もうすぐ二限だ。

 遅刻だが、学校に行かなくてはという当たり前のことに気づいたマツリは重たい体を持ちあげて、何とか通学路を歩いていた。

「メグ……」

 呟いてみる。今朝、なぜか家にいた知らない男の子の名を。しかし、どういうわけか、その名前を吐き出すたびに、脳が揺れた。

「……っ」

 くらくらして、ついにマツリは立ち止ってしまった。学校までもうすぐ、というところまで来て、すさまじいストレスを感じたのだ。

 ――行きたくない。

 どうしてかは分からない。突然、立ちすくんで動けなくなった。

 ――もういっそ、帰ってしまおうか。

 そう思った瞬間。声が降ってきた。


「やっと来たのね。マツリ」


 はっとした。顔を上げるとそれは可愛い少女――楓が校門の前に立っていた。

「メグの彼女ってマツリだったのね」

 少女はくすくす笑う。

「あのね。先に謝っておこうと思って、ずっと待ってたの」

「……?」

 話が見えない。マツリは首を傾げた。

「マツリは好きだけど、悪いわね」

 楓の瞳に鈍い光が灯る。

「メグは、私が喰い殺しちゃうからっ」

 異常に、物騒なことを言う。そんな彼女をマツリは困惑した様子で見つめた。

 なぜなら。

「誰……あなた」

「へっ?」

 楓は鈍い殺気をその眼から消し、高い声を上げた。

「……ごめん、誰」

 一切、知らない女の子。マツリの眼に楓の姿はそう映っているのだ。

「メグ……も、あなたも、どうして私を知ってるの?」

 不気味なものを見るように、マツリはかすかに眉間にしわを寄せた。そんなマツリの表情を目を丸くして数秒見つめた楓は、突然笑い出した。

「……ふっ……。アッハハハハハハッ!」

 その光景すら、マツリの眼には不可解だ。何を笑っているのか、何を言っているのか分からない。

「……何」

「すっごい……! あははっ、マツリ……っ! やっぱり私、マツリ好きよ」

 楓は本当に可笑しそうにそう言うと、ふうと息を落ち着けて再び不敵な笑顔でマツリを見上げた。


……」


 ***


 ――なんで! なにゆえ! 返事がないんだろう!?

 いづみは焦っていた。こんなこと、今までなかった。マツリからのメッセが全く返ってこない。それどころか、既読にもならないのだ。

 住所など知らない、お見舞いに行くこともかなわない。教師は何も言わないから、きっと学校には連絡が来ているのだろう。そう思ったいづみは、意を決して担任のもとへと向かった。


「住所?」

 担任にマツリの住所を聞くと、彼はいぶかしんでいづみを見た。

「お見舞いに行きたいんです」

「あー……。大蕗オオフキなぁ」

 彼は歯切れの悪い言い方をした。

「俺もよく分かんないだよなぁ、アイツに関しては」

「……え?」

「いやなぁ。住所とか個人情報に関する書類が無いんだよ」

 いづみは混乱した。確かに個人情報に関するファイルなんてものは厳重に管理されてしかるべきだ。けれど、彼は担任だ。把握していないなんてことが、あり得るのか? いや、今担任は『』と言い切った。そんなこと、あり得るのか?

 いづみが言葉を詰まらせていると、担任は時計をちらりと見やった。

「役に立てなくてすまないが、職員会議だ。じゃ、次の大会頑張れよ。高橋」

「え……あ、はい。し、失礼しました」

 いづみはもやもやとした心をたずさえたまま会釈をし、職員室を後にするしかなかった。


 職員室を出たとき、保健室からちょうど出てきた椎名に出くわした。

「……椎名先生っ」

 個人情報とはいえ、健康データに関するファイルなら、彼も持っているかもしれない。思わず呼び止めると、椎名は金髪をゆらりと揺らして振り向いた。

「あぁ、高橋さん。なにしてんの?」

「や、あの……六組の大蕗さんの住所を教えてもらおうと思って……」

「あー、なるほどね。無かったでしょ」

「え……っ! あ、はい」

 やはり彼もマツリに関する情報を『無い』と認識していた。いづみは愕然がくぜんとした。

「まぁうちの学校は、特別な保護プログラム下の生徒の受け入れを、積極的にしてるらしいから、そう珍しくもないみたいだけどね。俺も知らないなぁ……。ああ、でもメグなら知ってるかな」

「え……?」

 学校のそう言う体制のことも初耳だったが、何より、『』。保健医はマツリとメグの関係値を知っている? それはあからさまな違和感。

「でも、今はメグにマツリの話はしないほうがいいかな」

』。しかも呼び捨てにした。

 ――いったい、彼は何を知っていて、何を言っているのだろう?

「それ……、どういう意味ですか。先生は、何を……」

「メグがマツリをね、壊してしまったんだ」

「……へッ!?」

 ドクン、と心臓が鳴った。やはり、マツリの身に何かが起きているのだ。

 ――壊された? ナニソレ?

 混乱を極めるいづみの胸の内を察したのか、椎名は優しく微笑んだ。

「大丈夫」

 けれど、続く言葉に心が凍る。

「マツリは、君を忘れてない」

「……え?」

 それだけ言うと保健医はにっこりと笑い、白衣をひるがえし去って行ってしまった。


 いづみは立ちすくむ。分からないから。

 汗がにじむ。未知の恐ろさがそこにあるから。

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