棚の前には、備蓄用として買ってきた米袋を私が昨日置いたから。棚がすぐに開けられなかったのだったのだろう。それは彼のひとりごとで、直接私に言った文句ではない。だが先ほど私の「もう春なんだね」という言葉も彼の耳には届いていなかったこともわかり、今日も胸が苦しくなる。


 今年の春の彼岸の三連休は、正直、私は苦痛だった。出かける予定を立てていたが、世界的で急激に蔓延している感染症の影響を受けて、キャンセルを余儀なくされた。キャンセル料が発生しなかったことはありがたかったけど、楽しみにしていたお出かけが急遽中止となることは、当然悲しい。


 人が集まるところ、換気の悪いところへ行かないようにとのお達しもあって、外食へ行くこともなんだか憚られた気がした。


 私たち、なにか悪いことしましたか?

 いつになったら、許されるんですか?


 誰に罰を与えられているのか、誰に不満を言えばいいのか、世界中の誰も知らなかった。そうしてその不満や不安を、うまく声に出せないことに苛立っていた。


「卵、使っていい?」


 夫は新聞を床に広げて読んでいた、私のところまで来た。


「いいよ」


 冷蔵庫にあるものは好きに使っていいと、何度も言っているはずなのだが。彼は必ず私の許可をとる。

 台所で、卵が割られて、菜箸でかき混ぜられる音が聞こえてきた。それからレンジでなにかを温め、フライパンでなにかを焼きはじめる。なにを作っているのか見に行きたい気持ちもあったが、先ほど苦しくなった胸がまだつかえている。


 新聞をめくると、今度は一面がお悔やみ欄だった。感染症が流行していてもいなくても、そこはいつもびっしりだ。病気療養中であったり、老衰であったり、急逝であったり。今まで知らなかった人の死因と享年を簡単に知ることができる。

 簡単に知ることができるから、簡単に忘れることもできる。


「お昼、できたよ」


 お悔やみ欄を開いたまま止まっていた私を、夫が呼びかけた。

 テーブルにはランチマットが三つ敷かれ、大きなオムライスがふたつと、小さなオムライスがひとつ、すでに置かれていた。

 テーブルの前に座った私の前に、大きいスプーンが置かれる。小さいオムライスの前には、小さいスプーン。そしてもうひとつの大きなスプーンを持った夫が、私の向かいに座った。


「美味しそうだね。いただきます」

「いただきます」


 黄色の卵焼きの薄膜に包まれたケチャップライスは、緑色のニラが入っていた。ピーマンは食べてくれないけど、なぜかニラは食べてくれたからだろう。


「福寿草が咲いたんだって?」


 突然、話が戻される。私の声は彼に届いていた。


「……桜が咲くまでには行きたいよね」

「そうだね。それまでには落ち着いて欲しいなあ」


 私たちは、ふたりで会話をする。でもお互いの目を見てではなく、小さなオムライスと小さなスプーンの奥に置かれた、小さな骨壷を向いている。

 春になって雪が溶けたら、納骨する予定だったが。この子はもう少し、ふたりぼっちになった私と夫と一緒にいてくれる。

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