「下校時刻、過ぎてるよ。高橋さん」

 勢いよく叩かれた保健室のドアを渋々しぶしぶ開けた保健医が、いづみの顔を見ていさめるように言った。

「今の……状態のマツリのこと、知ってるのは……先生だけだから」

 いづみは息を切らしていた。

「……買いかぶりだよ」

 椎名ははぐらかすようにそう言ったが、それでもいづみは椎名を睨むように見上げ続けた。彼女の眼にはぎりぎり溢れないくらいの涙が溜まっていた。

「……マツリを助けて」

「え?」

「マツリをてください」

 声を震わせたいづみの後ろにリョウ、それからマツリがいることに気づき、椎名は静かな声で「入って」と言うと、彼女たちを保健室へ招き入れた。


 マツリを座らせ見つめ合うこと数十秒。椎名はため息をついた。

「……これは。やっぱり買いかぶりだよ、高橋さん」

 そしてマツリの背後に立ついづみを見上げて渋い顔をした。

 だって、ここまでやつれたマツリを椎名は想像できていなかった。メグから聞いた話だと、態度や表情は普段と変わりなく、ぽっかりとメグのことだけを忘れてしまったに過ぎなかった。それだけでも、過ぎた話ではあるのだけれど。

「……マツリ」

 マツリはじっと椎名を見上げた。

「手、見してみろ」

 マツリは言われた通りに、すっと手を差し出した。

「……痛まないのか?」

「どうして?」

 ――正気なのだろうか。

 いづみがマツリの手を見つめて、顔を小さく歪めた。

 マツリの右手には、まるでぎざぎざのプラスチックで切り裂いたような、蚯蚓脹みみずばれした傷がいくつも付いていた。勢いよく打ち付けたのか、晴れ上がって内出血もしている。

 はたから見ても、それは痛い。ひどい傷だ。なのに気付いていないかのように、マツリはその腕をぶら下げて、平然としていた。

「マツリ……学校休んで、何してたんだ?」

「……覚えて、ません」

 いづみとリョウは目を見合わせた。

「どうして制服を着て、バス停に?」

「……学校に、行こうと思ったから。……でも、どうしてあそこに座ってたか、覚えてない……です」

 マツリが少しずつ、声を絞り出すように言った。

「……今日、メグとは会った?」

 ぎしっと空気が張りつめた。その数秒間、嫌な緊張が走っていた。

「どうして?」

 マツリのか細い声が、保健室の沈黙を破る。

「私、メグなんて人のこと、知らない……」


 されど、脳が揺れた。


 ***


 マツリの右手の手当てをした後、椎名が車でマツリといづみ、リョウをそれぞれの家まで送ることになった。


「……此処です」

 南町。マツリが家の前でそう言うと、椎名は車を止めた。

「右手、痛まない?」

 椎名が問うとマツリは少しだけ右手の包帯を見つめ、小さく頷いた。

「少しだけ、痛くなってきました」

「……傷に気付いたら、痛くなることもあるからね。あんまり気にしなくていい」

 マツリは頷き、車の扉を開けた。

「マツリ」

 いづみが声をかける。

「無理しないでいいから、怪我が治ったらまた学校で会おうね」

「お大事にー」

 リョウもひらりと手を振った。

「……うん」

 マツリは鈍い返答をして小さく手を振り、家の中へ入っていく。玄関の戸が閉まるのを見送ると、残された三人は深いため息をついた。

「つまり、忘れちゃったのはメグだけ」

 椎名はアクセルを踏みながら、小さい声で二人へと告げる。

「だから君達は安心していいよ。そのうちマツリも学校に来るさ」

 俯いて目線を上げないいづみと、腕を頭の後ろに回し、よそを向いているリョウ。そんな二人を見て、椎名は短く笑った。

「納得いかなさそうだねー」

「……はい」

 いづみが小声で返す。

「ま、あたり前だよねー」

 椎名がバックミラーごしに苦笑いをする。

「うーん。あんまり深く話せないんだけどね。守秘義務ってのがあってさ」

 いづみは沈黙した。義務とは、何に対してのものだろう、と考えながら。

「それでも言えることは、マツリはメグ、もしくはメグに関わる何かによって極度の精神的負荷をかけられ、一時的に記憶を失ったんだろうという憶測だけ」

 二人はしばらくの間、相変わらず黙り込んでいた。

「……先生」

 ようやく、いづみが口を開く。

「ん?」

「メグって、本当に呪われてるんですか」

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