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没データ
一
アリスは目を覚ました。
地獄の最下層よりなお深く、原罪の怪物が住まう最果てからの目覚めは、とても心地が良いものとは言えなかった。筋違いの憐憫が撞く鐘の音は僅かに残った白の鼓動すらも押し潰さんとし、新たに芽吹きかけた希望でさえも狩り尽くしてしまう。また傀儡師が部屋にやってきては騒々しくドアをノックする音が聞こえ、アリスはじっと寝たふりを続けた。
アリスは悪夢を見ていた。内容はいつもの如く思い出せないものの、胸の内に未だ蟠る吐き気を催すこの悪寒は、喘息がちの肺を更に締め付け、激しい運動をした後のような、熱っぽくて、荒い呼吸を引き起こしている。瞳の下が冷たく濡れているのは、寝ている内に涙を流していたからだろう。覚えていなくても分かるのは、こうして現実で涙を流してしまうくらいアリスは恐怖していたということだ。本当に、恐ろしい夢だった。
そんなことを考えていたからだろうか。暗幕が引かれたような瞼の裏側に、バラバラに散開したはずの夢の欠片が集まってきて、本物の夢よりも更に曖昧模糊とした映像を組み上げてゆく。虚実の映像の中で、アリスは鬼ごっこ――――、というよりは隠れんぼをしており、押し入れの如く狭い場所に蹲って、じっと息を殺して震えていた。両耳のイヤホンからは繊細なソプラノボイスが響いており、第三節に差し掛かったところで二条の光がアリスを照らし、錆びた快速列車が駆け抜けてゆく。アリスはその線路上に横たわって八つ裂きになる自分の体をぼんやりと眺めていた。
そこで映像は途切れ、再び夢の記憶はあぶくのように散っていってしまう。それでも、ただ一つだけ、真っ赤に染まった列車よりもなお鮮烈に、べったりと網膜にこびり付いて、決して忘れることのできない、目を閉じた暗闇の中でなお消えることの無いモノが一つあった。
――――それは目玉だった。
赤い目玉だ。充血して、死人のようにドロドロと濁った、それでいて、射竦めるように心臓を捉えて離さない、赤い目玉だ。
アリスはベッドに臥したまま、込み上げる悪寒を抑えるように肩を抱き、じっと目を瞑る。馬鹿なことをしてしまった……、と思ったがもう遅かった。一度思い出した幻影はそう簡単に消えてくれそうになかったからだ。締め出すように一層固く目を瞑ると、かえって白目の毛細血管の走り方だとか、異様に開いた瞳孔だとかが細かく描写されてしまう。詮方なく、アリスはじっと身を強張らせて、寝返りの一つもせずに、心を内から舐め回す気色の悪い視線にひたすら耐え続けた。
体感では、じき夜明けが来るような気がしていたが、枕元にある目覚まし時計はなかなか朝を知らせない。思えば今日に限って愛しいあのテディベアを何処か遠くに置きっぱなしにしてしまったようだ。彼さえいたならこの苦悶も少しは和らいだろうに。永遠にすら思える長い夜は、アリスの思考を次第に胡乱なものにしていった。
凍り付くような隙間風が無防備な太腿を撫でるのに思わず体を震わせ、アリスは毛布を抱き寄せようと手を伸ばした。目は冴え切っていたが、起床する気分には到底なれそうになかった。今はただ毛布に包まって、温もりの内に恐怖が溶けてくれるのを祈りつつ、ウトウトと、また全てを忘れて泥のような眠りに落ちてしまいたいと切に願った。
ところが何度手を伸ばしても掌が掴むのは虚ばかりで、目当ての毛布は全く見つからない。アリスは身を捩ってもっと遠くの方へ手を伸ばしてみるも、やはり全く手応えが無いのだ。その間にも冷たい風は繰り返し吹き付けていたので、いよいよ寒さにも堪え難くなってくる。そこで煩わしくも目を見開いてみたところ、目の前に広がる奇妙な光景に、アリスはようやくこれは何かがおかしいと感づいた。
アリスのサファイヤの双眸に映るのは、見慣れた天蓋ベッドの垂れ布でも、ロココ調のアザレアを模した壁紙でも無かった。テカテカと光る白いリノリウムの床に、壁際に並ぶ無地の白いシート。横方向に長い壁にはずらっと窓ガラスが張られ、少し視点を上に向ければ、これまた白塗りの吊革が並んでいるのが見える。病院かとも見紛う、潔癖なまでに洗練されたその場所は、何か地下鉄の中のようだった。
アリスはそこのシートの一つの上で横になって眠りこけていたらしい。もちろん毛布や目覚まし時計はおろかテディベアなんて、はなから存在していなかった。
アリスは目を瞬かせつつ、首をもたげる。気づかぬ間に地下鉄を寝過ごしてしまったのかと疑うも、記憶の糸を辿ると、覚えている内の最後は、確かに自分の部屋のベッドで横になったように思える。それがどうして、こんな夢遊病者みたいに、知らぬ間に地下鉄の中で眠っていたのだろうか。
地下鉄は完全に停車しているようだが、ドアはあっけらかんと開け放たれ、時折冷たい風が吹き込んできている。ふと目に留まったドアの脇に据え付けられた電工掲示板には、駅名ではなく〝終点〟の二文字だけが黒く映し出されていた。外の様子を窺うと、目が痛む程に真っ白な車内とは対照的に、窓の向こうは薄黒い霧で満たされており、僅かに車両の周辺が伺えるのみで殆んど見通しが利かない状況だった。誰か人間はいないかと、横になったまま、首だけで辺りを見回してみたが、駅員はおろか乗客の一人として姿は見えない。
アリスは真っ先に、これはまだ夢の中なのではないかと疑った。しかし、それにしては体に帯びた微かな熱も、それを奪い取る風の感触もあまりにリアリティーがあり過ぎて、そんな疑いは俄かに消える。しかし、これが現実だとすると先ほど辿った記憶はただの勘違いということになり、もはや恐怖を感じるよりも、狐につままれたような心地である。
やおら体を起こすと、脳天に拳大の石を喰らったかのような眩暈に襲われる。消えかけた激しい頭痛がぶり返してきて、アリスは思わず額を抑える。そしてアリスは、尋常じゃない痛みはもちろんのこと、掌が触れた肌が恐ろしく熱いことに驚いた。どうやら気の所為では片付かない程度に熱があるらしい。額にじっとりと滲んだ嫌な汗は、隙間風が吹くと異様な冷たさを残して消えてゆくのだった。
また、この寒い車内でずっと変な体勢を取り続けていたせいで、身体はカチコチに固まりきっていた。痛む頭を左手で押さえつつ、右手で手すりに掴まって、アリスはようやく立ち上がる。しかし、足首がすっかり痺れてしまっていて、すぐには歩けそうも無い状態だったので、それは断念してとりあえず椅子に腰かけることにした。
足首を慣らしている間、アリスは手持ち無沙汰に自分の身なりを見回していた。先ほどから太腿の辺りが酷く冷えるように思えていたが、アリスはカラーシャツにスカートといった学校の制服姿だったため、それも当たり前のことだった。制服を着ているのだから、やはり帰宅途中に地下鉄で寝過ごしてしまったのだろうかとも考えた。しかし、アリスは登下校の時いつも父の車に乗せてもらっている上、そもそもこんな白一色の車両なんて今まで一度も見たことが無い。
また不思議なことにアリスは靴を履いていなかった。靴下すらも履いていない。いったいどうして裸足で外出しているのかはいくら考えても分からなかった。まさかとは思うが、こんな普段なら有り得ない状況が続くと、本当に夢遊病に罹っているのではないかと思わざるを得ない。
車内とはいえども夜風が触れている床は温かいはずも無く、扁平な足裏から直に伝わる冷気はじわじわとアリスの体温を奪ってゆく。軽く足首を持ち上げてみると、間もなくジンジンとした痺れを脳に訴えてくる。しかし、このままずっとここに座っていては風に吹かれて凍えてしまうのは目に見えている。アリスはとりあえず誰か助けてくれそうな人を探すために、万全とは言い難い状態の足に喝を入れて一歩を踏み出した。
――――その刹那のことである。
誰もいないと思っていた車両の隅でむくりと起き上がるモノがあった。寝ている状態では見えない、車両の一番奥の座席のそのまた裏で、膝を抱えて縮こまっていたそれは、アリスの胡乱な意識を瞬く間に覚醒させる引き金となった。アリスはポカンと口を開き、吐息とも、悲鳴とも似つかない中途半端な声を上げる。
「――――あぁ……っ。」
如何とも形容しがたいそれに敢えて表現を与えるならば、針金を何重にも巻き付けた巨大な人形をタールの海に付け込んだものが、意思を持って這い出て来たような――――、或いはノートに鉛筆でグルグルと円を描き殴って書き上げた人形がそのまま現実に飛び出したような容貌をしている。顔と思われる部分には目や鼻やその他のパーツは見られず、絶えず、黒いぬらぬらとしたヘドロの如き液体が染み出していて、これまたのっぺりとした胴体を伝って地面に滴っている。
鋭い鉤爪で心の一番柔らかい組織を抉られるような衝撃。アリスには、針金細工の異形が向ける実体のない視線がそんな風に思えた。殺気のような明確に方向性があるものでは無く、とにかく周囲のものを全て腐らせてしまうような、内側から染み出してくる隠しようのない気配だ。
本質は決して眼前に現れるものでは無く、あの黒い液体が醸し出す鼻の曲がるような酷い匂いが、ドロドロと溶けゆく五感の一端を指し示すのだから、ありのままを一言に収斂させるのは不可能と言ってもよい。
およそ現実に見ることはないであろう紛うこと無き異形を前に、敢然と踏み出した足はたちまち凍り付いてピクリとも動かなくなってしまった。
針金細工は完全に立ち上がると、項垂れたまま、アリスの方へ向きを変え、緩慢な動作で床の上を辷るように一歩だけ進む。
――一歩。
――――また一歩。
鈍くも、針金細工は確かにアリスの方へ近付いていた。
現実離れした恐怖を前にアリスは目を閉じることも能わず、迫りくる巨大な針金細工を凝視し続ける。乱れる呼吸の隙間にきついワックスの残り香が押し入り、酸欠状態の脳髄を容赦なく貫く。にわかに呼吸のルーティンが崩れ、身体中から血の気が引いて、末端が冷たくなってゆくのを感じた。
息を吸っても吸っても胸の奥の苦しさは収まることは無く、ゼェゼェと音を立てる腫れ上がった喉の内側から、噎せ返るような血の臭いが立ち昇る。鼻腔で雑ざり合った二つの異臭は、更に強烈な衝撃を脳に与えて、抉られた意識の正常さがパンと弾け飛んだ。
ポタポタと液体が跳ねる音は、針金細工の異形から染み出すヘドロか、噴き出した鼻血か、はたまた弾けた脳漿か。
心臓は狂ったように高鳴り、胸を貫く純銀製の杭から逃げようとのた打ち回る。掌に刻まれたナイフの焼き印が薄暗い現実を切り裂いて、足には蒼い灯が点り、天にも昇る清々しい快感と、あらゆる苦患を償却する彼の甘言――――詭弁を弄するペテン師の果実が実っていることにも留意しなければならない――――が高天原の蓬莱を望ませる。
凍り付いた足は些か傲慢な解凍を経て、再び大地を踏むに足りる位の細やかな温もりを取り戻した。そうして踏み出した一歩はシャクシャクと独特の感触を返す。天上高くに留まった太陽は居丈高で、燦々たる光を振り下ろしているものの、どうも翳した掌に熱は感じられない。
久しぶりに訪れた約束の大地は相変わらずの荒野だった。
しかし、アリスはこれほどまでに心惹かれるような景色を他に知らなかった。
三百六十度何処を望んでも、目に映るのは、果てしなく続く干乾びた白砂の丘陵と、ジオラマじみた青天のみであり、人間や、その他動植物が住めそうな肥沃な土壌は見当たらない。ただ、数十メートルおきに、白い彼岸花が砂漠に溶け込むように半透明の花弁を咲かせていた。
温かくも、寒くも無い。気温と体温が寸分たりとも違わないと、身体の輪郭が酷く曖昧なものに感じられる。今、アリスと外界の差を確定づけるものは薄いキャミソールが一枚だけだった。
加えて風も無い。故に立ち止まってしまえば、全ては静寂に帰す。自分の鼓動を聞くのはまだしも、関節が擦れるギリギリという音や、血が血管を流れるサーッという音を聞くのは本当に気が狂いそうになることだった。
アリスは首を振って嫌な想像を払おうとする。
もしその場で目を閉じていたとしたら、アリスは実際嘔吐していたかもしれない。身体の境界線が存在しない上に、頭の外側から自分の鼓動やら脈拍が絶え間なく耳を打つことは、五臓六腑をそこらじゅうにぶちまけていることと何が異なるだろうか。浅薄に斫られた自意識の一片が千草の歌声に叶うわけも無いのは当然として、本当は然るべき音律が然るべきように奏でられることすらもあり得ないのだ。
だからアリスは瞬きもせずに歩き続けた。
歩き続けて、小さな山を三つと、大きな山を一つ越えた。また少し息が上がってきたが、身体がバラバラになる恐怖に比べればずっとましに思えた。辿り着いた平地には、まさしく、いつかと同じようにしてあの男が立っていた。
「久しぶり、アリス。またここに迷い込んでしまったんですか?」
〝蒙を啓く者〟は嬉しそうに手を振ってアリスを迎える。
その姿はあの時と全く変わらない。烏のような嘴が付いた仮面で顔の上半分を隠し、品の良さそうな柔らかい雰囲気を全身から醸し出している。フォーマルな礼服に隠された身体は細身ではあるが、芯の通った鋭い気配を感じさせる。真っすぐ背を流れる銀色の長髪はとても柔らかで、月夜に流れる川の流れを彷彿とさせた。ちらちらと肌は霧雨の如き淡い灰色で、その瑞々しいことといったら、どんな女性でさえも羨むほどだろう。その反面、手は節々の骨が浮き出ていて、男性的な力強さを感じさせる。
身体のパーツどこを取っても捉えどころがなく、近くで見ても全く性別が分からないような、不思議な気配を持った人物だった。
「いや、答えなくてもいいんです。ここには貴女と私しかいないのですから、恐れる必要はありません。貴女はこの場所に居る限り、永遠の自由を確約されています。」
〝蒙を啓く者〟は枯れ果てた大地に慈雨を注ぐように微笑んでいた。
二人の足元に転がる灰色の欠片は、いつか潰えるのを目の当たりにした愛莉栖の希望的観測の一部分である。それもかつては人の形をしていた。そしてアリスにとって唯一の親友であった。今は太陽に透かすと少し綺麗である。
アリスは座りこんで、近くとも遠くともつかない何処かを眺める。〝蒙を啓く者〟はアリスと会話をしつつ、灰色の欠片がいっぱい落ちている地面の上で探し物をしながら周辺を歩き回っていた。
「いやはや、まさかこんなに早く貴女が帰ってくるとは思いませんでしたよ。そんなに心配しなくても、私はこの場所から逃げたりはしないというのに。」
〝蒙を啓く者〟は地面に落ちていた欠片の一つを拾い上げ、手の上でクルクル回したり、太陽に透かしたりして矯めつ眇めつ観察する。しかし、どうやらそれは探し物では無かったようで、〝蒙を啓く者〟はまるでゴミを捨てるように、ポイと後ろ手に放り投げた。アリスは、コツンと音を立てて落下した欠片へ手を伸ばそうとしたが、軽く腕を持ち上げたところですぐにその勢いは失われて、中途半端に浮いた手は代わりに俯き加減の口元に添えられた。
「でも、貴女の綺麗な金髪を眺めることができるのなら、私は全く歓迎するばかりですけどね。華美で豪奢な黄金の輝きとは一線を画する、無垢で可憐な金糸雀の羽根のような貴女の金色に、私は一目惚れしてしまったんですから。」
〝蒙を啓く者〟は通りざまに、アリスの後ろ髪を一房梳き上げて、軽く接吻をする。
「そしてこの瞳も。私が今まで見てきたどんな青も、貴女の碧玉を前にしては灰を被っているようにしか見えなくなってしまう。そう、九夏三伏の快晴に望んだ大海原のコバルトブルーも、ホープダイヤモンドのシャドウブルーも、深淵なる宇宙のインディゴも、全てがモノクロームに見えてしまうんですよ。」
〝蒙を啓く者〟が指先を広げると、アリスの金髪はその隙間からハラハラと零れ落ち、白砂の上に舞い広がる。髪が全て地面に落ちてしまうと〝蒙を啓く者〟はアリスの前に回り込み、片膝をついてアリスと目線を合わせ、恭しく小さな両肩に手を乗せる。〝蒙を啓く者〟の手は全く血の気が感じられず、まるで死人のように冷たいものであったが、今アリスにとってその温度差はそれなりに心地よく感じられた。
〝蒙を啓く者〟は、掌をアリスの肩から鎖骨へ、鎖骨から首へつつと這わせてゆき、頬の上で止めた。二人の鼻先は今にも触れそうな距離にあり、アリスは霞がかったような灰色の瞳を、〝蒙を啓く者〟は人形のように凪いだサファイヤの瞳を――――、そしてその奥に存在する意識までを、深く穿つように見つめ合っていた。
「私はこの日の訪れを貴女の所為だとは思いません。しかし、一度は垣間見たであろう直線の産まれる処は、私と、貴女を、原罪の埋まる場所へと誘うことでありますから、その償却は少なからず生じてくるわけです。知らないと言うことは許されません。貴女がアリスである理由は、貴女がアリスでなければならない理由でもあるのです。」
〝蒙を啓く者〟はアリスと見つめ合いながら、恍惚の表情で一心不乱に舌を振るい、アリスは人形のようにだらんと腕を下げてそれを見上げる。話を聞いているのかいないのか、アリスの表情は凍り付いたように変わらず、そこには如何なる感情の機微も見られない。
「そして、貴女が全ての罪を償ったのなら、貴女はようやくこの場所で生きることが許されるんです。私は貴女にそうであって欲しいと願うし、貴女もきっとそう願っているのでしょう。」
それから、〝蒙を啓く者〟は唇をアリスの耳元に寄せて、「だから、どうでしょう、私から一つ提案があるんです。」と囁くと、唐突に微笑みを収める。そしてアリスの頬に添えた両手を引いて立ち上がり、卒然歩き出す。その視線は一見して特に変哲も無い地面に向けられていたが、〝蒙を啓く者〟は穴が空くほどじっとその場所を注視しつつ、大股の五歩で目的の場所に辿り着いた。
〝蒙を啓く者〟はその場に屈んで、地面に落ちている欠片の一つを拾い上げ、「嗚呼、愛しのアリス。私は遂に鍵をこの手に掴みました。」と開いた掌をアリスの目の前に差し出した。
その手に握られていたのは、血のように鮮やかな紅色の、透明な正四面体の欠片だった。あちこちに散らばる灰色の欠片とは明らかに毛色の異なるそれは、微妙な据わりの変化によって弱々しい太陽の光を、紅色に、妖しく波打たせており、〝蒙を啓く者〟の掌は血濡れのようにすら見えている。
女神の血涙にさえ思えるその一欠片は、紛れも無く彼女の〝心臓〟であった。
〝蒙を啓く者〟は欠片を持つ手を握り、後ろ手に隠して、語りだす。
「感情が人間的思考の源泉であると考える人が居るのであれば、その矛先は極めてナマクラであると宣言せざるを得ないのではでしょうか。クオリアを例にとれば、人工知能が本来の人間――――、というよりホモサピエンスという一種族に代替される日が来るということは蓋然性の高い未来であるわけですが、その時、当然――――それにしても醜い発想ではありますが――――感情を武器に立ち上がる自称ヒューマニストが溢れかえることでしょう。その対抗策としてゾンビたちの主張を積極的に重用しようとするのは事態を更にするには違いありませんが、同時に相互理解を深めるいいきっかけともなるはずです。
もっとも、私がこのように主張するのは、貴女という存在が居て、その素晴らしさを感受するだけの知恵を有しているからにすぎません。普遍的な貴女が存在する世界線においては私の主張も簡単に享受されるはずでありますが、貴女はこの世に一人しか存在しませんし、だからこそ貴女は美しく輝けるわけですから。
そう考えると、やはり重要なのは根本的な啓蒙であるということに収斂するでしょう。フロイトの理論が人類に齎した影響は、勿論それなりに評価する必要があるでしょう。彼の存在が無ければ、そもよりホモサピエンスがシンギュラリティの懊悩に達することはなかったでしょうから。しかし、多くの評論家が語ってきたように、唯物論に限界があることは今や自明であります。則ち、唯物論は世界に蔓延るもやもやした何某――――例えば感情やら、狂気やら、デジャヴュやらを代表とします――――を完全に解決しえるポテンシャルを保持していないということです。理論に瑕疵と呼べるものが存在しえないことは理解していただけると思います。実際、神が唯物論を振るうのであれば――――あくまで仮定だと思って下さい――――五つの難題などたちまち達成されてしまうでしょうし、ヴォイニッチ手稿はただの紙屑と化すでしょう。
それでは、一体何がその働きを邪魔しているのだと思いますか?」
〝蒙を啓く者〟は問いかけを残して一旦口をつぐむ。
アリスは、実際話の内容を半分も理解はできなかった。しかし、〝蒙を啓く者〟は返答を待ってくれているようだったので、何も答えないのも悪いと思ったアリスは何とか答えを考え出そうとする。すると、意識は再び中空に沈み始め――――中空というのは意識の境であり、踏み超えた先に存在するのは可能性が入り混じる混沌のみである――――正解とは程遠い場所へ連れていかれてしまうのだった。
完全なる静寂が空間を湛えると、あの気が狂いそうなノイズが戻ってきた。……トクン……トクン、と鼓動が無数の秒針をアリスの思考に突き刺して、埋めかけの論理パズルはたちまち散り散りになってしまった。その間にも時は進み続け、遂にはタイムリミットを告げる鐘が脳内でけたたましい轟音を響かせる。
アリスは自意識を粉砕する鐘の音を追い出そうと頭を抱えた。しかし、追い出そうとすればするほど、轟音は如実に意識の深くを抉ってくる。
それは、あの赤い目玉のように……
――――赤い目玉。
そんな声を聞いていた。錆が擦れるような、歯車を惑わす金属音。心臓を突き刺す音とはまさにこのような声のことを言うのだろう。本能的に、悪魔が階段を下ろす時、影が沸き上がるのに引き込まれるかの如く、叙情は悪であり、叙景こそが正義であると教わった。今やその真実は深く埋もれたまま、二度と掘り起こされることはない。アリスは、足下に転がる死体を見下ろし、漠然とそんなことを考えていた。
アリスは黒い影を視界の端に見て、間髪を入れず振り返ったが、相変わらずそこには何もいない。いつの間にか鐘の音はどこかへ消え去っていて、代わりに実体の伴わない雨音が延々と繰り返されていた。
「ふむ。分かりませんか。まぁ、難しい質問だったかもしれません。」
〝蒙を啓く者〟は、黙り込んでしまったアリスを怒るようなことはせず、優しく微笑みかけた。
「別に難しい話では無いんですよ。唯物論の全能化を邪魔するものは、唯物論を行使する人間そのものなんです。それどころか、理論を携えた人間は、全ての理論を不完全なナマクラにしてしまうんです。単純な証明です。理論の万能性が人間の言葉によって保証されるのであれば、理論は人間によって保証を受けた範囲内においてしか決定権を持たないはずですから。おかしな話だと思いますか? まぁ、確かに一朝一夕で理解――――この言葉自体が酷く恣意的なものであることには目を瞑るとして――――できるものではないでしょうから、決して貴女が愚鈍であるとかそういうことではありません。必ずしも君子が早く理解できるわけではない所に、この話の神髄があるんです。」
何処からともなく、血のように真っ赤に染まった細い川が一筋、蓬莱を抱いて二人の下へと流れ来る。川は彼女の欠片が散らばる一帯を避けるように、細い流れを更に細く二つに分けて、また遠くの方で合流すると、あとは地平線の彼方まで滞ることなく流れていった。
見渡せば、その川の後を追うように、また幾つかの流れが山の向こうから流れてきては、遠くの方へと流れてゆく。耳を劈く静寂は遂に潰え、アリスはようやく人心地つくことができたのであった。
〝蒙を啓く者〟は川岸で片膝をつき、石を持っていない方の手で川の水を掬い上げ、指の隙間から零れ落ちる赤い水の様子を、愁いを帯びた目で眺めていた。
「神は蘇りました。そして、今や人間は再びアダムとイヴの時代に立ち返る術を会得したのです。もう、残された時間は多くはありません。しかし、人間はのうのうと崖際でお茶会を楽しんでいる……、皮肉ですよ。
しかし、私は人間の性質がどれほど愚かで、救いようも無いものだと知っていても、それでも、手を差し伸べたいと思ってしまう。」
やがて手の中に湛えた水が全て無くなってしまうと、空になった掌をおもむろに握り締め、立ち上がり、アリスの瞳を真正面から捉えて口を開いた。
「アリス、それができるのは貴女以外に存在しないんです。人間の手によって創造された神々しき容貌と、この世の誰もが愛してやまない清らかな魂魄をもってすれば、原初の時代の再編はそう難しくはなくなるはずなんです。
約束の大地は息を吹き返しつつあります。貴女と私はその最初の入植者になりましょう。二人で素晴らしき人類再生の足掛かりをつくりましょう。そうすれば、未来永劫、私たちの名前は歴史に刻まれることとなるでしょう。」
〝蒙を啓く者〟は彼女の〝心臓〟を手に、アリスの方へ一歩詰め寄る。
逆光になって黒い影に覆われた〝蒙を啓く者〟の顔は、薄く引き伸ばされた唇のみがぼんやりと白く浮いて見えた。白砂の壮観は、川の赤と〝蒙を啓く者〟の黒に蹂躙されてもはや見る影もなくなっていた。心なしか肌寒くなってきたようにも感じる。
川の流れるサーッという音と、〝蒙を啓く者〟のシャク……シャク……という足音。数世紀前にバビロンを脅かした耳鳴りが、怨嗟の声を伴って再燃する。曰く、水面を嘗める蒼い炎。硝煙がなぞった輪郭。銀の弾丸は頭蓋骨を穿ち、爆ぜた脳漿には柘榴が咲いた。親しき枯れ薔薇を抉ったその凶刃は、今、アリスの手の中に。復讐を謳った日の何某は瑠璃色の茫漠――――此処では疑問符、そして闇夜を皓々と照らす十六夜のことを指す――――を望んで何を思おう。
掌を上にしてアリスの方へ腕を伸ばす〝蒙を啓く者〟の姿は、足元から毛糸が解けるようにするすると綻びてゆく。
「さぁ、私の手を取るんだ、アリス――アリ――――」
もはや境界を見定めることも能わない。世界を構成するあらゆる境界線は、〝蒙を啓く者〟と同じように遠くの方から綻びて、蜿蜒と曲がりくねり、アリスの周りを囲むように這い蠢いてゆく。定められた形から脱落した砂の白や川の赤、影の黒などは一度散り散りになって、新しく創造されつつある、常識外れに巨大な鱗や二股に裂けた舌、新月の如き瞳へとそれぞれ収まってゆく。
やがて、それらは一匹の大蛇を象った。
有象無象は一切の例外なく蛇として生まれ変わり、アリスは闇――――実際それは虚無に等しいものであったが、触れると確かな抵抗があるようなので、敢えて闇と形容した――――の中を、為されるがままに浮かんでいた。何処からともなくクスクス笑いが起こっては消えてゆくのを聞いた。それはアリスの幻聴だったのかもしれないし、子供たちが残していったセピア色の記憶だったのかもしれない。しかし、アリスにそんなことが分かるはずも無く、目を見開いて、笑い声がする方を追いかけ回すのだが、どちらにせよ実体のない声を探し当てることなどできるはずも無く、しまいには怯えたように膝を抱くのだった。大蛇は七つの海を遍く抱擁する巨躯を、悠然と闇に靡かせつつ、そんなアリスの様子を睥睨していた。
太陽でさえも消失してしまった世界の中では、巨大な大蛇の鱗のみが光源だった。鱗は一枚一枚が山羊の盾の如く堅牢で、直視するのが憚られるほど由々しげな有様であった。鎌首をもたげた七つの頭は、各々チロチロと真っ赤な舌を覗かせたり、口を大きく開いて巨塔の如き毒牙を剥き出しにしたりしている。十四の円かな瞳は、三面鏡の如く、覗き込めば覗き込むほど意識が黒の瞳孔に吸い込まれてしまうようだった。巨大な図体とは裏腹に、つぶらな瞳はまるで赤ん坊のように無垢に思えたが、一度その深みを認めてしまったアリスは大蛇が如何に老獪な生き物であるのか分かっていた。
アリスは畏れ多きその容貌に、その大蛇が決して神聖な造化ではないと知りつつも、あまりの神々しさに思わず嘆息を漏らした。コポコポとアリスの口元から立ち昇った気泡が大蛇の首の一本を擽り、大蛇は艶やかな舌でそれを丹念に嘗め取る。平生であらば悍ましき怪物の所作一つにすら、慄き総毛立つはずであったが、アリスはその時、天啓を受けた信徒の如く、神々しさにばかり囚われて呆然と大蛇の動きを眺めていた。
大蛇は一頻りアリスの様子を観察すると、卒然、七つの口を一斉に開いてアリスの身体に肉薄した。日月すら喰い荒らす大顎を前に、人の穢れた命など塵芥ほどの価値すらあっただろうか。アリスは、紛れも無い神の被造物が醸し出す気迫に、ただ圧倒されるのみであった。
鋭い毒牙が幾重にも肉を貫き、骨を粉砕する激痛を想像し、アリスは総毛立つ矮駆をそっと抱き締めてその時を待った。
二
「――――スさん。――――愛莉栖さん。」
担任教師の呼び声が静寂を破った時、私は欠伸を噛み殺して時計を見上げているところだった。三本の針が知らす時は授業終了十分前。六時限目は生憎の数学であり、朝から続いていた鬱な気分も頂点に達していて、夢と現の狭間で、どうにかして意識を保つために授業の残り時間を計算していたのだが――――、
声が上がった方――――教室の後ろを見ると、何かが起こっているようだった。問題を解いていた他の生徒たちの多くも同じようにして声の方向へ注目していて、特に教室の前の方に座っている生徒は、皆現場で何が起こっているのか分からずに訝しむような視線を向けていた。最前列の窓際にある私もその例外ではなく、人の壁に阻まれてどうにも後ろの方の様子が見えなかった。そこで耳を澄まして聞いてみると、担任に名前を呼ばれていた生徒――――二宮愛莉栖の周辺でクスクス笑いが起きているのが聞こえてきた。
そうなると益々気になってしまった私は、体を右へ左へと傾け、重なる人の頭を避けて愛莉栖の席を見つける。すると彼女は、見る者誰もを魅了するあの長い金髪を、惜しげもなく机の上に広げつつ、机に突っ伏して居眠りをしているようだった。担任は愛莉栖の席の隣に立ったまま、弱ったようにうなじを掻いて、声を掛けつつ愛莉栖の肩を軽く揺すっているが、愛莉栖はうんともすんとも言わず眠り続けている。
「これはまたぐっすり寝てますねぇ。どうしましょう。」
担任はそんなことを言いながら呑気に苦笑いを浮かべたが、無理に愛莉栖を起こそうとはしない。たぶんそれにはちゃんと理由がある。というのも、愛莉栖のとても真面目なことは誰もが知っている事実であり、特別な理由も無しに、人目を憚らず、授業中居眠りをするなんてことは有り得ないと担任は思っているのだろう。実際担任の声には愛莉栖を気遣うような色が聞いて取れた。私も授業中に居眠りをしている愛莉栖の姿は新鮮なものに感じられたし、私以外の多くのクラスメイトも、愛莉栖がこうやって居眠りをしていることに驚いているに違いない。
そんな事情で担任は起こそうにも起こしづらい状況に置かれていたのだが、結局このまま放置してしまうのも問題であると思ったらしい。一つ溜息を吐き、それまでよりも気持ち強めに肩を揺らして、愛莉栖を夢から引き戻そうと試みた。
そうして担任の掌が愛莉栖の肩に触れたその時、愛莉栖はこれまで熟睡していたのが嘘のように、勢いよく、バネのように身体を跳ね上がらせて目を覚ました。
「おっと! おはようアリスさん。お目覚めはいかがでしょう――――? 顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」
驚き、勢い余って右手を引き戻した担任は一瞬おどけて見せたが、しかしすぐに心配そうに愛莉栖の顔を覗き込んだ。
私の席からでは十分に見ることはできなかったが、それでも愛莉栖の少し顔色が青っぽいように思えた。普段の凛とした雰囲気も今はすっかり薄れていて、傍目にも気怠そうなのが見てとれる。柄にも無くぐっすりと居眠りなどをしていたことを思うと、やはり何かしら具合が悪かったのだろうか。笑っていた生徒たちも次第に愛莉栖の顔色が優れないことに気づき始め、教室は段々と静まっていった。
「……ただの寝不足です。心配をおかけしてすいません。」
一方、当の愛莉栖は皆の心配を余所に、普段通り、全く表情を崩さずに返事をした。
まるでフランス人形のような形の整った唇から放たれる、小さな鈴を転がしたような儚い声には、聞くものの男女を問わず庇護欲を煽る、魔法的な甘い響きがある。今は具合が悪いことがあってか、彼女から醸し出される空気は一層儚く、こうして遠目に見ているだけでも、机の端に置かれたガラス細工を見るような、なんとも落ち着かない気分にさせられてしまう。
そんな愛莉栖だが、それ程可愛い娘なので会話をしようと話を持ちかける人はやはり多い。その人気ぶりといったら、休み時間などに噂の彼女を一目見ようと、遠くのクラスからわざわざ通行人のふりをして教室を覗き込んだりする人が居るくらいだ。しかし、それほど学校の皆に注目されているにもかかわらず、私が愛莉栖を見るとき、彼女は常に一人で本を読んでいることが多い。というか、人と話をしているところを見たことなんてほとんどない。愛莉栖は見た目の通り冷静――――というより感情がかなり希薄で、その上人嫌いなところも強いため、あまり話を続けてくれないのだ。私は彼女と縁がなく二言三言しか話したことは無いが、確かにあれじゃあ友達とかできないだろうなぁと思ってしまう。まぁ、その性格が人形のような容貌を引き立てていて、むしろ別の次元で人を惹きつける要因となっているのも否めないのだが。
「本当に? 顔が青いですけど、熱があるんじゃ……?」
担任は一度は食い下がったが、愛莉栖が頑として頭を振るので、最後には諦めて、「そうですか。辛くなったらすぐに保健室に行くんですよ。」とだけ言い残して教壇に戻った。同じくして教室の視線も少しずつ黒板の方へ移りゆく。そんな中、どうしても愛莉栖の様子が気になっていた私は、最後の最後まで愛莉栖の様子を眺めていた。すると愛莉栖が潤んだ瞳を袖で拭った後、ふと顔を上げた時に偶然視線がかち合ってしまって、ずっと見詰めていたことがバレたのではないかと思うとどうにも恥ずかしくて、慌てて身体を前に向けた。
前では担任がことも無げに板書を再開していて、赤チョークで何やら訳の分からない数式を囲っているところだった。教室の空気は完全に授業の雰囲気に戻っており、皆真面目にそれを書き写している。私も気を取り直して、皆に倣ってシャーペンを握って文字列を書き写し、同じように赤ペンで囲ってはみるのだが……、正直さっぱり意味が分からない。
つい先日まで体を壊していたため欠席がちだったのもあるが、それ以上に自分には数学的なセンスが大きく欠けていることを認めないとならない。公式を覚えることには訳無いのだが、それを応用的に活用することがどうも苦手らしい。高校に入学してからは特にその傾向が顕著になってきており、三年生に上がって受験が見えてきた今、それをどう解決しようかというのが目下の煩いとなっている。
一分ほど黒板とにらめっこをして、早々に理解することを諦める。経験からして、こういうのは一度ドツボにはまるともう駄目なのだ。私はシャーペンをノートの上に放り出し、さも問題の解き方を考えてるような振りをして、窓の外に目を向けた。
運よく席替えのくじで窓際の席を勝ち取ったため、数学のように苦手な教科の時には、こんな感じで窓の外を眺めながら、校庭で行なわれている体育の授業をこっそりと覗くなどをして暇を潰すのが習慣になっている。四階の高さから見下ろすと、生徒が走ったりボールを蹴ったりしているのがなんだかアニメーションのように見えて、ずっと眺めていても飽きることが無い。生憎と今日は外の授業はないようだが、それでも生きた心地のしない授業を真面目に受けているよりは、こうして窓の外に思いを馳せながら、ぼんやりと今読んでいる小説のことなどを考えていた方がずっと有意義な気がする。
つい先日まで、学校の外周に植えられた八重桜の花弁が雅な情景を見せていたが、今日はみずぼらしい茶色の枝がぽつぽつと立っているばかりで面白くない。大方昨日の大雨で全部落ちてしまったのだろう。雨さえ降らなければもう少し長く桜を楽しめたのにと、心の内でこっそり悪態などをついてみる。今年もついぞ花見に出かけることは無かったが、実は、私は昔から桜の咲くころを密かな楽しみにして過ごしていた。
教科書の中でどこかの仏僧は全て物事は始めと終わりが良いと説いていたが、桜はやはり満開に咲き誇っているときが一番美しいと思うのは、私の思考が浅はかだからだろうか。私に言わせてもらえば、物事の姿勢ばかりを評価しようとする日本人の悪い癖の極みであるように思えるのだが。ただ、私は結果論というのも大嫌いな人間なので、もうなんか良く分からないし、実際本当はどうでも良い。うん。少し大人ぶってみただけだ。
校庭から少し視点を上げてゆくと、春霞の向こうに朧げに浮かぶ一本の時計塔が見えた。その時計塔は街で最も古くから存在している建造物の一つであり、街で二番目に高い建造物でもある。古くから街の人たちは親しみを込めて自らの街を〝時計塔の街〟と称し、何時からか本来の街の名は忘れ去られ、それが正式名称となった。噂では、私が今住んでいるこの街は、元々人の寄り付かない原野だったらしい。しかし、ある日唐突にあの時計塔が現れてから人が住み着くようになってゆき、最終的には日本に現存するたった二つの都市の内の一つ――――、〝時計塔の街〟へと発展をとげたとか。話の真偽は定かではないが、この噂は割と幅広い世代に受け入れられている、極々一般的な伝承である。
因みに一番高い建築物というのは、現代最高峰の技術を以てしても定礎から十数年の年月を要して、つい数年前に完成したばかりの超高層ビル〝相克のモノリス〟だ。名前の通り、横幅の薄いビルが二本立ち並んでおり、片方は商業施設として一般公開され、もう片方は研究機関などが備えられている。〝相克のモノリス〟の建設に関して、若年層には新たな観光施設としてそれなりに受けているようだが、これまで時計塔よりも高い建築物は建てない――――時計塔自体かなりの高さであるため、それでも別段問題は無かった――――ことが暗黙のルールとしてあり、街の歴史を冒涜することだと批判する人間が多いのも現状である。保守派の人が言っていることももっともだとは思うが、果たして長い間語り継がれてきた時計塔の伝承が、それより高い建築物が建てられたというだけで価値が下がるのかと考えれば、個人的にそれは甚だ疑問である。それどころか、そんなに脆い伝承なんて存在しなくてもよいのではないかと、子供ながらに思ったりもする。東の〝中心都市〟では近未来の超高層ビル群がそこかしこに建ち並んでいると聞いたし、この街も古い価値観に囚われずもっと好き勝手すればいいと思うのだが。
そんな取り留めのない物思いに耽っていると、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
未だ靄がかったような頭でモソモソと筆記用具を掻き集め、白紙のノートと一緒に鞄へ詰め込む。そのまま帰りの会が始まって、日直があれこれの報告を行い、担任が二言三言いつもの言葉を残して、最後にさようならなどを言ったようで、今日の学校は終了した。運が良いことに今日は部活が今日は休みだったので、後はこの重い鞄を背負って家に帰るのみだった。
にわかに賑わい出す教室の中、早々に立ち上がると、何人かの友達が声を掛けてくる。
「幽微ちゃん、今日部活休みでしょ? これから皆で出かけるんだけど、一緒に来ない?」
「あぁ……、いやぁ、私は遠慮しておくよ。……ほら、この間のテストの数学酷かったから、ちょっと親に何か言われそうで……」
私はいつものようにおざなりの言葉を使って断る。テストの点数が悪かったのは本当だが、それで親に怒られるというのは全くの嘘だ。本当は私がそういうのに行きたくないから嘘を吐いただけである。しかし友達は特に疑うことも無く、ただただ残念そうな顔をして、「じゃあしょうがないか……」と他のこのところへ声を掛けにいった。皆の背中を見ていると胸が痛まないわけでは無いが、あそこでイエスと言ったところで私のストレスが増えるだけなので、ならまだ断ってしまった方がましというものだ。私は心の中で自分自身に言い訳を聞かせつつ、そそくさと教室を後にした。
クラスでは一番に教室を出たはずだったが、廊下は他の教室から出て来た生徒たちによって既に溢れていた。ラケットケースを片手に道を急ぐ者、友達を見つけて手を振る者、恋人と手を握り合ってゆっくりと歩いている者。私はそんな彼らを横目に、なるべく目立たないように、こそこそと廊下を進んでゆく。真っすぐ昇降口まで降りてさっさと靴を履き替えたら、一人そっと校門を潜りぬける。そこでようやく一息吐いて、しばし帰路を見上げた。
時刻は四時を少し回った頃。例年に比べてずっと長く居座り続けていた冬の気配もようやく失せて、これまで下校時には暮れかけていた太陽も、今日は大分高い位置に暈をつくっている。湿気が多い割には暖かな日で、濛々と立ち上る春霞に飲み込まれた街は見慣れた帰り道とはまるで違う顔をしていて、まるでファンタジーの世界に迷い込んでしまったように幻想的だった。そういう時、私は、不安と期待の狭間で心が騒めき立つような、得も言えぬ好奇心で心が満たされるのを感じる。それは焦燥感にも少し似ているが、決して不快なものでは無い。むしろ私は、心が浮き立っているようなこの感覚が大好きだった。
丁度春霞の立ち込める今日のように、見飽きた街並みでも日によっては特別な興奮に陥ってしまうことはよくある。もちろん季節や時間帯によって物理的に見え方が異なるのも違いないが、それよりも私はその時の感情によって左右されるところが多いように感じる。例えば明るい気分の時は、雨が降っている日でも、濡れたコンクリートのハイライトだとか、街路樹に滴る雨粒だとかがとても趣深いように思えるのだが、暗い気分の時はたとえ晴れていたとしてもコンクリートジャングルに囚われた息苦しさしか感じられない。
それじゃあ今日はどうなのかと言われると、まぁ、お世辞にも気分が良いとは言い難い日だった。もっとも、私は普段からあまりハイな気分にはならないのだが、今日はいつにも増して気が重い。しかし、先の理論でいくとこのような幻想的な風景を見出すには、少々センチメンタルでなければならないのかもしれない。そう考えると、このどこか物寂しい風景も感動的に思えないわけではない。
携帯を開いて時刻を確認すると、既に学校を出てから十数分が経過していた。自分で思っていたよりも随分長くここで立ち止まっていたらしい。休憩もここらにしておいて歩き出さないとバスに遅れてしまう。名残惜しく最後に深呼吸をすると、春らしい温い空気が肺を満たす。風が鼻腔をくぐる一瞬、微かに何かの花の匂いが掠めるのもまた春らしい。そのお陰か新たに踏み出した一歩は思っていた以上に軽く運ばれた。
歩き続けてものの一分で学校付属のバスプールに辿り着く。
学校が終わってすぐのこの時間帯は待機しているバスの方が稀で、それなりに広さのあるバスプールではあったが、バス停近くですらかなり空白が目立ち、閑散としている。それもそのはず、この学校では、生徒たちは強制されるまでもなくほとんどが自主的に部活動やなにかしらに入るので、何か事情が無い限り、大体皆六時過ぎにならないと下校しないのだ。今この場にいる数少ない生徒たちも、おおよそ部活が休みであるとか、家の用事があるとかそんなところであろう。当然バスのタイムスケジュールは生徒が多く下校する時間に合わせて作られるので、私が下校するときはいつもバス停は寂しい様相を見せている。
いつも私が利用する十二番のバス停に辿り着き、傍らの小さなベンチに一人腰を下ろす。静かなバスプールの中に冷たい風の空を斬る音がこだまするのが、また心に巣食う寂寥感を煽り立てている。しかし今日の私にとっては、それもまた底抜けの心象へ没入させる演出の一つであるように思えてしまう。
先ほど友達の誘いを断ったのは、別に皆が嫌いだからとか、孤独が好きだからとかそういう理由じゃない。むしろ誰かとコミュニケーションを取るのは好きな方だし、小学校までは友達だって沢山いた。毎日友達の家に行って楽しく遊んでいたし、今だって絵に描いたような青春を謳歌してみたいと、人並みに誰かに恋をしたいと思わないわけでも無い。逆に、今だって誰とも関わらずに生きていくなんてとても考えられないことだとも思っている。どんな小さなものだったとしても、注がれる友情や愛情は少なからず私を幸せにしたし、私もその幸せに応えてゆきたいと思っていた。
それが得体の知れない化け物と変化したのは、もうずっと前の話だったかもしれない。正直なところ、私にも明確な転機となるところは分からないのだ。ただ、気付いてしまった。私が抱く友情も、慕情も、愛情も、他の人が抱いているそれとは、どこか決定的にズレているということに。
初めは小さな違和感だった。小学校の高学年になった頃の話だ。その頃の私は、今とは違ってそれなりに友達も居たと思う。たぶんこんなにひねくれ者でも無かった。多少は暗澹の切っ先に触れていたかもしれないが。
ともかく、その時私のクラスには一人の少女が居て、彼女の存在が私の共感覚を狂わせる一切の法要を執り行った。正確には既に一端は腐り落ちていたのかもしれないし、教室には腐臭が漂っていた。
中でも私は特別彼女のことを気にかけていた。
私も彼女ほどではないが、生まれついて体が弱かったため、彼女の苦しみは身に沁みて分かると、そう思っていたのだ。私はいつでも彼女に寄り添って、お昼は一緒にお弁当を食べ、二人組をつくる時はいつも率先して彼女を相手に選んだ。
内気な彼女は、初めのうちは私が何か話しかけても、俯きながらぎこちなく「うん。」とか「そう。」と返すだけだったが、しばらくすると打ち解けて、少し入り込んだ会話もしてくれるようになっていった。そして、彼女が私にだけ、アネモネのような華奢な笑顔を見せてくれることが何よりも誇らしかった。
唐突を責める気にはなれないが、幼い私にとっては些か酷な話であった。一番初めに訪れた傍題はまさしく氷山を下る雪崩に混じった黒い礫のようで、その回答は死よりもなお深い穴を覗くようなものだろう。
今でも忘れられないのは、あの白々しい笑顔だ。胃の中のモノを全て吐き出して、溶けた青色一号のインクを眼に注したこともあるのだが、実際それが彼女の悲愴に見合うものであったかどうか、青く濁った涙を流している私には推し量ることなどできるはずも無い。彼女が遺した日記帳に書かれた憐憫への呪いは、たちまち私の心を黒く蝕んでいった。
私が亡霊に見初められたのは、抽象的世界において胸に焦げ付いた根性焼きの跡が、まるで永遠性を携えた空洞だと錯覚されたからに過ぎない。私が生まれたのも丁度その時で、その点彼女は二人目の赤子を身籠っているとも言えなくはない。
鼻先を撫でる風の冷たさに思わず身を震わせる。
春になったとはいえども、夕方にもなるとまだ肌寒さを感じることがある。今はただ夏の温もりを待ち遠しく思いながら、襟元を寄せてみることしかできない。身を貫く風の一筋は柳刃包丁の切っ先を彷彿させるほど鋭い。恨めし気に暮れの空を望むと、宙吊りの白い半月が、空にぽっかりと穴を空けているみたいに浮かんでいた。
深く溜息を吐く。
目を閉じ、心で十を数えると、大分気分も落ち着いてきた。
そして、ふと読みかけの本を鞄に仕舞ったままであることを思い出した。
その本は、私の一番のお気に入りで、十九世紀イギリスにおいて、一人の数学者が、とある少女に贈ったものである。愉快な登場人物や滑稽かつ巧妙な詩の数々、そして何より愛らしく強かな主人公の存在は、当時、閉鎖的な環境に押し込められていた子供たちの冒険心を大いに刺激し、自由に想像することの楽しさを与えた。そして本の一頁一頁に宿る黄金色の光は、未だに色褪せることなく輝き続けている。
私もまた、暗い井戸の底のような病室から薄曇ったガラス越しの太陽を眺めていた幼い日に、この本と出会い、救われた人間の一人だった。それ以来私はどこへ行くのにもこの本を懐に携えて生きてきた。そうすることで、胸の内が仄かに希望のようなもので温かく照らされるような気がするのだ。
何度も何度も読み返して、ストーリーは献呈詩からエピローグまで余すことなく語ることができるようになり、作中の詩は何を見ずとも諳んずることができるようになった。数えきれないほど触れた装丁の角はすっかり丸くなってしまったし、表紙はボロボロに擦り切れてしまっている。
それでも、私はこの物語に――――あの金髪の少女に囚われてやまないのだ。
きっと、これからもこの憧憬は私の暗闇を照らす道標となってくれるだろうという予感が、胸にあった。
そんなことを思いつつ、鼻歌交じりにバッグの中身を一通り漁ってみたのだが、どうもおかしいと首を捻る。いつも鞄の内ポケットに収まっているはずの本が、今日は何故だか見つからないのだ。
何かの拍子に奥の方に入り込んでしまったのだろうかと、鞄の中身を一つ一つ出しながら、再度鞄の中をあらためてみるも、やはりどこにも本は見つからない。あるもの全てを取り出して空っぽになった鞄の底を覗くと、嫌な悪寒が背筋を這い上った。
昼休みの時間にあの本を読んでいたから、その時までには間違いなく手元にあったのだ。だとすると教室の机の中にでも入れっぱなしにしていたまま、忘れてきてしまった可能性が高い。
顔を上げると、乗る予定だったバスが丁度大通りの向こうから、大きくカーブを描いてこちらへ向かってくるところだった。今学校に戻ってしまえば、絶対にこのバスには間に合わず、次に同じバスがやってくるのは数十分後だ。しかし、このバスに乗れば、明日まであの本無しで過ごさなければならない。忘れ物がもし筆記用具だったりと他愛無い類のものだったなら、すぐに諦めがついただろう。しかし、あの本に限っては、私にとって御守りのような、無くてはならない存在なのだ。一時たりとも身から離しておきたくはない。こうしている今にも、バスは排煙を上げつつ近づいてきており、冷たい不安がジクジクと心を引っ掻き始めている。
迷っている時間は無いようだ。
遂にカーブを曲がり切ったバスが、鈍重な獣のようにゆっくりと速度を落として、停車する。ピシーッと音を鳴らして開くドアを後目に、私は立ち上がり、学校へ向かう道を歩み始めた。
どうせ一度バスを逃してしまえば、どれだけ急いでもそれなりの時間は待たなければならないのは分かっていたため、特に急ぐこともなく、移り変わる雲の様子でも眺めつつ、ゆっくりと元来た道を辿る。もちろん春霞を被る街を楽しみたいという気持ちもあったし、それに下手に走って人目を浴びることが恐ろしかったのもある。
私にとって、忘れ物というのは眩暈に似て、まるで胸の内に葈耳を引っ掛けたような煩わしさを与えてくる存在なのだ。まぁ、忘れ物が重荷になるというよりも、実際は視線が微量ながらも、着実に痛覚を刺激する主な因子である。要するに、言語化されたまな板の上で踠く蝶と、凍り付いた羽をもぎ取られる蝶の違いである。明確なのは、空ろにも、確かな鈍痛は、到底一単語に収まるはずも無いという事実である。
ようやく校門まで辿り着くと、校庭でボールを追いかけている運動部の掛け声や、吹奏楽部が演奏している一昔前のヒットソングが聞こえてくる。にわかに勢いを増す人の気配に心細さを覚えながらも、あくまで何気無い表情を保ち、黙々と歩き続ける。時折部活中の生徒とすれ違い、その度に、ただでさえ冷え冷えとした心が寒風に吹かれるような気持ちになったが、特に難なく教室棟へと辿り着いた。
昇降口のドアを潜った途端、それまでの人の気配はことごとく消え失せ、代わりに呼吸すら呑まれるような、暗い静寂が私の体を包み込んだ。もう皆部活のために校庭に出たか、特別棟へ行ってしまったのだろう。教室棟はがらんとして、話し声はおろか足音の一つでさえ耳に入らない。私は待ち望んだ静寂にようやく安寧を得ながらも、しかし硬直した息遣いを緩めることができなかった。
私はなるべく音を立てないように、もそもそと外靴から上履きに履き替える。
廊下に上がって辺りを見回してみると、丁度西日が壁に並んだ窓から入ってきて、黒い影と紅の光とで鮮烈なコントラストを生み出している。先ほどの帰り道と同じように、学校の校舎というのも、状況や気分が変わると全く違った情景を生み出すことがある。特に人の気配が消えた、逢魔が時の辺りは顕著な例だろう。
それは学校というものが青色抜きには語れない存在であるからだと思う。教室の黒板、廊下の壁や連絡ボード、少し灯った靴の先。情緒の波が一色に染まることなど決してないのに、どうして学校が青色なのかは私にも分からない。水族館で白い腹を上にする深海魚が、海を青色と定義するほどの脳味噌を持っているのかは状況次第だが――――条件によっては私の妄想だと揶揄されるかもしれない――――私が知る限りそれは非常に閉ざされた部屋の中でしか成り立たないはずだ。色盲のメアリー博士が示した一連のメモ用紙は全てこの点に直結する。
少年少女の首が拗れる様を傍観するのはそれほど悪くない実験であるようだ。それは遥かに昔に遡るようでいて、たった十数年間の過去が、幾億の輪廻の中で、五十%の表裏を引き裂くことを導き出したのだから。それは生徒たちの気配が消え去った今、私が眼前にしている光景を望めば誰にだって自明に思えるはずだ。
右を見れば延々と連なる紅と黒。
左を振り向けば連々と延びる影と光。
遠近感は急速に失われ、のっぺりと灰色に塗りたくられた壁が近接する。忽然と消失する廊下の先は果たして何処に繋がっているのだろうか。それはきっと蜃気楼のようなものだと思う。
いくら追い求めても辿り着くことのなく、現実を覗いているつもりが、知らず知らず虚像に覗かれるようなものだからだ。遠くから見ている内は永遠の質量を秘めているのに、一度手を伸ばせばこちらを嘲笑うかのように姿をくらましてしまう。謎多き美女が例外なく魅力的であるように、この消失点もまた悍ましい戦慄と共に、耐えがたい好奇心を人に与える。性質が悪いのは、蠱惑的なショッキングピンクの尻尾をちらと覗かせて手招きしていることだ。
或いは私を閉じ込めるこの影の檻もそうだろう。
じりじりと暗闇を焦がす西日から逃れる如く縦横無尽に錯綜する影は、同じく西日に焦がれる私を取り巻いて雁字搦めに縛り上げる――――、少なくとも私の目線からはそのように思える。
しかし、決してこの影の正体は他の何人にも捉えることができないのだ。私がいくら痛みに喘ぎ、騒ぎ喚き散らしても――――、錆びついたナイフで喉仏を掻っ切っても、噴き出した鮮血で奴らの眼球を染め上げても、きっと平然として『迴セ螳溘r隕九↑縺輔>縲』と宣うのだろう。
ともかく、こんな救いようも無い考えを齎すほどに、この空間は捻くれていて、特に今の時分は凄まじい妖氛に満ち溢れているものなのだ。丁度その時、校舎に足を踏み入れた私は、一刹那にこの廊下に漂う異様な空気を感じ取り、ある種の〝予感〟に総毛立っていた。
――――西日に映える校舎の美しいことに今更ながら息を呑む。
窓から差し込む斜陽が、仄暗い廊下に、窓を通して平行四辺形の文様を落としている。それはまるで線路のようで、斜陽の紅と影の黒が、廊下の眩い照り返しに隠された際まで途切れることなく連続している。
改めて校舎の様子を眺めてみると、やはり学び舎独特の空気感というものがあることに気付かされる。昼間、多くの生徒で賑わっている内は、いかにも若者らしい瑞々しい生命力で満ち満ちていて、足音の一つでさえも新芽の芽吹くようなエネルギーを宿しているように思える。しかし、逢魔の時が近づき、生徒たちが居なくなった今は、それとはまた少し違った顔を見せているのだ。青い活気の代わりに、焼け残った灰の山に手を差し入れるような、安堵を伴った温もりが廊下を満たし、数多の泡沫が弾け飛んだようなきらきらが中空を漂う。ゆらりゆらりと揺れ動く金色のカーテンはいつかの甘い面影と重なるのに、セピア色にくすんだ教室の隅に目を奪われれば、忽ち遣る瀬無い切なさで心は埋め尽くされてしまう。この時間帯の学校には、そんな忙しい思春期の最中にある生徒たちの力強さと一種の悲哀が現れているように思えてならない。
私はしばらくの間この情景を前に突っ立ったまま見惚れていたが、西日が更に傾いていることに気付き、携帯電話を取り出してみると、バス停を出てからいつの間にやらニ十分近くが経過していた。慌てて足を踏み出し、この完全なる調和を保った廊下の空気を搔き乱しながら、再び歩き始める。
こうも静かだと階段を上る足音や、微かな息遣いでさえも遠くの方まで響いてゆく。新雪に足跡を付ける楽しみをもって、軽やかな足取りで二階三階と教室への道を辿ってゆく。
そして三階から四階への踊り場へ踏み込んだ時のことだった。
「あれ、物部さん。こんなところでどうしたんですか?」
見上げると、担任が四階のフロアから私のことを見下ろしていた。
何一つ物音がしていないものだから、てっきり校舎内には本当に誰も居ないのかと思っていた。とはいえ、何処からも歩く足音が聞こえなかったのは些か不思議なことではある。大方学校の普段とは異なる様子に気を取られていて聞き逃していたのだろうが、もしかするとあそこで私が来るのを待っていたのだろうか。そう思うと、スキップのような足取りで階段を上っていた私の様子も見られていたのではないだろうかと、少し恥ずかしくなった。
「物部さん?」
担任は返事をしない私の様子を訝しんでか、名前を呼びながら階段を下ってくる。
「……ああ。いいえ。何でもないんです。ちょっと忘れ物をしちゃって。」
「そうですか。じゃあ、また明日。」
「はい。先生。」
会話を生返事でやり過ごし、担任の横をすり抜けて階段を上る。
しかし、たった三歩進んだところで、また後ろから呼び止められた。
「そういえば、物部さんはいつも一人で帰るのですか。」
「はい。そうですが……」
「それでは今日は?」
私は質問の意図がよく分からずに首を傾げる。
「そうですけど、どうかされました?」
「何も変な考えがある気ではありませんよ。ほら、一応この街は安全が確保されているけれども、やっぱり女の子が一人で道を歩くというのは心配ですから。何時の時代にも少しおかしな人はいるものですよ。」
「ああ、なるほど。確かに私はいつも一人で帰っていますけど、先生の言った通りこの街は安全ですから特に危険を感じたことはありませんよ。それに、バスで移動する時間を除いてしまえば徒歩で移動する時間なんてほんの数分ですし、もしそういう人に絡まれたとしても対処は心得ているつもりですから。」
私はこなれた言葉と、そつがない笑顔でやり過ごす。
基本的に一人で行動し続けてきたお陰で、この手のセリフは耳にタコができるぐらい聞かされてきた。その度に同じことを繰り返し話し続けてきたので、すっかりこのセリフも板についたものだ。少々億劫ではあるが、大人たちが周りから浮いている子供にそう声を掛けたくなる気持ちも分からなくはない。それにこの問答であれば、邪険に振り払うよりもその後のお互いの気まずさは大分緩和される。立てずともよい荒波は立てない方が吉であろう。
しかし、担任はいつもの笑顔を寂し気に崩して言う。
「確かにそうですけど、貴女がクラスで、いつも一人でいるとやっぱり教師としては心配になってしまうんですよ。そうですね、実際物部さんが一人で帰っているだとか、そういうことはどうでも良いんです。もしかしたら物部さんは一人でいるのが絶対に楽だと思っているのかもしれませんが、色々な人と関わってみると、案外気の合う子もいたりするものですよ。」
私は少しだけ身構えた。やはりこの人は苦手だ。いつも私を惑わせてくる。
この感覚はどう表現すれば良いのだろう。とにかく苦い。善性の味とはこんなものなのか。そして眩しい。クラクラっとなって、背筋が冷たくなる。今まで色々な言葉を浴びせられてきたが、こんなに心が揺さぶられたことはない。
こういうことは往々にしてよくあるのだ。微笑みと、そして同情や憐憫で砥がれた裁縫針と、利己的な優しさを撚り合わせた糸で肌をチクリチクリと刺してくる。しかし、この人の場合、何故だろう、違う、絶対的な物――――、例えば太陽だとか。そう、ならばこの眩しさにも説明がつく。太陽は影を浮き彫りにする。この痛みはまさにそんなものだ。
戸惑いはあったものの、すぐに私は平常心を取り戻して、白々しい笑みを浮かべた。
「ええ。やってみます。ありがとうございました。」
「でも、くれぐれも無理はしないで下さいね。一日二日で人間は変われるものじゃありませんから。ゆっくりでいいから、話しかけやすそうな人を探して話しかけてみましょう。クラスに一人くらいはそういう子もいるでしょう?」
「――――はい。」
「良かった。じゃあ、また明日。」
「さようなら。」
担任は鷹揚に頷き、満足そうに手を振って階段を下りてゆく。私も張り付いた笑みを浮かべたまま、小さく手を振り返す。
担任の姿が消えても、すぐには歩き出す気分になれなかった。私は挙げた右手もそのままに、その場に立ち尽くす。引き攣った唇の端が意思と関係なくぐにゃりと曲がってゆく。気が付けば、コツ、コツ、という担任の足音が完全に消えていた。
何時の間にか握っていた拳がブルブルと震えている。ただ、夕日が綺麗だった。空に漂う件の冬が見下ろしているのを知っていても、私にはそれを止めることなど能わない。「おかしいな。」と胸の中で私が呟く。どうやら震えているのは拳だけではないらしい。恐ろしくて堪らない。できることならば逃げ出したい。
――――ポツと滴の跳ねた音で私は現実に引き戻される。
知らぬ間に床が濡れていることに気が付き、首を傾げる。拍子にまた眼から冷たいものが零れ落ちた。
「――――あれ?」
私は濡れた目元を袖で拭って、苦笑する。そして重い鞄を背負い直して、登りかけだった階段を遂に登り切った。教室までの道のりは、忙しい足元だけを見下ろしてひたすら歩き続けた。そうしなければまた足が止まってしまうような気がしていた。
形にならない、とりとめない感情が浮かんでは消えてを繰り返していた。心頭に現れた、宝石の粒のような悲しみや怒り、その他形容のしようもない感情の機微が淀んだ渦に飲み込まれて消えていった。時には叫びが喉の奥まで込み上げてきたが、口を通して出てくるのは小さな嗚咽だけだった。
そんな惨めな有様ではあったが、何はともあれようやく教室に辿り着いた。
教室前方のドアを開き、窓際一番前の自分の席へ一目散に向かう。乱暴に椅子を引いて机の中に手を入れると――――あった。手に馴染んだ装丁を探り当てて引き抜くと、見慣れた少女の姿が描かれた表紙が見えた。
今日一番の大きな溜息を吐いて、両腕で固く、固く抱きしめる。もう二度と離すまいとばかりに渾身の力を籠めて抱き締める。本が触れた胸元が暖かかった。胸の内で燻っていたもやもやが、たちまち解けてゆくのを感じた。こうしてこの本に触れていると、今までの悩み事が全て下らないことのように思えてくる。
何はともあれ、この本を取り戻せて良かった。もう恐れることは何も無い。早く家に帰って布団に包まって寝よう。そして熱いお風呂に浸かろう。そうすれば、今日のことなんてすぐに忘れられるはずだ。
そう思って意気揚々と鞄に本を仕舞った、その時のことだった。
「――――その本……好きなの?」
やっと温もりを取り戻した背筋が刹那凍り付いた。
鈴を鳴らしたような、儚い声。その唯一無二の声色の持ち主にはあまりにも心当たりが有り過ぎる。
ギシギシと効果音が付きそうなぎこちない動作で首を回して振り返る。
すると、丁度私の席から正反対、教室の後ろ角の席に座って、じっと私の方を見ている愛莉栖と目が合った。
「あぁ……えぇっと……」
私は言葉に窮し、思わず愛莉栖の視線から逃れるように他所を向く。急激にカッと頬が熱くなってゆくのを感じる。ようやく落ち着いたばかりの思考が、さっきとは別のベクトルへ加速し始めた。
――――彼女はいつからここに居たのだろうか。
ドアを開ける音は聞こえなかった。椅子を引く音も聞こえなかった。いや、一応教室前方の扉は開け放しになっているが、それを考慮しても彼女が初めからこの教室に居たことは明らかだった。うじうじと考えるまでも無い。
とすれば、嗚咽を漏らしながら教室に入った瞬間や、歓喜しながら本を抱き締めていた瞬間も全て見られてしまっていたのだろうか。それならどうして彼女は一言『私はここに居ます。』と声を掛けてくれなかったのだろうか。私の余りに無様な装いを隅でほくそ笑んでいたのだろうか。――――それは流石に僻みがすぎるな。そもそも彼女はそんな風に人を貶めるような人ではない。……たぶん。恐らく。別に特段彼女と親しい訳でも無いので、あの鉄の仮面の裏で実際何を考えているのか想像もできないが。
しかし、どうして私は愛莉栖の存在に気付かなかったのだろうか。いくら愛莉栖が教室の隅に座っていたからといって、普通であれば気付かないわけがない。普通であれば気付かないわけがないことに気付けなかったのだから、それほど取り乱していたことには違いないが……、それにしてもどうしてまたこんなことになってしまったのだろう。
思い返せば返すほどに体中に火が付くように全身が熱くなってゆく。酸欠の金魚のように口を三度パクパクと開いては閉じたものの、声帯からはまともな弁明が生まれてこない。さっきから同じことばかりがずっと頭の中で空転して、どうでもいい所ばかりに目線が泳いでゆく。
「――――もしかして、好きじゃなかった? ごめんなさい。」
私が慌てふためいて落ち着かない様子でいると、愛莉栖は何か勘違いしたのかしょげたように俯く。長い金髪が彼女の顔を完全に隠してしまったため、表情は全く窺うことができなくなった。
その姿があまりにもしおらしいので、別に何もしていないのに――――むしろ自分の方が恥ずかしい思いをしたのに――――悪いことをしたような気分になってしまう。愛莉栖は本当に人形になってしまったように、ピクリとも動かなくなってしまった。
気まずい沈黙が教室を包む。まぁ、正しくはそう感じていたのは完全に私だけの主観であり、元々寡黙な愛莉栖にとってはこれが平常運転で、彼女は気まずさなど毛頭感じていなかっただろうが。
私はその時になって既に先刻の醜態を殆ど忘れかけていた。愛莉栖の反応が私が思っていたものとは全く違ってあまりにも無反応であったので――――この手のマイペースな人間を相手にする時はありがちなことではあるのだが――――拍子抜けしてしまったのだ。むしろどうやって愛莉栖を宥めようかと、珍しく自主的に会話の糸口を探して思案していた。それは愛莉栖の姿を見ていると罪悪感を覚えずに居られないというのもあるし、彼女が私の大好きな本について尋ねてきたというのもある。しかしなにより、私は前々からこの愛莉栖という少女のことについて気になってしょうがなかったのだ。
私にとって、この金髪碧眼の少女は、他の人とは全く違った意味で特別な存在だった。それは私が姿見を覗いた時に最も明確に分かる。私の白い髪、そして赤い眼は、いつでも周りの人の興味を引いてきた。所謂アルビノというやつで、私の人生はこの生まれ持った呪い――――ある人が言うには個性――――によって大方決めつけられたものと言ってもよい。
他の人に善意があるか悪意があるかなんてどうだっていい。現実に私の身を絆すのは専ら前者だった。みんな優しく、だからこそ込み上がる吐き気を抑えるのは酷く冒涜的なようで、また自己嫌悪の渦が巻き起こる。
私には私の世界があり、私の愛情がある。そしてそれは堅固に守られていて、普段は表に出すことが無い。特にこんな姿で生まれた私は人一倍その境界線を守ることに敏感だった。そして、きっとそれは愛莉栖も同じのはずだ。私が思うに愛莉栖のここまで完全な無表情はそれが理由なのではないかと私は思う。
しかし、それを知ってなお私が愛莉栖の世界を覗こうとする理由は、彼女のサファイヤの瞳にある。
私はこれまで生きてきた中で、あれほどまでに強かで、純粋な瞳は見たことが無かった。濡れた睫毛は生々しいほどにあだめいて、脈動する生命の力を余すことなく表出している。そして眼窩に収まる眼球は人の心を遍く見通す水晶玉のようで、こうしてちらと見るだけでも、自分の心の汚れた部分が、さもしい自尊心の前に洗いざらい曝されるような気分になった。
その瞳は鏡だった。そして鏡の向こうには〝理想〟がいる。愛莉栖の瞳の向こうには、私たちが抱く理想――――絶対に叶わない理想が、等身大の姿を得て立っているのだ。人間が少なからず持つ自尊心は、あまりに透明なその像を前にして、どうして穏やかな心でいられるだろう。それはまさしく、私たちが鏡を前にした時、鏡面に映る自分の歪さから目を逸らしてしまうことと同じだった。実際、まともに愛莉栖の瞳を覗き込んでしまった私はその向こう側に醜い欲望を見て、魂が抜けてしまったかのように微動だにできなくなった。
私は愛莉栖のその瞳を見て、初めて『生』とは何かを理解した。これまで周りの大人たちや友人に幾度となく問いかけてみても、いつも曖昧な答えしか得られず、ずっと頭の中をフワフワと漂っていた疑問が、そこに解決した。
だから私はその鏡の向こう側に一体何があるのか知りたくてしょうがないのだ。
――――ふと気が付くとついさっきまで明るかった空が、もう暮れなずんでいた。沈む間際に僅か零れ落ちた斜陽が、俯き加減の、愛莉栖の垂れかかった長い髪を燃え上がるような金色に濡らす。しかしそれも一瞬のことで、すぐに教室は暗闇に包まれる。今は何とかお互いの顔を見るのがやっとだった。
今の愛莉栖は、あの日私が見た姿とは打って変わって、静かだった。サファイアの瞳は相変わらず美しいものであったが、一切の感情が廃されて、鏡というよりはガラスに近かった。まるで人形のようにじっと縮こまっている姿を見ると、この小さな存在自体が全て幻なのではないかとすら思えてくる。
私は一つ覚悟を決めて愛莉栖の席の前まで歩を進める。
「ねぇ、愛莉栖は何でこんな時間に教室にいるの?」
愛莉栖はおもむろに顔を上げて私の目を見つめた。
「――――お父さんを待ってるの。」
「お父さん?」
愛莉栖は小さく頷き、また口を固く閉ざして、押し黙ってしまう。私は早くも会話のリズムが崩れてきたことに内心頭を抱える。しかし、円滑に会話を進めるために、それをぐっと堪え、いつもの作り笑いで対応する。
「お父さんがどうしたの?」
「――――送り迎えしてくれるから。でも今日は遅れるって。」
「へぇ。優しいお父さんだね。」
愛莉栖はまた小さく頷いただけで口を閉ざしてしまった。訊かれたことにはシンプルに答えてくれるが、それ以上のことは何も話そうとしない。今時、システム通りにしか会話できないアンドロイドでも、もう少し愛想のよい返事をしてくれそうなものだが。
またしても会話は行き詰まり、気まずい沈黙が戻ってきた。私は無理をして笑顔を保ちつつ、何か話の切り口はないかと考える。
「あぁ――――、えぇっと、愛莉栖は部活とかどうしてるのかな。今日は休み?」
「――――入ってない。」
「えっ? そうだったんだ。珍しいね。」
愛莉栖はこの質問には口を開かず、ただ沈黙で返した。苦し紛れにやっと生み出した会話が一言だけで一蹴され、ついさっき決めたはずの覚悟は早くも崩れかかっている。
もう静かに教室を出て行ってしまおうかとも考えたが、ふと先ほど担任と交わした会話が頭をかすめた。もしかすると今私は大きな機会を得ているのかもしれない。確かに、愛莉栖はなかなか人に心を開いてくれるような子ではないが、たぶん私にとって最も話しやすい人間は彼女であった。
愛莉栖は無理に会話を成り立たせようとしない。確かに彼女との会話はまどろっこしくて面倒なこと極まりないが、他の人のうそ寒いそれよりかは、大分ましであるように感じる。そこには疲労がある。会話を介して他人の領域への扉を叩く確かな実感があるからこそ、微妙なズレが疲労となって現れている――――のだと思う。ともかく、この感覚は他の人との会話では絶対に得られないものであった。
もちろん、誰からも愛される人間となることが最も良い美徳であるとされる昨今、愛莉栖ような独り善がりな在り方は褒められたものではないのだろうが、私は愛莉栖のそんなところが好きだった。
愛莉栖には聞こえないように小さく溜息を吐き、近くの席から椅子を取り出して愛莉栖と向かい合うように置き直して、そこに座った。愛莉栖は俯きながら、不思議そうに上目遣いで私の顔を見た。
「愛莉栖はさ、この本好きなの?」
私は鞄に仕舞った例の本を取り出して、机の上に置いた。すると今までどんな質問にも無反応だった愛莉栖の瞳が微かに色付いた。
「――――うん。お母さんが好きなの。それで、私も好きなの。」
「へぇ……、奇遇だね。実は、私も同じで、お母さんがこの本好きだったんだ。それで昔誕生日にお母さんが持っていたのをくれてね、それからずっと私の宝物なんだ。私、昔は体が弱くて、ずっと病院のベットで寝なくちゃならなかったんだけど、この本を読んでると憂鬱な気分が吹き飛んでね。凄い元気が湧いてくるんだ。それからいつも、どこへ行くときもこの本を持ち歩いてるの。」
「――――とっても大事にしてるんだね。」
愛莉栖は礼儀正しく両膝に置いていた手を、机の上に出して、擦り切れた表紙をゆっくり撫でた。すっかり陽が沈んでいてよく見えなかったが、愛莉栖の表情がいつもより少し綻んでいるような気がした。
「――――私はこの本を読んでいるといつも思うの。」
愛莉栖は静かに語り始めた。思い返せば、これが初めて愛莉栖の方から自分のことを私に話してきた瞬間だった。
「――――彼女は暗い暗い穴に落ちて寂しくなかったのかなって。私だったら――――とっても怖い。一人ぼっちなのが恐ろしい。それで、きっと何もできない。あの子は本当に勇敢。」
この時、私は折角切り開いた新たな話題を失うまいと、とにかく会話を続けることに集中していた。だから、愛莉栖がわざわざ自分から持ち掛けたこの質問が、果たしてどんなことを意味するのか全く考えずに、間に合わせの言葉をくっつけて、適当に答えてしまった。そして、すぐにそれが手痛い失敗だったと気付かされることとなる。
「それはもちろん勇敢なことには違いないと思う。でも、やっぱり寂しさは感じてただろうし、恐ろしさも感じてたんじゃないかな。」
「――――暗くて、寂しくて、怖いのに楽しくなれるの?」
愛莉栖は私の顔を見上げて、真っすぐ目を合わせた。
「そう。暗くて、寂しくて、怖くても、きっとどこかに明るく光り輝くものはあるはずだから、それを追いかけ続ければいいんだよ。」
愛莉栖の眼の奥にチラリとあの光が現れた。
「――――いつまで?」
私はゴクリと唾を飲んだ。
「――――いつまでも。追いつけなくたっていいんだ。追いかけ続ければ、少なくとも見失うことはない。そうすれば、また一歩先へ進むことができる。」
愛莉栖は私の瞳を穿つように覗き続けた。私もまた同じように愛莉栖の瞳を覗き続けた。
計られていると感じた。言葉の重さを、誠実さを、透明さを。
私は正しい回答ができたのか不安になり始めた。実際それは正答ではなかっただろう。今も刻々と変化し続けている私の答えの、一瞬を切り取った――――しかも劣化したものを差し出したのだから。
理解してもらえないならそれでもよい。それでも、私は少なくとも今の言葉に責任を持っていた。紛れも無い自分自身に対しての責任である。
「私にとってその明るく光り輝くものがこの本だった。私はこの本と共に在れば――――彼女と一緒に在れば、いつまでも、どこまでも先へ進むことができるんだ。」
言葉は思いがけず尻すぼみになって、最後はほとんど消え入るかのようであった。
再び教室は静寂に戻ってしまった。しかし、今度の静寂は、先ほどの気まずい沈黙ではなく、温度を含んだ、どこか安らぎのある空白だった。
薄暗がりの中で、愛莉栖の体温がとても近いように感じられた。その温もりはまるで冷え切った心のしがらみを解くようで、二人だけの暗がりに溶け込んでゆくような感覚でもあった。
ずっと、――――このままこの場所に居られたらいいのにと思った。
そんな考えが一瞬頭を過り、何を考えているんだと思わず赤面する。
「なんてね。私の下らない妄想だよ。あんまり真に受けないで。恥ずかしくなっちゃう。」
慌てて口元を隠しつつ、取り繕ったように告げる。
しかし、愛莉栖は落ち着き払っていて、表紙をなぞっていた手をそっと膝の上に戻してから、口を開く。
「――――私は、そういうとき心の中の親友に語りかけるの。」
「心の中の親友?」
私はポカンとして首を捻る。随分とファンタジーなことだと思ったが、愛莉栖は至って真面目な表情だった。――――もっとも愛莉栖が表情を変えたところで、結局ほとんど無表情と変わらないので何とも言えないが。
「――――そう。彼女は私のことを何でも知ってるの。私も彼女のことを何でも知ってる。だから、何か困ることがあるときは、いつも彼女に聞くの。そうすれば全て上手くいくから。」
「自分の真心に従うってこと?」
「――――多分違う。私は私で、彼女は彼女なの。」
「うーん? つまり、愛莉栖の中にはお互いのことを何でも知っている親友が居て、でもその親友は愛莉栖の意思と独立した考えを持ってるってことかな。」
「――――そう。」
ますます訳が分からなくなってきた。愛莉栖が冗談を言うような人間じゃないことは分かっているので、きっと本気で言っているのだろう。だとすると、もしかしてこれは二重人格とかいう奴なのだろうか。愛莉栖が、二重人格。なんだか想像できない。というか、二重人格も一応は病気の一つなわけで、そんなデリケートな話題について安易に触れてもよい物なのだろうか……
私がそんなことを悶々と考え込んでいると、愛莉栖がまた私に問いかけた。
「――――ねぇ、幽微ちゃん。」
「は、はい? どうしたの?」
考えごとをしているところに話しかけられて、思わず変な声を出してしまった私の目を、愛莉栖は深く覗き込む。私はそれが何だか気恥ずかしくて、少しだけ目を逸らしてしまった。すると愛莉栖は、あろうことか私の両頬にあの白い手を伸ばして、むぎゅっと挟んだ。
「ちょっと愛莉栖?」
「――――いいから聞いて。ねぇ、幽微ちゃん。幽微ちゃんは本当に何も覚えてないの?」
「……? それはいったいどういうこと?」
さっぱり意味が分からず、私は質問を質問で返してしまう。すると愛莉栖は無表情に少しばかりの失望を滲ませて、両手を元に戻してしまった。
「――――いいの。分からないんだったら、それで。」
愛莉栖はそう言って話をそこで終えてしまった。しかし、向こうから問いかけてきたにもかかわらず、そんな風に話をぶち切りにされてしまうと私の方が逆に気になってしまう。そこで私が再び愛莉栖に訊き返そうとした、丁度その時だった。
「愛莉栖! 遅れてすまなかった。迎えに来たぞ。」
振り返ると、開きっぱなしだったドアの前に一人の男が立っていた。
男はこざっぱりとしたスーツの第一ボタンから袖の先までキッチリと着こなしていて、如何にも良い立場の男といった出で立ちをしている。相変わらず教室の中は暗くて顔までは見られなかったが、長身で落ち着いた雰囲気がひしひしと伝わってきた。
そんな風に観察をしていると、男も私の存在に気付いたようだ。
「おっと。これはこれはお嬢さん、愛莉栖の話し相手になってくれていたのですか? ありがとうございました。知っての通りうちの子はどうも内気でねぇ……、なかなか友達をつくろうとしないんですよ。どうかこれからも仲良くしてやってください。」
話しぶりからしてこの男は愛莉栖が待っていると言っていた父親らしい。
「あぁ……、もちろん……」
愛莉栖の父親の慇懃な態度に思いがけず気の抜けた返事をしてしまった。しかし彼は私の失礼な振る舞いにも気にすることなく、「ありがとうございます。」と優しく返した。
「さて、愛莉栖そろそろ帰ろうか。」
「――――うん。」
愛莉栖は席を立ち、鞄を手に持って父親の傍へ行く。
「それじゃあまた明日。お嬢さんも早く帰りなさいな。」
愛莉栖の父親は娘の手を取って、去る間際振り返ってそう言った。愛莉栖も空いている方の手で小さく手を振る。
「はい。そうします……」
かなり遅れて口から出た返事は、空っぽになってしまった教室に虚しく響いた。私はほんの数秒その場に座ったまま物思いに沈んだ。結局、今愛莉栖と過ごした数分は一体何だったのだろう。
ともかく今日分かったのは、人は愛莉栖を人形のようだと言うが、やはりそんなことは無いのだろうということだ。彼女には彼女なりの考え方があって、生き方があって、それを表にするのが少し苦手なだけなのだろう。
――――そんなわけあるか。
そうやって偽善を語る猫は大概にして欲しい。メーデーの鳴り語る海抜二千マイルの墜落艇が落日を見下ろしている。天動説が信じられていた時代、鳥籠の金糸雀が紡いだ物語は大層素晴らしかったでしょう。留め金の外れた望遠鏡を覗くと見えてしまうものがある。一切が退廃に吹かれた未踏の地に足を踏み入れた冒険家が死ぬところ、禁制を侵した自我の芽生えが杭に打たれるところ。私はまたそれに見ない振りをして、見殺しにして、膝を折る。
私は改めて一際大きな溜息を吐き、椅子を蹴って立ち上がると、速やかに教室を後にする。扉を潜る瞬間に、整髪剤の香りが鼻を掠めた。
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