工場が霞んで見えるその場所は、雨が水溜りを作り、水溜りが泥を作っていた。

 マツリは制服のまま傘を差し、廃工場を見つめて静かに立っていた。濡れているようにも見えた。


 ――何やってるんだろう。私。


 一方的にメグを拒絶して、避けて。彼はきっと困惑しただろう。

 でも、ただね。ただ、苦しかったんだ。

 心の底では、メグと私はおんなじなんだって思ってたんだ。だから、メグの正体を知れば、自分のことが分かるって、そう思っていたんだ。けど、メグの話を聞いてそれがはなはだしい勘違いだと分かってしまった。あの化け物は、ひどく深い優しさから生まれたものだった。

 苦しい。また、あの罪に心を潰される。このままじゃ、また赤が映える灰色の世界に落ちてしまう。メグを見ていると、自分が本当に化け物に見えて、どうしようもなくなる。

 同じじゃないんだ。優しくなんかないだよ。

 メグ。

 私は。

 私の罪の形ばけものは、憎しみから生まれたんだよ。

 そんなこと。知らないでいて。


 マツリは零れ落ちてしまいそうな涙をなんとか飲み込んで、代わりに深い息を吐きだした。


「マツリ」


 メグが雨を弾きながら近づいてきていたのは、視界の端で分かっていた。マツリはゆっくりと振り向いた。

「こっち側に来ないでっていったでしょう、メグ……」

 メグは立ち止まった。マツリの瞳はあからさまにメグを避けていた。

「お願いだから……、こっちに来ないでよ」

 ――こっち向けよ。

「こっち側に、目を向けないで」

 ――いつもみたいに。

「私のこと、知らないでいて」

 ――まっすぐ、俺を見ろよ。

 メグは言いたい言葉を全部飲みこんで、マツリを責めるように見つめた。

「勝手だな」

「勝手だよ」

 開き直ったような言葉は、らしくなかった。

「踏み込んできたのはお前だろ。それで俺がお前に近づいてしまうのは、当然のことだろ」

「……メグは、こっち側がどんな世界か知らないんだよ」

「……知らねぇよ」

 メグの低い声に、マツリはまつ毛を震わせ、きゅっと唇を結んだ。

「お前のことなんか、ぜんっぜんわかんねぇんだよ」

 マツリは変わらずメグを見なかった。無視しているようにも見えて、メグは苛ついた。

「なんなんだよお前。優しくして、人のこと引っ掻き回してよぉ……。それでいていきなり謝ったり。いきなり離れていったり……! 意味わかんねぇんだよ!」

 声を荒げても、マツリは振り向かなかった。むしろ俯いて傘で顔を隠すようだった。

「分からせろよ……! ずるいんだよ、お前……っ!!」

「………………」


 ザッ……


 突然マツリが泥を踏みつけて歩き出した。

「お、おい……!」

 メグは慌てて追いかける。

 マツリはそんなメグも水溜すらも気に留めず、あらゆるものを踏みしだきながら前へ、前へ――工場跡の電気すらないその奥へとまっすぐ進みだした。

「マツリ!」

「……」

 無視だった。酷い立てつけのドアを、隙間をこじ開けるように引きはがす。

 ガシャアン!

 見た目の通り錆びついた音が響いた。そして少し開いたその隙間から、マツリは中へと入っていった。メグも真似をして、その隙間からマツリを追って工場の中へと入りこむ。

「マツリ!」

 見失いそうになり名を呼ぶと、彼女はごちゃごちゃした大型機械群のすぐそばに立ってメグを待っていた。

「メグ」

 ようやっと、口を開く。

「知ってる……? この場所のこと」

「は……?」

 何の話だ? メグは眉を歪める。

「知らないんだ」

「知らねぇよ」

「そっか……」

 はは、と小さくマツリが笑った。初めてかもしれない。そんな風にマツリが笑うのは。

「……死んだんだよ」

「誰が」

「此処で」

「誰がだよ」

 回答になっていない。そんなマツリに、メグは不覚ながらぞっとした。


「私の、お母さんが」


 無表情で母親の死を告白したマツリは、長い沈黙の末目を伏せて口を開いた。

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