ルリトウワタとブルースターの彼

 水仕事をしているせいだと、目の前の男性患者は説明した。


「商店街の花屋で働いています。冬は水が冷たいのと、草花のアレルギーがあって。ルリトウワタって、わかりますか?」

「さあ。花にはあまり詳しくなくって。お薬、塗りますね」


 簡素なベッドに股を広げて座っている男性患者の横に、ピンク色のチューブに入ったクリーム状の保湿剤と、青い蓋の軟膏容器に入った保湿剤を置く。

 ここの制服であるナース服は、淡いピンクのワンピース型。片膝を立てると下着が見えてしまう丈の長さなので、必ず、両膝を床につける。


 右手に持ったピンク色のチューブ。蓋を外してチューブを強く握ると、ぶちゅっという音と共に勢いよく飛び出した。左手で全部受け止めるはずが溢れ出てしまい、真っ白なクリームが男性患者にまで飛び散ってズボンの汚した。


「あら、ごめんなさい」


 すぐに診察室を仕切っているカーテンの奥にある、箱ティッシュに手を伸ばす。

 数枚、シュッシュッとティッシュペーパーを取り出して、水滴のように小さな玉になっている太股付近のクリームを拭き取ろうとすると、「いいですよ」と男性患者から申し出された。

 男性患者が、ズボンの汚れをティッシュペーパーでササッと拭き取り、くしゃくしゃに丸めたそれを座っているベッドの上に置いた。


 仕切り直して。左手に取ったクリームは、両手を軽く擦り合わせる。室温のクリームを温めるためと、クリームを均一に塗り広げるため。


「お薬、塗りますね」


 男性患者が右の掌を見せる。クリームのついた両手で、揉む。指先の荒れが、硬化してひび割れて痛々しい。クリームを再度手に取り、そこは厚めに塗っておく。

 右利きなのか、左手は右手ほど荒れてはいなかったが、指先の皮が厚く硬くひび割れたところは、同じように重ね塗りをした。


「はい、終わりました。お支度が済みましたら、会計に呼ばれるまで待合室でおまちください」

「ありがとうございます」


 荷物置きのカゴから、ズボンの後ろポケットに入れてあったらしいスマホと財布を男性患者は手に持ち、「あ、そうだ」と言うと、スマホの待ち受け画面を点灯させてこちらに向けた。


「瑠璃唐綿。この花の別名は、ブルースターです。星野瑠璃さん」


 私の胸にぶら下がったネームホルダーを見ながら、男性患者はそう教えてくれた。


 ルリトウワタ。ブルースター。星野瑠璃。

 今まで知ることのなかった、自分の名に縁のある花の名。


 スマホをズボンの後ろポケットにしまって、もう一度「ありがとうございました」と会釈しながら待合室へ向かう男性患者の背に「お大事にどうぞ」と声をかけた。


 それから、あの男性患者の名が、少し気になった。

 でも患者の名前も顔も、待ち受け画面も、すでに思い出せない。

 だから『ルリトウワタとブルースターの彼』と勝手に名付けた。


 この仕事が終わった時間、開いている花屋はあるだろうか。

 ルリトウワタ(ブルースター)は、どんな色の(たしか青だと思うけど)、どんな形の(たぶん星型だと思うけど)、花なのかを確かめに行きたかった。

 できれば、ルリトウワタとブルースターの彼が勤める花屋へ行きたい。


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