「楓ええええええぇぇぇぇぇ!!!」


 メグが叫ぶ声と地面を打つ鈍い音が乾いた工場内に響く。同時にびちゃっと血が跳ねた。マツリはただ眼を見開いて、彼女が倒れるのを見ていた。

 ひどい光景だった。

「楓ッ!」

 メグの声に掻き消されるように、大きな白い影はぼうっと立ち消えた。メグが楓に駆け寄り、身体を抱きかかえる。その瞬間、彼の左手の化け物も姿を消した。

「楓! おい!」

 彼女はもう何も言わなかった。嫌いと、叫ぶこともなかった。死ね、とも言わなかった。寂しい、とも言わなかった。

 メグの髪にも、マツリの髪にも、赤い血が滴っていた。あの化け物が楓を噛み殺す瞬間に被った血液だった。

 ひどい、光景だった。

 マツリは微動びどうだにせずに座ったまま、メグと楓の死体を見ていた。そして、こうして此処で死んだ誰かを見つめる自分に、デジャブを噛みしめる。

「……っ」

 楓を抱きあげたまま、メグは声をうまく零せず俯いて固まった。滴り、流れる赤い血を見つめながら。

「楓……っ」

 メグが途切れそうな声で、なんとか彼女の名前を呼んだその瞬間、マツリの心臓はずくんと波打った。

 ずくん。

 ずくん。

 大きく鼓動が鳴る。その振動に突き動かされるように、大粒の涙が右目から左目から、冷たい地面へと落っこちていった。

 マツリは体を引きずった。赤い海へと。目の前の非情な結末へと。前を見据えたまま。汚れた世界を見つめたまま。それは、いっそ無意識だったのかもしれない。

「……う……」

 嗚咽おえつが零れた。涙が止まらない。心臓は今もひどく鳴っている。

 マツリは顔を歪ませながら、手を伸ばした。メグが顔を上げてマツリを見る。メグもまた、渦巻く感情にこらえられないような顔をしていた。そしてそれは、マツリの手を見た瞬間、ついに決壊けっかいした。

「……っぁ」

 メグが声にならない声を吐き出しながら口を開けた。涙が落ちた。眼は開いていられなかった。互いに、探り合うように、手を伸ばした。

「う、あ……ぁ」

 零れる嗚咽はそのままに。二人は身体を引き寄せ合った。ゆっくりと、おそるおそる。手繰たぐり寄せ合った。


 ――なんて子どもっぽい声で泣き崩れるんだろう。

 俯瞰ふかんで、そんなことをぼんやり考えた。こうして抱きしめあって声を上げる二人はもはや、高校生のマツリとメグではなかった。母親を自分の手であやめてしまったあの頃の――自責の念に潰されかけていたあの頃の二人だった。

 あの頃に止まってしまった時間と涙が、今ようやく流れ出したかのように、二人は細い体を抱き寄せて泣いた。

 嗚咽とともに涙を落とす。マツリの肩がメグの涙で濡れていく。メグの肩もまた、マツリの涙で濡れていく。温かいその体すら、もうなんの感覚もくれなかった。

 隣で横たわる死んだ少女。響く雨音。そんな現実に、なにがこんなに悲しいのか、どうしてこんなに苦しいのか、はっきりとは理解できないまま、止まらぬ涙を落とし続けた。


 ――楓は自分に飲み込まれてしまった。


 ***


 後から聞いた話。

 あの女の子の話。


 子どもの頃からひどい虐待を受けてきた女の子の話。

 親から「嫌い」、「死ね」の言葉しか習わなかった女の子の話。

 痛みしか教えてくれない親から生まれた彼女は、その『嫌い』を食べて、消してしまうしかなかった。そうしなければ、彼女は立ち上がれなかった。それは防御であり、生存戦略だった。

 しかし、『嫌悪』という拒絶を食い殺しながら、彼女は『愛情』を欲した。親を食い破った自分の化け物を否定できないまま、それでも誰かの愛を欲した。

 そうして壊れてしまったんだと、聞いた。


 一体、なんだっていうんだ。

 を生んだのは、大人達じゃないか。

 理不尽すぎる話じゃないか。

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