第5話:長谷川 寥は怖れない(前編)

「や……っめろぉッ!!!」


 鮮烈だった。

 これは、灰色の世界からの脱却だっきゃく禍々まがまがしくぼやけた白い光に包まれる。

「……ッあ……!」

 考える間もなかった。気づいた時には、メグの左手に巣食う化け物が住処すみかを飛び出し、マツリの顔面を穿うがたんと鼻先に牙を突きつけていた。

 メグが叫んだのさえ、ぼんやりと水の中で聞いたような感覚だった。マツリはただ、化け物の潰れた目をまたたきもせずに見た。赤い液体が宙を飛んでるのを見た。

「メグ……っ」

 叫ぶ。声を漏らすように。

「うっ……!」

 しかしその呻き声で、化け物が噛みついたのは自分の体ではないとすぐに分かった。メグが右手を化け物の口に突っ込んだのだ。

 ブシュッと嫌な音がして、歪んだメグの顔。右手からの出血。全てがスローモーションのようだった。

 ――あぁ。なんだこれは。

「……マツリ!!」

 マツリの意識が遠のいていく。


 ――白い世界。白で途切れる、あの日の残像によく似た世界。そこに、また、落っこちちゃった。


 ***


「で、なんで君がまたいるの」

 てっぺんをまわりかけた深夜の保健室、もといプライベートルームでくつろいでいた椎名は、嫌そうな顔を隠さずメグに向けた。

「るせぇ」

 メグもメグで、隠そうともせず不貞腐ふてくされた顔を返す。

「……とりあえず、その傷。見せなさい」

 椎名がそう言うとメグは頷き、黙って右手を差し出した。椎名は息をついて治療を始める。

「…………。力抜け、とは言わないほうがいいのかな」

「喰われたくなかったら言うな」

「なるほどね」

 椎名の性質上、メグは気を緩めることができない。いつ、あいつが飛び出してくるか分からないのだ。

「こんな風に地味に肉を引き裂くのか、君の化け物は」

「主人を主人と思ってない奴でね」

「なるほどね」

 ――なかなか激しい猛犬いぬをお飼いのようで。

「マツリに会ったのか?」

 沈黙が答え。肯定だ。

「……なるほどね」

 椎名がため息混じりに言った。

「で、君は俺の忠告を無視して、しっかりマツリのこと、詮索したわけだ」

 全てを見透かすような椎名の金髪が揺れる。

 ――きらきらさらさら、うるせぇよ。

 メグは何も言わず、顔を歪めて目を背けた。

「で、なんで自分の手なんか喰わせちゃったの? お前らしくない」

「……こうでもしなきゃ、止められなかった」

「何を」

「俺の……ッ」

 包帯をきつく締められ語尾が跳ねる。ひどく痛んだ。

前頭葉りせい?」

「下品なこと言うな」

「冗談だよ」

 ――このやろう。

 メグは呆れ顔を見せた。

「……マツリを喰おうとした」

「なんで今更」

「あいつはお前とは正反対だったから」

「……なるほど」

 気を緩めてても大丈夫な相手だったわけだ、と椎名は納得した。

「いきなり怖がられちゃったんだ?」

 手当なるものは終わったらしく、椎名はまたバーボンを片手にソファーに腰掛ける。

「……ちげぇよ」

「?」

「多分ずっと、本当は怖かったんだ」

 メグは左手を睨んだ。

「ただ、それ以上に傷つけられてもいいって、思ってたんだ」

「……ふうん」

 それはなんだか歪んでいて悲しい推論だった。いや、メグの顔を見る限りかなり確度の高い結論なのだろう。椎名は息をついた。

「で、どういう風の吹き回しで此処に来たわけ? お前。いつもなら喧嘩でどんな傷負っても自分でなんとかしてたんだろ? 前もそうやって適当にしてたから傷が開いて倒れたわけだし。ってあーあ。もうぜろ時前だぜー。よくお前、俺が此処ににいるって分かったなぁ?」

「……別にお前に会いに来たんじゃねぇ。ただ家にいれねぇから、ベッド借りようと思って来ただけだ」

「なんで」

「マツリがいるから」

「なに、お持ち帰りしたの?」

「倒れた」

 まぁ、この傷の出血を見たのであれば、貧血にもなるか。と椎名は納得する。

「あいつの家が分かんねぇから。とにかく俺んに連れて行くしかねぇだろ」

「側にいてやったらいいだろ」

「怖い」

 素直な言葉がメグの口から出て、椎名は目を丸くした。

「またいきなりあいつが飛び出してきて、マツリを喰おうとするかもしれない」

「……離れとけばいいだろ。此処まで来る必要がねぇ」

 椎名は迷惑そうに酒を飲んだ。

「お前。できんのかよ」

「……どうだろうね?」

 コトリとグラスを机に置いて笑う。

「……無理、かなぁ?」

「無理だ……」

「好きな子が側にいたら、触れたくなってしまうだろうねぇ」

「…………」

「あれ、否定しないんだ?」

 茶化ちゃかしたつもりが否定しないメグに再び意外さを覚えて問うが、メグは答えなかった。

「……ふーん」

 ふっと保健医は意地悪に笑む。

「理性と葛藤のすえ、此処に来たってわけか。いい子だなお前」

「るせぇ!」



 翌朝、日が昇りメグが帰ると、すっかり明るくなった保健室で椎名はぼやく。

「まーったく寝れなかったぜ、あいつのせいで……」


 ――ま、今日は土曜日だ。学校もないからいいか。

 それにしても、メグがこうも変わったことには驚いた。

 あらがえないほど触れたいと思うのに、触れた瞬間あの化け物がマツリを襲うかもしれない。そんな恐怖に正直に向き合っている。いつも通り化け物を出さないようにすりゃなんとでもなるだろうに、一パーセントでもその恐怖が拭えないならそれはできない、と来た。


「……俺は良いってか」

 ――そういうことになるよな。

 ふっと椎名は笑う。

 その一パーセントの恐怖を素直に怖いと言ったのは、彼にとってマツリがそれだけ大事な存在になってしまったからだろう。

 椎名は微笑ましく思わずにいられなかった。

「……はーぁ。青い春だよね、まったく」

 なんだか清々すがすがしくぼやき、椎名はばさっとソファーに倒れこんだ。


 それは仕事のない日を満喫してやろうという愉快で自堕落じだらくな朝寝だった。

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