3
少し涼しい中庭でスケッチブックに鉛筆を滑らせながら、マツリはぼんやりとその風景を写し取っていた。
「おっマツリ。いい所にっ」
不意に名前を呼ばれ、彼女が顔を上げて声の方に視線をやると、椎名が保健室の窓から手を振っていた。
しかし椎名は振り向いたマツリの顔を見ると、あからさまに表情を
「先生」
「……何してんの? 中庭で」
彼はすぐにその表情をかき消すように微笑んで問いかける。
「美術。風景画です」
「へー意外。書道専攻かと思った」
「この中庭、保健室からも見えてたんですね」
「そーだよ。普段はカーテンを閉じちゃってるけどね。……マツリ?」
「はい?」
「メグに……――」
その瞬間、マツリの瞳がわずかに震えたのを椎名は見逃さなかった。
「……メグに、最近会った?」
「……」
無言が答えだ。
「や、会ってなかったらいいんだけどね」
椎名は首を振る。
「こっちおいでよ」
手を招いた。
「……授業中ですから」
「ばーれやしねぇよ。なんなら俺が描いてやる」
強引な椎名にマツリは小さく息をついて、窓から保健室の中に入った。
「お酒は飲みませんよ」
先に断る。だってこの間、匂いでばれたから。
「んー、メグにも飲ますなって言われたしね」
「……」
そんなことを言ったんだ。とマツリはぼんやりと思った。
「はい」
かわりに出てきたのは麦茶だった。マツリはそれを受け取ってソファに腰かけた。
「用件は……」
「つれないねー。用件がなきゃ話しちゃいけないのー?」
椎名はマツリのスケッチブックを取り上げて、ぱらぱらとページをめくった。
「……だって。私に話があるから、呼んだんでしょ。先生」
マツリが深い色の瞳でまっすぐ椎名を見ると、彼はため息をついた。そして観念したように話を切り出す。
「メグに、なにか言われたか?」
「……なにも」
一瞬締まる胸。一瞬の沈黙。空白が肯定を示唆する。椎名はそれを逃さない。
「……先日、国光の奴らが来たの、見た?」
「はい」
「あー……見たんだ。実を言うとさ、あいつは国光と因縁があってなー」
「……え?」
因縁? なかなか物騒な話だった。だってあの国光だ。ギャングに目をつけられるのとはわけが違う。
「今はあまり、メグに近寄らないほうがいい」
鋭く真剣な目で言い聞かされるように言われ、マツリはごくりと飲み込んだ。これはある種の忠告だった。
「話はそれだけ」
突然糸が切れたように鋭さが消え、にこっと笑う。その顔はいつもの椎名に戻っていた。
「じゃ、描いてやるよ。風景画でいいんだな」
さっきの描きかけのページを開き、椎名は鉛筆をくるりと回した。
「えっ。いや……それ……」
「気にすんなぁ。俺、美大と一瞬迷った人間だから」
それも困る。
「……ねぇマツリ? マツリは神サマとか、信じてる?」
鉛筆をスケッチブックに
「いない。って思ってそうだね、マツリは」
「……だって」
マツリはそっぽを向いた。
「いるんなら」
シャッと、鋭く紙を擦る音が静かな部屋に響く。
「いるんなら、私なんか。もう、裁かれてる」
「じゃあ、俺もだな」
椎名は少し笑ったようだった。沈黙の中、鉛筆だけが鳴く。
「じゃあ、一体。何が、俺達になにかを与えるんだろうね」
気持ちいい風が室内に飛び込んできて、マツリの髪の毛が、ふわりと揺れた。
マツリは何も、答えられなかった。
「ま、マツリ……! これ、あんたが描いたの!?」
「……う、うん」
「すっげー大蕗」
美術室に戻ると周りがマツリのスケッチブックを見てざわめいた。本当に困る。
「中庭?」
「うん。池があるところ」
「あー、温度計があるところの近くね」
頷く。
そのスケッチは高校生離れした出来栄えで、結論としては、美術室に飾られることになってしまった。
誰もいなくなった特別教室は、怖いほどに静かだ。日光だけが薄い光の筋を作る。そこに、影が差した。
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