10

「マツリ!」

 メグがマツリを呼びながら工場へ入ってきた。その瞬間、脚から凍りつく。

「おま……え」

 そいつは暗闇から悠々とやってきた。そしてメグとすれ違う。

「ゾルバ……ッ!」

 メグは声を漏らし、振り向く。ゾルバは立ち止って笑っていた。工場の窓から漏れる月明かりで、よく顔が見えた。

「お前、此処で……何……」

 メグが言葉を詰まらせてやっとそう言うと、ゾルバは薄ら笑った。

「彼女。待ってるよ」

「……お前、何を……ッ」

「早く行かないと」

 飄々ひょうひょうとゾルバが笑う。その瞳は絶対零度。背筋が凍るほどの冷たさだった。

「……マツリ!!」

 堪えかねたメグは彼を放って駈け出した。暗い工場、暗い世界。灰色の世界。一心不乱に彼女のもとへ。ゾルバはそんなメグの背中を見て不敵に笑い、大きな音の鳴る戸を開けて工場の外へと出て行った。


「マツリ!」

 耳に自分の名前が届いて、顔を上げようとしたのに、何かがソレを許さない。

「マツリ!」

 メグの声なのに。メグの優しい手なのに。すぐそこに在るのに。動けない。

「大丈夫か! マツリ!」

 差し出された手は、優しいのに。


 ――バシ!


「っマ……!」

 メグが驚いて、言葉を詰まらせた。弾かれた手は、力ない拳になっていた。そして、その手を重力に任せた瞬間、メグは息を呑んだ。暗闇に慣れ始めた目で、マツリを捉えたのだ。

「…………マツリ?」

 その時、マツリもまたメグを見上げていた。


 見たこともない表情で、泣きながら。


 ***


「ゾルバ?」

 電話越しに椎名シイナは聞き返した。

「なんだ今更。二番目のブラックカルテのことか?」

 メグは携帯を耳に当てて、目を細めた。

「あいつ、いつ施設でた」

「や、知らないよ。少なくとも俺が国光ここに来てからは聞いてない」

「……そうか。アイツのこと、なんか分かったら、また教えてくれ」

「え? なに、会ったのか?」

「会ってねぇ!!」

 ブツ! 

 ――通話終了。

「……なんだぁ?」

 椎名はぶぅたれた。――理不尽ですよ。最近の高校生は。


「マツリ」

 通話を終えたメグがマツリに声をかけたが、マツリは何も答えなかった。

 静かに泣き続けていたマツリをなんとか彼女の家まで連れて帰り、座らせてしばらく経つが、彼女は呆然とするばかりで何も言わない。背中を向けたまま動かない。

 あの時、マツリの表情と涙に気を取られていたが、その格好を見れば、マツリの涙の意味はよく分かった。

 こすりすぎて赤くはれた唇も、乱れた襟元も、震える身体も。言葉以上に語っている。反面、マツリの沈黙は重かった。メグの拳は怒りを抑えられずにいた。

「……マツリ」

 もう一度呼びかけても、彼女はこちらを見ようとしなかった。

「あの人、誰」

 それだけ呟いた。

「……ゾルバ。チギリ ゾルバ」

「知り合い?」

「二番目のブラックカルテだよ」

 また黙りこむ。

「マツリ」

 メグが手を伸ばしてマツリの肩に触れた。

「!」

 彼女はメグがびっくりするほど身体を揺らし、身構えるように振り向いた。

 口がさっきより腫れている。目から涙は流れてはいないが。

「わり……」

「違う」

 マツリは小さく首を振る。メグを拒絶したいわけじゃない。

「ゾルバは……、カエデと同じように俺を、憎んでる」

 噛みつかれて赤くなったマツリの首元を見て、メグは眉間にしわを寄せた。声は穏やかだが、心の中では何かが沸騰している。

「メグ」

 マツリがまっすぐメグを見上げる。

「今、その化け物は、私を食べてはくれないの?」

「…………残念ながら」

 食べさせろと、唸っていた。

「ごめんね」

「なにがだよ」

「こんな、ことになるつもりは。なかったの」

「え?」

「こんな、怖いとか。おも、……のは」

 マツリの声が、消え入りそうだった。怖いと思う事は、メグを傷つけるとマツリは分かっていた。

「ごめん……メグ……っ」


 そうやって懺悔ざんげするマツリを見て、メグは心の底で低く、けれど激しく呟いた。


 ―――あぁ。絶対、ぶっ殺す。



 第16話 終

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