菜の花の心

 菜の花が店頭に並ぶ季節になると、「菜乃花なのか」と名付けられた私はいつも、なんとも言えない気持ちになる。

 まだつぼみの、柔らかな若い芽を摘まれて切り揃えられて、ぎゅうぎゅうに生のゴムに縛られてパックされた、一塊ひとかたまりのそれを。

 その花を咲かせることも無く、灰汁抜きをされて、食される。

 花という、人生で一番の大舞台を体験することも無く、消費されるのだ。






「あら、いらっしゃい菜乃花ちゃん」

「こんにちは、おばちゃん」


 幼馴染みのお母さんが経営している喫茶店へ、私は仕事が休みの日に度々訪れた。

 ボックス席が三つと、カウンター席が七席。そして私の胸の高さほどの本棚が七つ。本棚の数が示すように、おばちゃんは本が大好きな人で。私は幼馴染みの特権として、四百円の珈琲一杯で、何時間も本棚の本を読むことができた。


「菜乃花ちゃん、最近はお仕事忙しいの? しばらく顔見せなかったけど」

「うん、まあまあ。年度替わりだからね」


 カウンターの席に座ると、おばちゃんが私の前に小さな灰皿を置いた。

 それから小さな袋に入った飴とチョコレートをひとつずつ。


「いつものでいい?」

「お願いします」


 目の前のカウンターの内側は、コーヒーサイフォン用のコンロになっている。

 おばちゃんはサイフォンの下の、丸いフラスコのようなガラスを外して、新しい水を入れる。

 次に、サイフォンの上の円い筒状のガラスの上から、コーヒーの粉を山盛りで二杯入れて、コンロの火を点けた。

 フラスコの中の水は直火で温められ、一分も立たない内に沸騰する。

 その沸騰したお湯は、サイフォンの上下を繋げる漏斗ろうとを通じて吸い上げられるように昇っていく。

 ガラスの筒の中で、下から湧き上がってきたお湯とコーヒーの粉が混ざり合う。コーヒーの粉が固まっていると、おばちゃんは木べらを使って数回、そこを優しく撫でる。その瞬間が、とても好きだ。

 コンロの火を止めると、湧き上がっていたコーヒー液はゆっくり、下のフラスコへ落ちていく。漏斗の途中にフィルターがあるので、フラスコの中に満たされるのは、いつも飲んでいるコーヒーそのものだ。

 フラスコからカップへ注がれたコーヒーは、ソーサーに乗せられて私の前に置かれた。私が砂糖とミルクを入れないことを、おばちゃんは知っているので、その代わりにと、ポケットに入れて帰られる小さな飴とチョコレートをいつもくれていた。


「あ、そういえばね菜乃花ちゃん」


 カップに入りきらなかったコーヒーを自分のマグカップに注ぎながら、おばちゃんは言った。


「菜の花、いる? 今日、お客さんからいっぱいもらったのよ」


 カウンターの更に奥へ、おばちゃんは行った。

 そこは調理場になっていて、スパゲティーや炒飯いためしの注文が入ると、そこで作っている。


「これ、見て」


 新聞紙に包まれた菜の花は、切られた長さがバラバラで、黄色の小さな花が咲き始めていた。


「食べても良いよ、って言われたんだけど。こんな綺麗な花を咲かせていたら、もったいないじゃない。お店にも飾るけど、菜乃花ちゃんも持っていかない?」

「じゃあ、少し」


 おばちゃんは新聞紙の中の菜の花を数本、丁寧に持ちあげて、根本の近くを輪ゴムで軽く結んだ。それからティッシュを水で濡らして切り口を包み込み、更にその上からアルミホイルを巻いて、新しい新聞紙に包んで私のコーヒーの横に置いてくれた。


「あらあら、どうしたの」


 おばちゃんがティッシュ箱ごと持ってきて、その数枚を私に渡した。

 菜の花が優しく扱われているところを見ているだけで泣いてしまうなんて。

 いよいよ私もダメだな、と思いながらティッシュを受け取り、顔を拭く。


「やっぱりなんかあったんじゃないの、菜乃花ちゃん?」

「ちょっと、仕事で、もう嫌になって」

「うんうん」

愚痴ぐちだけど、いい?」

「いいわよ……、あ、ちょっとだけ待ってて」


 おばちゃんはコンロの火が消えていることを確認して、自分のマグカップを持ってカウンターの内側から出てくると、私の隣の席に座った。


「はい、お待たせ」

「ありがとう、おばちゃん……えっとね……」


 それから私とおばちゃんは、新しいお客さんが喫茶店に入って来るまで延々と話し込んだ。


 仕事が休みの日。

 おばちゃんの喫茶店Heartハートは、私の心を浄化してくれる場所である。



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