4
――壊したかったんじゃ、ねぇよ。
最初に絶望を覚えたのは、死を見た日。
母が死んだ。
眠ったような母が病室から出てきて、俺の前を静かに通りすぎる。
「母さん……」
俺は黒服の大人たちが目の前を通り過ぎていくのを、ぼんやりと目の
その腕を見つめる。見た目には何の変化もない。けれど、疼く。疼く。アイツが今にも出てきそうだ。あの、白い化け物が。
「……ッ」
恐怖に耐え切れず右手で左の腕を握りつぶす。そうやって付いた爪の痕から血が滲む。そんな冬の日、母は静かに死んだ。
涙が止まらなかった。
痛みが止まなかった。
だけど、俺の側には誰もいなかった。
働いて、働いて、母を守ってきた父は、泣いている俺を抱いてはくれなかった。
あたりまえだ。
――この ひとごろし
周りの鋭い眼が容赦なく刺さる。俺の脳内でその言葉だけが延々と繰り返され、次第に埋め尽くされる。
――もっともだ。
俺を一番責めているのは俺だったし、その目線が正しいものであると認めていた。
けれど、そんな俺の
初めに俺が壊したのは、父だったのだから。
「メグ」
不意に父の声が降ってきた。
顔を上げた時、冷や汗がつっと出た。だって、今まで見知っていた優しい父の顔はそこにはいなかったのだ。
やつれて鋭い目をしたその人は、知らない男に見えた。
「来なさい」
「うぁ……っ」
グイっと、力ずくで腕を掴まれる。痛い。すごい力だった。そのままぐいぐいと引きずられるようにして病院を出たことは覚えている。その後
ガシャン……!
その音だけで大げさな鍵が扉にかけられたのが分かった。部屋は電気もついておらず、窓から
「お父さん……」
震える声を絞り出す。
「お……とうさん。……お父さん! お父さん!」
ガンッ
暗闇が急に恐ろしく思えて、壁を強く殴った。涙が出てくる。声が枯れてくる。
「お父さん!」
声は、届かなかったようだ。
そこは地獄のような世界だった。
世界で一番最初に生まれた『ブラックカルテ』。世界中のトップクラスの学者が俺を見にやってきた。
全員が全員、俺を実験台としてしか見ていやしない。どんなことがそこで行なわれたかは、きっと誰も、想像すらつかないと思う。俺はただ、いじくられた。
父が時折あの場所に来ていた。やつれきった俺とすれ違って、一瞬目を合わすと、酷く残酷な顔でうっすらと笑う。そのたび、声を漏らしてしまいそうになるが、きっと、呼んでも声は届かなかっただろう。一メートルの距離にいたのに、俺のことは、きっと、見ていなかった。
それから俺の左手は日々その凶暴性を増していった。誰かの恐怖を、喰いたくて、喰いたくて。叫びのようなものが、聞こえるのだ。幻聴かもしれないし、本当にあの化け物が叫んでいたのかもしれない。今ではもう分からないけれど、それを押さえつけるのに必死だった。
毎日毎日爪をたてる。あの頃の俺は、俺の意思だけでアイツを押さえつけるのは困難で。酷い時には、叫んだ。
その頃の俺の左手は、どういうわけか何かで引っかかれたような傷が浮かび上がり、殴られたように
――助けて
そう願う一方。『人殺し』という意識に
俺がこんな目にあうのは、当たり前だ。謝っても謝り切れるとは思っていない。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
懺悔すら苦しかったが、それを受け入れる自分もいた。
父が変わってしまったのも、俺のせいだった。
父は、俺の腕が母を襲ったその日、俺をぶん殴ってはくれなかった。それどころか、俺の腕から生えるあいつを見て、明らかな恐怖を示した。
そんな父を見て心臓が止まった気がした。時間が止まった気がした。
父は俺との距離を保ったまま、絶望した目で俺を見た。震えながら。
「とうさ……」
なんとか震える声を、
「喋るなッ!」
俺の言葉を遮るように、父が叫んだ。もう、勇気も言葉も出てこない。
「お前は、なんだ」
そう言った父の声は、酷く冷たかった。
もうずっと。その時から、俺の声は父には届かない。俺の姿は父には見えない。
俺のことは、化け物にしか見えていないんだ。
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