多賀目郁生と消化されない有給休暇
『年内中に消えてしまう有給休暇を消化してください』というお達しがあった。消えるものを消化する。消化しないと消えてしまう。なんだかよくわからないなあ、と思っている内に、年内中の土日がすべて有給休暇に割り当てられた。僕の仕事は当番かつ交替制で、休日はたいてい平日が多い。
十二月一日。明け方はよく晴れて空も青かったのに、いまは吹雪いている。ざんざかざんざか、大粒の雪が灰色の空から落ちてくる。
午前。僕は朝から買い物へ出かけていた。普段は平日の午前中へ買い物へ行くことが多いせいか、土曜日の午前中は、こんなにスーパーに人がいることに驚いた。
土日の昼食用の食パンと、コーヒーに入れる用の牛乳。あとノンアルコールのビール缶と、からあげなどの惣菜を少し買っておこうかなあ、くらいの気持ちで行った僕と、特売品のチラシを片手に険しい目付きで売り場を歩き回るご婦人たちとは、なんというか、温度差を感じる。
ご婦人のの後ろをついて歩いたり、レジの待機列に並ばされたりしているご主人やお子さんたちの方が、僕の心境に近いだろう。商品棚から、買う気もないが目についた外国製の物珍しい缶詰を手に取り、待機列が進むと、それを商品棚に戻して数歩レジへ近づく。そしてまた、違う商品を手に取ってみる。
時間がただ過ぎていくことに耐えきれず、かといって、この場所から離れることもできない。その人たちの気持ちが、僕にもわかる。
いま僕が欲しいものは、どこでも買えるものばかり。コンビニや、この地方特有のユニークな品揃えをしているドラッグストアにも置いてあるだろう。
会計を待つ列のあまりの長さと、まだ買い物カゴに入れた商品がないこともあり、僕はこのスーパーでの買い物をあきらめることにした。ほかの店へ行ってもいいし、もう少しレジが空いた時間にまた来てもいい。僕は有給休暇中で、明日までたっぷりと時間があるのだから……と、思っていたのが甘かった。
「あら、
僕は、この店から出る決断を、あと五分早くするべきだったのだ。
「あ~どうも。おはようございます」
自分の立場上、挨拶をしてきた方を
「まーちょうど良かったわ! これ、チラシ、見て! 卵! 八十八円!」
「あ~そうですね~」
「こっちも見て! サラダ油、百六十八円!」
「そうなんですね~」
卵一パックも、大きいボトルのサラダ油も、一人暮らしの僕にはまるで縁の無い商品。なのでそれらが通常価格よりどれほど安いのかわからないし、心から興味がない。だが目の前のオバさんのキラキラいきいきした様子だと、お買い得なのであろう。
そしてオバさんは有無を言わさず、僕の手を引いた。
「ちょっと、なんですか?!」
「ほら、あそこ! あそこの台で、赤いマイバックに卵とサラダ油を詰めてる子がいるでしょう? あれ、万引き犯よ」
「はいい?」
「ここのスーパー、精算済み用のカゴが無いじゃない。いるのよね~こういう混んでいる時に、フラ~と何食わぬ顔で買い物用のカゴをレジを通さずに、そのまま堂々と台の上でマイバッグに入れちゃう人」
「いや、僕、その現場を見ていないので……あとまだ店舗内ですし、現行犯逮捕はできないんですけど」
そもそも、今日は非番なんです、という前に、オバさんは僕の背中をドンッ! と叩いた。
「犯罪を未然に防ぐのも、警察の仕事でしょ! ほら、止めてきなさい!」
ああ。今日は有給休暇を消化中で。非番だから通常は警察手帳を持ち歩かないのだけど。
何かと事件や犯罪を嗅ぎつけて、逐一通報してくるこの探偵オバさん――
まあ、ちょっと声をかけるだけ。
市民から通報を受けたのに、何も対応をしなかったというのも、それはそれで問題になるから。
ううっ、帰りたい。帰りたい。朝まで仲良くしていた、あったかいお布団に戻りたい。
「ちょっと、よろしいですか?」
彼女は赤いマイバッグに商品を入れる手を、止めない。僕の声は、聞こえていないという姿勢。
ああ。これは黒だし、常習犯だと、僕は勘づく。
「僕、こういうものなんですけど」
持ち歩いていた警察手帳を、彼女の顔の前に翳す。
途端、彼女は卵も油も赤いマイバックも、全てを僕に投げつけて、ダッシュで入口から逃げていった。
周囲にいた何人かの客が足を止め、僕と赤いマイバックの女性を唖然と見つめる。
しかしすぐに、目撃者からざわざわとしたスーパーの客へと戻り、特売品へと視線と足を向けていった。
異変に気付いた、サービスカウンター内にいた男性店員が駆け寄ってくる。
「あの、どうかされましたか? 大丈夫ですか?」
「すいません、お騒がせしました」
後ろからついてきた女性店員が、床に落ちて卵が割れているパックをポリ袋に入れて片付け始める。
「こちらは、お客様のものですか?」
同じく床に落ちていた、赤いマイバック。
仕方なく、僕は彼にも警察手帳を見せた。
「差し支えなければ、店長さんとお話させていただけないでしょうか?」
男性店員の顔色がサッと変わる。そして僕はバックヤードの奥にある事務所に通され、店長と対面した。先ほどの出来事を、探偵オバさんの部分は
スーパーから出ると、雪はもう止んでいた。
半分灰色の空と、半分青い空。
捕まえられなかった万引き常習犯と、未然に防げた万引き。
完全にすっきりとはしないけれど。この街の平和を少し、守れたのなら誇らしい。
それはそうとして。
今日は有給休暇中なのに。非番なのに。
まったく仕事を休んだ気になれない。
探偵オバさん、丹野程子。
あのオバさんと出会ってから、僕の有給休暇は消化不良を起こし続けている。
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