少し涼しい中庭でスケッチブックに鉛筆を滑らせながら、マツリはぼんやりとその風景を写し取っていた。

「おっマツリ。いい所にっ」

 不意に名前を呼ばれ、彼女が顔を上げて声の方に視線をやると、椎名が保健室の窓から手を振っていた。

 しかし椎名は振り向いたマツリの顔を見ると、あからさまに表情を強張こわばらせた。

「先生」

「……何してんの? 中庭で」

 彼はすぐにその表情をかき消すように微笑んで問いかける。

「美術。風景画です」

「へー意外。書道専攻かと思った」

「この中庭、保健室からも見えてたんですね」

「そーだよ。普段はカーテンを閉じちゃってるけどね。……マツリ?」

「はい?」

「メグに……――」

 その瞬間、マツリの瞳がわずかに震えたのを椎名は見逃さなかった。

「……メグに、最近会った?」

「……」

 無言が答えだ。

「や、会ってなかったらいいんだけどね」

 椎名は首を振る。

「こっちおいでよ」

 手を招いた。

「……授業中ですから」

「ばーれやしねぇよ。なんなら俺が描いてやる」

 強引な椎名にマツリは小さく息をついて、窓から保健室の中に入った。


「お酒は飲みませんよ」

 先に断る。だってこの間、匂いでばれたから。

「んー、メグにも飲ますなって言われたしね」

「……」

 そんなことを言ったんだ。とマツリはぼんやりと思った。

「はい」

 かわりに出てきたのは麦茶だった。マツリはそれを受け取ってソファに腰かけた。

「用件は……」

「つれないねー。用件がなきゃ話しちゃいけないのー?」

 椎名はマツリのスケッチブックを取り上げて、ぱらぱらとページをめくった。

「……だって。私に話があるから、呼んだんでしょ。先生」

 マツリが深い色の瞳でまっすぐ椎名を見ると、彼はため息をついた。そして観念したように話を切り出す。

「メグに、なにか言われたか?」

「……なにも」

 一瞬締まる胸。一瞬の沈黙。空白が肯定を示唆する。椎名はそれを逃さない。

「……先日、国光の奴らが来たの、見た?」

「はい」

「あー……見たんだ。実を言うとさ、あいつは国光と因縁があってなー」

「……え?」

 因縁? なかなか物騒な話だった。だってあの国光だ。ギャングに目をつけられるのとはわけが違う。

「今はあまり、メグに近寄らないほうがいい」

 鋭く真剣な目で言い聞かされるように言われ、マツリはごくりと飲み込んだ。これはある種の忠告だった。

「話はそれだけ」

 突然糸が切れたように鋭さが消え、にこっと笑う。その顔はいつもの椎名に戻っていた。

「じゃ、描いてやるよ。風景画でいいんだな」

 さっきの描きかけのページを開き、椎名は鉛筆をくるりと回した。

「えっ。いや……それ……」

「気にすんなぁ。俺、美大と一瞬迷った人間だから」

 それも困る。

「……ねぇマツリ? マツリは神サマとか、信じてる?」

 鉛筆をスケッチブックにこすらせて、椎名が静かに問うが、マツリの答えは返らない。

「いない。って思ってそうだね、マツリは」

「……だって」

 マツリはそっぽを向いた。

「いるんなら」

 シャッと、鋭く紙を擦る音が静かな部屋に響く。

「いるんなら、私なんか。もう、裁かれてる」

「じゃあ、俺もだな」

 椎名は少し笑ったようだった。沈黙の中、鉛筆だけが鳴く。

「じゃあ、一体。何が、俺達になにかを与えるんだろうね」

 気持ちいい風が室内に飛び込んできて、マツリの髪の毛が、ふわりと揺れた。

 マツリは何も、答えられなかった。


「ま、マツリ……! これ、あんたが描いたの!?」

「……う、うん」

「すっげー大蕗」

 美術室に戻ると周りがマツリのスケッチブックを見てざわめいた。本当に困る。

「中庭?」

「うん。池があるところ」

「あー、温度計があるところの近くね」

 頷く。

 そのスケッチは高校生離れした出来栄えで、結論としては、美術室に飾られることになってしまった。



 誰もいなくなった特別教室は、怖いほどに静かだ。日光だけが薄い光の筋を作る。そこに、影が差した。

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