バビロンは鏡面に沈む

斑鳩彩/:p

M.I.A.

M.I.A.

 ――――逢魔時。

 中心都市の大通りは帰宅中の学生やサラリーマンで溢れていた。アーケードの街灯が一斉に点灯して、街から陰を追い出してゆく。

 なけなしの落陽もすっかり沈み、街は夜の帳で覆われた。それにも関わらず、眠らない街は闇を寄せ付ける気配がない。薄く引き伸ばされた夜空には、白々しく笑う三日月が浮かんでいた。

 地下鉄のホームから、蟻のような隊列で郊外へと向かう雑踏の中に、一人紛れて少女は歩いていた。

 少女はありふれた女子高生のように中心都市統一の制服を規律通り着こなし、肩には無骨なバックパックを掛けている。腰まで伸ばした髪は鈴蘭を彷彿させる白で、色褪せた青いリボンを使って首元で一つに結っている。紺のロングスカートから覗く二本の脚は目が醒める程色白で、夜闇に映えて眩しいばかりではなく、青く透けた血管には艶めかしさすら覚える。すらり伸びる首筋は精巧な造りをしていて、眼窩に嵌められたピジョン・ブラッドの瞳と相まって彫刻めいた雰囲気を醸していた。

 愛らしさや美しさを超越した、畏怖すら覚えるそれはもはや神々しさと呼ぼう。夜風に流れる白い長髪も、炎より紅い宝石のような瞳も、ひいてはその一挙手一投足に至るまで、コッペリアの如く納まっていた。

 少女は、大通りの途中で足を止める。そのすぐ傍に建つ二つのビルの狭間に、ぽっかりと、狭く仄暗い路地――狭い路地よりは広めの隙間が正しい――が口を空けていた。誰も見向きしない異界じみたその場所に、少女は躊躇いなく踏み込んだ。

 少女は一つ溜め息をつき、改めて路地を見渡す。道幅は痩身の少女の肩幅程度しかなく、生温い風がゆるかに吹き抜けている。星空は華々しく建つ楼閣に覆われ、その影は怪物を装って少女の背中を睨み付けていた。

 闇が生命体のように振舞うのはよくある事で、特に珍しいとは思わない。しかし殊今日に関しては、それが過剰と言おうか、視界の隅に映る影が落ち着きなく感じた。まるで肉食獣に怯える小動物のように。

 悪い予感を抱えつつ少女は路地の突き当りに着く。真っ暗な空間に一つだけポツンと在る研究所へのドアに手を掛けると、少女が開くのより先に向こうから開かれ、髪を金に染めた長身の女が顔を出した。

「あっ……足立さん。」

「お帰りミア。厄介なお客が来てる。急いで。」

 少女は狭い入り口を潜り、研究所の中へと進む。足立の後に続いて廊下を進み、リビングとして使われている部屋へ入る。

 部屋の中には二人の男が居た。ドアの傍に立っている、白衣を着ている方は研究所の現責任者である白波という男で、部屋に入って来た二人を軽く一瞥する。対して、ガラスのテーブルを隔てて向こう側を見ると、初対面の青年が煙管を燻らせながらソファーに座っていた。

 青年を見た時に、少女は戸惑った。深藍のローブと色褪せたスニーカー、瞳を模した宝石を嵌め込んだネックレスを身に着けたその青年は、とても生き物に思えなかったからだ。視覚で分類するなら間違いなく人間だろうが、多面的に実態を捉えようとするほど亡霊のように姿が透けてゆく。鼓動の波や体温の燈、神経の信号の持つベクトルがそれぞれ独立して動いていると説明すればよいだろうか。本来連動しているはずの身体機能が全てバラバラで断続的になっているのだ。ともかく少女には『それ』がとても人間という風には呼べなかった。

 少女が不審げに睨んでいると、見透かしたように青年は口を開く。

「こんばんは、アンドロイドのお嬢さん。そんなに警戒しなくても取って食ったりはしないよ。」

 青年は中性的な顔に愛想の良いえくぼを作って苦笑し、立ち上がると、ポケットに入れていた右手をテーブル越しに差し出した。

「翔だ。宜しければ握手をして欲しい。」

 少女はしばらく絵の具で汚れた青年の手を眺めていたが、敵意が無い事が分かるとちょこんとその指先に触れる。翔と言った謎の人物はそれで満足して微笑み、頷いた。それも束の間、真剣な顔に戻ると、ソファーに腰を下ろして足を組む。

「さて、本題と行こう。単刀直入に聞く。君は〝神〟になりたいと願うか?」

 質問の意図を計り兼ね、少女は首を傾げる。

 中心都市の成立に伴いあらゆるカルトは完全に廃絶したのだ。それは功利主義を目指した中心都市の科学者が、非科学的な、統制の効かない思想を忌諱して弾圧を行ったからだ。神は中心都市に――現代科学に滅ぼされたといっても過言ではない。あらゆる点において科学の産物であるアンドロイドの少女と、超自然の最たる神は全く相容れない存在だった。

「話はそう難しくないさ。要はこいつを君の心臓部に組み込んで〝最高真理〟を与えようということだ。従来の技術では石の情報処理を最大限生かせるキャパシティを持った依り代が存在しなかったけど、熱力学第二法則の枠に収まらない純永久機関である君だったら試す価値はあるんじゃないかな。」

 そう言うと翔は煙管を置き、今度は左のポケットから何かを取り出し、握った左手をテーブルの上で開く。コロンと軽い音を立てて落ちたのは、血のように鮮やかな紅色の、透明な正四面体の結晶だった。蛍光灯の光を怪しく拡散させるそれは、悪魔の心臓のような、はたまた天使の血涙のような独特のオーラを発している。

 すると、これまで冷静にやり取りを眺めていた白波が目を見開いた。

「〝賢者の石〟じゃないか。時計塔の街が崩壊したときに失われたと聞いていたが。どうしてあんたが持っている?」

「あっちの方は粗悪なコピーなんだよ。今ここにあるのはその原物というわけだ。」

「答えになっていない。例えそれが原物だったなら、尚更どこからそんなものを手に入れたのか問わなければならない。」

 いよいよ解答に詰まった翔は、大きく紫煙を吐いて顔を隠す。

「……それはこの状況において重要ではないだろう。そもそも、私に答える義務も無い。」

「いいや、あるはずだ。そいつの安全性が確実なものであると証明されない限り、実験なんて全くのナンセンスだ。あの街の二の舞にならないと誰が保証できる?」

 二人の間に剣呑な雰囲気が流れる。そんな中、横で様子を伺っていた少女が、唐突に結晶に手を出した。

 結晶が白い手に包まれると、途端に発光が始まる。悍ましい緊張に毛が逆立ち、蛍光灯がジリジリと点滅する。やがて半透明の結晶の中で何かが激しく蠢きだし、破裂するように紅の光が噴き出した。光は部屋全体を赤く覆うと、無数の鎌となって闇を食らい、部屋中から声にならない悲鳴が響きだす。

 少女は狼狽し、慌てて手を離した。刹那、ピタリと結晶の暴走は止み、部屋には静寂が戻った。心なしか部屋の気温が上がったようだ。

 少女は青ざめた顔で震えながら「わ、わたし――」と言いかけるが、すぐさま傍にいた足立が少女の肩をそっと抱いて、遮って声を上げる。

「ちょっと。アタシには良く分からないから黙ってたけど、この子に危険を及ぼすものならアタシは断固反対するぞ。どこの研究所の人間か知らないけど、お引き取り願おうか。」

 足立は爆発的な凄味を冷ややかな睨みに変えて反抗の意思を見せる。静かな口調の裏には、殺気とも似つく怒りが伴っていた。

 しかし、翔は肩を竦めるだけで軽く言い放つ。

「神の力を得るのに危険が無いわけないじゃないか。私は君たちに選択肢を与えに来ただけだ。拒否するのなら強制はしないさ。――だが、選択次第ではどうなるか分かっているかい?」

 しばらくの空白の後、冬人が答える。

「話の流れからして、〝神の杖〟の事を言っているんだろ。海の向こうの国が遂に打ち上げたと噂を聞いた。」

 〝神の杖〟――一九〇〇年中頃に構想が始まり、それから世間の裏でその存在が囁かれてきた宇宙兵器。過去には机上の空論と鼻であしらわれた事もあったが、先日生物兵器としての改良が施された新型が完成したと公表された。もしそれが地球の何処かに使われたなら、どんな高度な文明も一瞬の内に滅びるだろうと予測されている。

「そのとおり。あれが打ちあがったからには、文明の終焉はもはや目と鼻の先だろう。だが、どうしても止めたいなら、それと同等の力を持つ存在が必要だ。文字通り〝神〟と同等の力を。」

 石はもう光を失っていた。それは先ほど異常を引き起こした時とは打って変わって、平然とそこにあった。

「一日猶予をあげよう。明日の丁度今、〝ミームの巨像〟の展望台で君を待つ。例えノーでも構わない。答えを聞かせてくれ。」

 翔は〝賢者の石〟をポケットにしまい、部屋を出て行く。誰も、何も言えなかった。部屋を満たす重苦しい空気に溺れていた。

 少女は無表情の顔を下に向け、悪寒を抑えるように自分の肩を抱く。事実、寒かった。サーモグラフィーの青では計れない、底知れない寒さが首元まで這い上がっていた。

 胸に吹く空白の風。いたずらに有した無機質な感情が、贋物の心臓を静かに締め付けていた。



 ――――黎明。

 少女が目を覚ました時、時計はまだ五時を回っていなかった。リビングに行ってみてもまだ誰も起きていない。真っ暗な部屋で電気も付けぬままシンクへ向かい、コップに水を注ぎ一口飲む。

 少女は小さく嘆息する。

 答えが一つではない問題というのは、永久機関とはいえ人工知能の一端である少女にとって非常に厄介なものだった。単純な真実の探求であるならコンマ足らずで回答を算出できてしまう。だが、同時に自分の中の何かが問いかけるのだ。それでいいのかと。

 そして、堂々巡りの演繹プロセスの数十週目にして、はたと気が付く。

 静かだった。

 アンドロイドという人ならざる境遇に生まれついたせいか、少女はモノの感情を知る事ができた。それは一種のシナスタジアのようなもので、無機物や風のような事象の一部に確かな感情を見出せるのだ。

 それが今はどうだろう。花瓶のアザレア。蛇口から垂れた水がシンクに落ちて跳ねる音。どこかの電子機器がアイドリングする細かな振動。どれもが息をしていない。

 昨日の石の暴走による一時的なものだと信じたいが、胸の内で騒めく不安な気持ちは既にうず高く積み上がり、今にも崩れてしまいそうだった。鼓膜を劈く静寂が音も無く背後から圧し掛かる。

 目を落とすと手に持ったコップの水面が僅かに波立っている。少女は震える呼吸を下すと、コップを乱暴にシンクへ捨て、部屋を飛び出した。

 研究所の扉を勢いのまま押し開け、路地を走り、大通りに出る。

 少女は胸に手を当て、荒い呼吸を整える。

 朝靄の向こうで、集合住宅の灯りがやっとぽつりぽつりと灯りだす時分だった。通りには自動車はおろか人ひとりとして居ない。星は夜の帳と共に上がり、中心都市の鉄筋コンクリートの骨格が露わになりつつあった。

 落ち着きを取り戻して顔を上げると、青い街を塗り替える光の存在に気付く。

 通りの東から太陽がまさに顔を出そうとしていた。太陽はまるで少女を導くように薄明光線を伸ばす。少女は誘われるままに光の道の向こうへ足を踏み出した。



 ――――少し肌寒い正午前。

 中心都市を後にして早数刻。少女はひび割れたアスファルトの上を歩いていた。今更ながら勢いで外に出たことを後悔する。着の身着のまま飛び出した少女は薄い寝間着姿だった。沁み入る晩夏の風は体を震わせるほど冷たく、思わず肩回りの布を掻き寄せる。

 振り返れば、中心都市のビル群も爪の先程の大きさしかない。道を進めば進むほどあばら家の数が増え、人の痕跡は消えてゆく。かつては黄金の稲穂がたわわに実ったであろう田畑には、今では無数の雑草が犇めき合って競り上がり、もはや壁と変わらない。

 その中に一人、少女は案山子が雑草に胴上げされたのを見つけた。案山子は右腕が朽ち落ち、虫食いだらけの襤褸を身に纏っていて、見るも悲惨な有様だ。少女は真紅の瞳で案山子のへのへのもへじの顔を見上げる。赤眼と『へ』の字で奇怪なにらめっこが続くと、不意に案山子がニヤリと口を歪ませて嗤った。

 ――突如吹いた風が少女の髪留めのリボンを空高く飛ばしてゆく。少女は「あっ」と小さく叫び、案山子を置いて、慌ててリボンを追いかけてゆく。後に残された案山子は風に曝されてフラフラと手を振った。

 飛ばされたリボンは幾つかのあぜ道を超え、森に入ってすぐの草の上に落ちた。少女はそれを見つけるとすぐに駆け出し、拾い上げる。拍子に下から、花弁が欠けたドクダミの花が起き上がって体を震わせる。少女は「ありがとう」と小さく言い、リボンについた土を掃う。

 それを結ぶのに顔を上げると、目の前に不自然に角ばった岩があるのに気づいた。リボンを結ぶ手もそこそこに見上げると、それは大きな石段のようだ。

 少女はしばしの逡巡の後、足を踏み出し登りだす。石段は端々が苔生し、崩れかかっていたが、なんとか階段としての原型は保っている。足元に気を付けつつ、ひたすらに石段を登ると、にわかに視界が開けた。少女は眼前にした光景に思わず目を見開く。

 仁王立ちで構える朱塗りの鳥居。片割れを失った狛孤の阿像。斜に傾いだ社殿はその跡すら覆い尽くす勢いで、葛がびっしりと纏わりついている。階段から一直線に伸びる砂利道を辿れば、一際目立つ絢爛な拝殿が見えた。

 ついぞ実物は見た事が無かったが、少女のメモリにはこの場所の名前――神社という名詞が確かに刻まれている。

 肌に感じる杜の空気は生命の気で飽和していて、呼吸の一つ一つ毎に体中の回路が活性化してゆくのを感じる。見上げれば木漏れ日が揺れ、そのどこかで閑古鳥が鳴いている。五感では説明できない底知れぬ妖しさに総毛立つ。

 例に漏れず、神道もまた他のカルトと共に廃絶した存在だったが、こんなところで遺物に巡り合うとは思わなかった。丸くなった門柱の傍に行き、掠れた溝を指で擦る。しかし期待して這わせた指はつるりと滑るだけに終わった。名前を失った門柱は、語る口も失ってしまったようだ。少女はがっかりして肩を落とした。

 ――その時、少女は脛のあたりに何かフワリとしたものを感じた。驚いて足元を見ると、一匹の石の玉を咥えた狐が、脚にすり寄り顔を見上げていた。

「あっ……」

 少女は戸惑いつつも、手を伸ばして狐の顎を撫でる。すると狐は炯々とした眼を細め、少女の脚に尻尾を巻き付けた。

 少しの間狐はそのまま撫でられるままにされていたが、不意にするりとその手を抜けると、しなやかな動きで林の中へと逃げてゆく。しかし、すぐに岩の上に姿を見せ、振り返る。

 ついて来いと言っているようだった。少女は寝間着の裾を捲り、茂みに入って狐の後を追いかける。少女の足は野生の狐に比べればはるかに劣っていたが、狐が少し進んでは振り返りを繰り返して、進む速度を調節してくれているおかげで、なんとか見逃さずに追いかけられた。

 そうして草をかき分けて進むこと数分、忽然と杜の濃密な空気が消え去った。着いたのは見晴らしの良い崖だった。

 崖の際には高さ一メートル程の古い碑が建っており、その上に女性らしき人影が座っている。女性らしき、というのは狐の仮面を被っている所為で顔が見えなかったからだ。身に纏っている着物は所々擦り切れていたが、元の豪奢な色合いを伺わせるには十分な覇気を放っている。例えるならば、絵巻の平安貴族のような雰囲気を持っている。

 少女が恐る恐る近づくと、女性は少女の方へ振り向く。

「えっと……こんにちは。」

「――待っていた。」

 女性は隣に座るように促し、少女は従う。

「私はウカノミタマという者だ。主がここに来るのは知っていた。定められていた。他でもない我の力によってな。」

「――? どういう事でしょう。」

「曰く、人類史の命運を背負うもの。曰く、神の新生。そんな主と話をしたいと思ったのだ。」

 ウカノミタマはそう大仰に切り出すと、鉄のように冷ややかな面を少女の方へ向ける。そして深く息を吸い、芯を震えあがらせるような、それでいて優しい声音で語りだした。

「何を隠そう我は神だ。まぁ、神だったといった方が正確ではあるが。顔無しに成り果てた我に、神という名は相応しくない。」

「――つまり何が言いたいのですか?」

「なに、迷い子に宣託を向けようというのだ。迷っているのだろう?」

 狐面の真っ黒い覗き穴から目を背け、少女は膝を抱き締めて遠くを見遣る。森に濃霧が掛かり、色濃い木々は漣のようにユラユラと揺蕩う。それはモネの油絵のようでもあり、少女の今の心情のようでもあった。曖昧な境界線で構成された幽玄の美は、少女の心の針を緊張にも、安らぎにも振れさせた。

 迷い。

 ウカノミタマは仮面の向こうで同じ世界を見ているのだろうか――おそらく違う。そうでなかったら、この崖に吹く風がこんなにも冷たい訳がない。

「それなら、教えて頂けますでしょうか。私はどうすべきでしょう。」

 ウカノミタマはたおやかな仕草で少し離れた崖際を指す。

 灰色に塗り広がる霞の向こうに、人間らしき何かが居た。ぱっと見た姿は、紺のスーツに身を包んだ、中肉中背の紛れもないサラリーマン。しかし、すぐに首が巨大な白熱電球に挿げ替えられている事に気づく。鎖骨の辺りでこれまた巨大なソケットと胴体が癒着しているらしいが、およそ信じがたい。一見グロテスクに思えるその容姿だが、楽し気に狐と戯れる姿が一周回って滑稽で恐怖は覚えなかった。

「彼は君と同じもの。科学の怪物だよ。」

「私と……同じですか。」

 電球頭は二人に気づき、体の半分はあるアンバランスな頭を器用に起こして近寄ってくる。

「人造人間。それも完全ではないが永久機関だ。主の兄妹といっても過言ではない。」

 近づいて分かる。彼は自分と同質だと。心臓に刻まれた呪いが彼の心臓にあるものと同期する。

 温度を知らない生命の証。神を嘯く夢想の薔薇。しかし、彼の心臓には確かな温もりもあった。

「…………」

 電球頭は少女の目の前まで来ると片膝をついて、少女ヘ右腕を伸ばす。その手には真っ赤な彼岸花が握られていた。

「ありがとう。」

 少女がお礼を言うと、電球頭はフィラメントをチカチカと点滅させる。彼なりの喜びの表現らしい。その姿を見て少女は胸にちくりとしたものを感じた。自分には無いものを彼は持っていた。彼岸花の白露が指を伝って地面に落ちる。一瞬の冷たさも風に吹かれて零に還った。

「我はこの世に生まれてから、神とは――つまり、我とは何かであるのかを考え続けてきた。」

 ウカノミタマは物憂げな視線を仮面の奥から向ける。

「逆説的ではあるが、思うにそれは〝偶像〟であると思うのだ。我やこの電球頭のように、人間が望む絶対的権能を体現した存在。力の有無ではない。信仰対象として作られたものの総称だ。」

 巨大な電球を通して、一つの街が歪んで見える。向こう端が見えない巨大なクレーターと、その中に沈む面影も無いほど徹底的に壊された街並み。その中心では時計塔が逆さに刺さって地を穿ち、垂直に伸びて天上を穿っている。その様はあまりに非現実的で、超現実的で――ただし現実と疑わせない頑強さも伴っていた。

 低俗な摩天楼に驕り、軽忽に裏側へ手を出した人間の末路。贋の神が降臨し、破壊された街。歪みすら当然のように、透明に煤けて退廃に流れるまま。

「しかし主は違う。人類が科学を極め、超越した結果大成した真理。我とは丁度対極に当たる存在だ。だからこそ、真の意味で神に近いといえる。」

 例えば時計塔の街が夢想の花を追い求めたように、電球頭が可憐な花を摘んだように。今、静寂に蔓延る無数の原理に世界は雁字搦めに縛られて、それゆえ人間は人間たる熱を持つ。だから私は――

「私は――冷たい。」

 指先に力が入り、華奢な彼岸花の茎が拉げる。中から飛び出した汁が少女の白い掌を緑に汚した。支えを失った彼岸花は頭から地に落ちる。

 そんな少女の頭にそっと手が乗せられた。

「恐れることは無い。冷酷を知る者は温もりも知る。何故あの男が他でもない主を救世主に選んだのかよく考えてみろ。これが我の宣託だ。」

 この世界の大きな選択の中で、少女は孤独だった。頭に感じる重みも、予定調和の電子シグナルで、私自身のものであるはずの思考さえどこか他人行儀である。

 そう。私の物語は全て――

 唐突に、しかし狙ったようだった。ポケットに入っていた携帯電話が鳴り、取り出す。画面を見るに白波からの電話らしい。少女は受話器ボタンに触れかけて、指を止め、考える。唇を噛んで、目を閉じたまま額に携帯電話を押し当てて、電話に出ようとすることは無い。

「出なくていいのかい?」

「――ええ。」

 存在理由を失くした少女に、あの二人はそれでも居場所を与えてくれた。本来研究対象でしかない少女を、人ならざる者でありながら実の娘のように扱ってくれた。

 少女は孤独だ。それは確かである。少女は冷たい。これも事実である。しかし、少女は空っぽでは無い。決して満たされない器と知っていても、絶えずそこに愛を注いでくれる誰かがいた。例え愚行だと知っていても、少女にとってはずっと意味がある事だった。

 少女は立ち上がる。吹き付ける冷たい風で白い長髪が気高く舞う。

「ありがとうございました。そろそろ行きます。」

「そうか。達者でな。」

 ウカノミタマは一言だけ。

 少女は振り返らない。


        ◇


 ――――再び来る逢魔時。

 不格好なネオンサインの迷宮。

 〝ミームの巨像〟――中心都市の枢軸であり、象徴でもある摩天楼。かつては己が理想のまま天を衝き、今は原罪を掘り下げ闇に溶け込む。現代に蘇ったバベルの塔。神に肉薄する尖塔は朧々として夜の街を見下ろしていた。

 研究機関としての〝ミームの巨像〟を知る人は多くても、その屋上が展望台として開放されている事を知る人は少ない。そこは隔絶された中心都市のなかで、更に陸の孤島となっているのだ。

 エレベーターのドアが開くと、冷たい空気が頬を撫でる。ぼうと滲む視界が、何度か瞬きする間に段々とピントが合って来る。鉄柵の内側はコンクリートをひたすら塗り固めた殺風景。引いては寄せる夜光虫のような街の光が不思議と情緒深い。

 予告通り翔はそこにいた。鉄柵に背を預けながら煙管を喫んでいた翔は、少女に気付いて片手を上げる。

「来てくれて嬉しいよ。その顔を見るに、心持は決まったようだね。」

 翔は大きく紫煙を吹く。清涼感のある毒が風に乗って少女の鼻先を微かに掠め去った。

「――で、どうなんだい?」

 翔は無関心そうに言った。

 少女は翔の傍まで歩いて、同じように柵に背を預ける。地平線を見遣れば満天の星と、鏡写しにして街の夜景が望める。どちらも似たようで、微妙に違う。だからどちらが正しいかという問いは愚問だ。

「随分と悩みましたが――お断りさせて頂く事にしました。」

「……そうか。理由は?」

 あくまで無関心そうに、しかし翔の口元が綻んでいるのを見逃さなかった。

 少女は目を閉じる。まだ瞼の裏には街の景色が残っている。

 ――誰もが真善美を求める街。真善美以外が存在しない街。

 一元論の神話。功利主義の喜劇。全能の証明式。

 簡単な矛盾である。故に誰一人気付かない。

 善性のジレンマ。一過性の幸福論が諭すインスタントエンドルフィンのフラッシュバック。

 偶像崇拝。

 しかし、例えそれが鏡面の軌跡だとしても、少女は無下にできない。

終焉とは本来否定できないものだ。存在は相剋する。終焉は時に開闢でもあるのだ。誰かの善は、誰かの悪であるし、否定は肯定を内包するもので――――

 ――結局ただの言い訳に過ぎない。

 少女は透徹した眼を見開き、虚空を睨んで言い捨てた。

「私は弱いので。ヒロインになる事が怖かっただけです。それだけ。」

「――そうか。」

 二人の視線は交わらない。

「まぁ、いいさ。私は君を尊重するよ。私自身、そんな君じゃ無ければ選択肢を与える気すらなかっただろう。シケモクは蒸かしても不味いだけだし、良い事なんて一つも無い。」

 翔は最後に紫煙を一吹きすると煙管をポケットにしまう。そして手を出すと、代わりに〝賢者の石〟が握られていた。

「これは君にあげるよ。私には不要なものだからね。」

 少女は一瞬警戒したが、もともとこれはただの石なのだ。少女がそう望まない限り。恐る恐る石を手に取ると、カチリと音を立てて四つに割れた。

「さぁ、行きな。帰る場所があるんだろう?」

 少女は手を握りしめ、顔を上げる。

「――ありがとうございました。」

 呼び出したエレベーターが着く瞬間、きっとこの夢は終わる。少女は現実の波に押し流されて、今日は切り取られたページのように遥か遠くへ。灰の中にその断片でも残るなら、それでもいいと思えた。

 ――例え世界が終わったとしても。

 液晶の点が『R』を象り、エレベーターのドアが開いた。中に入り、振り向く。

 遠近が歪んでゆく。

 翔は変わらず鉄柵に凭れていた。そういえば、彼に一つ聞き忘れていた。

「あなたは――何者なのですか?」

 この問いが翔に届いたとは思えない。風が吹き荒ぶ中で、少女の声はとても小さかったからだ。でも、答えは当然のように返ってきた。

「さぁ? 私はただ〝凡〟だけを知る者だよ。」

 浪々の尖塔は中心都市の夜景を遥か天から見下ろす。際限ないリアルと、青一点に収束した街明り。 

 鏡面上に在るのは、ただ己が虚像のみだった。

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