「なんだ、こいつ……」

「マツリさん……」

 とある実験室。今目の前で起きたことに河口、松田は絶句した。室内は騒然としている。

「何が起きたんだ……」

 騒ぎを聞きつけてやってきた時雨があたりを見渡すと、砕け散った機械のかけらが、床をえぐって埃を舞わせていた。その部屋の中心で、マツリは目を閉じたまま座っている。

「なんの実験をしていた?」

感情ノイズ挿入です。無反応に近い状態だったので、規定の時間よりも長くインプットしたら……」

「精神限界値は」

「突破していませんでした。しかし、一瞬だけゾーンレッドを示しました。その瞬間……」

「こうなったというわけか」

 時雨がマツリを見下ろした。

「……やはり、この少女が、ヌメロゼロだった」

 河口はその言葉を聞くと、俯いて顔を背けた。なぜだか、直視したくなかったのだ。

「脳波をもう一度測定しろ。なにかしらノイズがあるはずだ。それから、松田」

「はい」

「ゾルバのメンテナンスが難航してる、一度あちらのプロジェクトにまわってくれ」

「はい」

 松田は頷くと、周りに指示を出し、部屋から出て行った。

「……マツリさん」

 今度はうなだれているマツリに向かって、時雨は声をかける。

「解ってて帰ってきたのか?」

 その問いに、マツリは目を閉じたまま何も答えなかった。

 砕け散った壁の破片達や抉られた床を見たくなかったし、自分の意思とは関係ない感情が吐き出された後の体は、しようもなく震えたからだ。


 夜、メグが来なかったことに安堵した。ドリーが頼んだ通りに来るなと伝えたのだろう。また、格子こうし越しの空が見える部屋にぽつねんと一人だ。

 いまだにマツリの手は震えていた。

 感情を弾き出した後のこの感覚。力が体に入らない。心の一角が空っぽになったように感じる。体が重く、ぐったりとする。

 そんな時、河口が食事を運んだきた。

「遅くなった」

 一応詫びたつもりなんだろう。

 マツリは無言で顔を上げた。

 河口は机に食事を並べながら、マツリのほうを見ずに呟く。

「修理代、莫迦にならないんだとよ」

「……すみません」

「暫らく感情挿入はない」

「分かりました」

「……自分が何をしたか、はっきり分かるか?」

 河口の問いに、マツリは少し考えこんだ。言語化することが難しかったから。

「風……」

「風?」

「身体から、風のような、透明で、ものすごいスピードの大きな力が、弾き出されるんです」

「悔しいと思ったら?」

 挿入されていた感情は『悔しさ』だった。

「なんでも」

「なんでも?」

「特定の感情に反応するんじゃない」

「……他のブラックカルテとは、少し違うな」

 河口は言ったが、マツリは黙っていた。

「明日は、何をするんですか?」

「他のブラックカルテとは違うからな、ちょっとまだ対応策はでてないらしい。ただ、あの力の正体を知りたいから、後日装置が直ればもういちど感情挿入……あ、明日以降、定期的に脳波を測定するな」

「……なんだか今日はお喋りですね」

「そうか?」

 河口は驚いたようだった。自分でも意外だったのだろう。

「訊いていいですか」

「なんだ」

「河口さんが、もし、ブラックカルテだったら、どうしてました?」

「……」

 沈黙、の後、彼は口を開いた。

、だ」

「え?」

「俺は、だぞ」

 念を押すように。

「はい」

「死ぬだろうな」


 ――ああ。もう、たくさんだ。



 18話 終

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