9
「よ」
柄にもなく声を出しながら這い上がると、天井はあっというまに床になった。
「メグ……?」
あたりを見渡した。けれどそこには誰もいなかった。
――メグは私が此処から下に落ちたのを見ていたはずなのに、どうして追ってこなかったのだろう。
その不自然さに不安が膨張する。マツリはメグの名前を呼びながら工場の中を歩き始めた。
「メグ」
返事はない。
「メ……――」
マツリは「あ」と小さな声を漏らした。黒い影が機械の隙間から寄ってきたのだ。男の子だ。メグだ。
一体どれくらい寝てたんだろう。あたりはすっかり夜になっていて、月明かりしかない工場内では彼の顔がよく見えなかった。
「メグ……っ」
ほっとしてその影に近寄った時だった。差し伸ばした手が、乱暴に掴まれた。
「えっ」
一瞬だった。そのまま引っ張られて、彼の方へ強引に身体が引きずられた。
「メ……っ」
はっとした。
メグじゃない。
「…………誰」
背格好こそよく似ているが。メグじゃない。髪の色もよく似ているが。メグじゃない。
「放して……」
黙っている彼は、メグじゃない。口をつぐんでる彼は。メグじゃない。
誰だ。この同い年くらいの、外国人っぽい男の子は、一体誰だ。
「放して」
もう一度乞う。
「お前、大蕗 祀?」
「!」
びくっとした。声が、メグに似てて。いや、似すぎていて。
「お前、メグの女なんだって?」
「……放して」
何故か、声がかすれた。
「お前さぁ」
まっすぐ見上げると、その男の子はふっと笑った。
「あいつと――」
「放してっ!」
思わず、強く言い放った。
敵意を感じるわけじゃない。この子が国光の追手だなんて、馬鹿げた想像力だ。何が悪いわけじゃない。ただ、ぞっとしたのだ。怖いと感じて、背筋が凍ったのだ。
だから、逃げようとした。
けれど、それは叶わない。掴む力が強くて腕が折れそうだった。
痛い。
頭が痛い。
すごい音がして冷たい機械に打ち付けた。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
冷たい指が喉もとに触れる。冷たい手が手首を放してくれない。
それは
目をつむることなく逃れようとする。けれど、身体が震えてうまくいかない。
冷たい手が無秩序に体に触れて凍えそうなのだ。恐怖で凍った背筋がますます冷える。
ああ、この殺気で凍死できる。さっきの「放して」がどうやら可能な最後の抵抗だったらしい。
逃げられない。拒否できない。そこまで追い込まれると、もはや、眼を開けてられなかった。
――眼を閉じるのが怖かった。
だって眼を閉じてしまえば、次に眼を開けた時に広がっている景色の理由を知ることができない。
目の前が血の海になっていたとしても、その景色の経緯を知ることができない。
だから、眼を閉じたくなかったのに。メグに押し倒されようと、絶対に眼を逸らさなかったのに。
あぁ、どうしよう。次に眼を開けたら、母の時と同じように血の広がる世界だったら。その血が、私のものでなかったら。
そしたら殺して。
きもちわるい。
脳が、揺れる。
唇が、温かくて、冷たい手が、氷みたいで。
その氷が、心臓から二センチの所で滑ったようで。
いっそ、今死にたい。
メグ。今、来て。それから殺して。私を。
もう、二度と眼を開けたくない。
ガシャーン!
遠くでけたたましい音がした。
誰かが工場へ入ってきた音だ。でもそれすら、死へ堕ちる音に聞こえた。その瞬間、冷たい指先が体から離れ、無駄に呼吸を許される。このまま沈んでしまいたかったのに。
白く狭い視界から、少年が去っていくのが見えた。
ぞっとした。だって、笑ってた。
膝が震えすぎて、立っていられない。ガクンと膝が床に落ちた。同時に手のひらも床を叩いた。
そこに血はなかった。それだけが救いだった。
「…………ッ」
絶句だ。
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