――七年前の出来事だ。

 あの頃、私が見ていた世界は灰色だった。

 私が生まれたのはこの街の私立病院で、お父さんは気が付けばいなかった。いつだったかも覚えていない。写真もたんすの中身も父親の思い出も全部。いつのまにか消えてしまっていた。母がお酒に溺れだしたのも、きっとそのせいだったのだと思う。

 随分長い間、私は夜の仕事をする母とめったに顔を合わすこともなく生きていた。


「あんたなんか産まなきゃ良かった」


 いつも聞かされてた愚痴だ。

 生まれてこなきゃ良かった。あいにく私もそう思った。

 小学校から帰ると、すでに酒にまみれてぐったりしている母がいて、私は静かに二階へ上がる。そうして母が行ってしまうまで、あの言葉を聞きたくないから部屋でじっとする。そんな毎日だった。


 小学三年生になった頃、父が昔働いてた工場を見つけたのは偶然だった。引き出しの奥に入っていた、父の名前が書かれた書類を見つけたのだ。

 知りたかった。彼がどんな人だったのかを。だから、その欠片を握り締めたままその場所へ向かった――それが、この工場だった。その時すでに工場は閉じられていて、電気もつかなかった。だけど、此処に近づいて気づいてしまった。夕闇の中、母がそこに佇んでいたことに。

 母は死んだようにそこに突っ立って、黙り込んでいた。まるで全て失った抜け殻のように見えた。父の欠片を辿ってたのは私だけじゃなかったのだ。気づけば私はその場から逃げ出していた。そうしないと、どうにもできないなにかに潰されそうな気がしたから。それ以降、私は此処へは近寄らなくなった。


 暫らくして、母は恋人を見つけたみたいだった。部屋に充満していた酒の匂いも消え、母は毎日お洒落をしてでかけていった。きっと店の客かなにかだ。

 その頃からあの呪いのような言葉を投げかけられることもなくなった。だから、私の気持ちも軽くなっていた。

 だけど、なんでなんだろう。嵐みたいなあの日、は起こった。


「ただいま……」

 誰も居ないと思ったけれど、この日たまたま独り言を呟いた。

 けれど、居たのだ。

「……お母さん?」

 またお酒の匂いが充満している。だが、声をかけても母は返事をしなかった。彼女はリビングテーブルにへばりついて動かなかった。タバコの匂いもした。きっとあの男の煙草だ、と思った。

 私はあの言葉を吐きかけられるのが怖くて、静かに階段へ向かおうとした。けれど、彼女は呟いた。

「なんでよぉ……――」

 それは、ほとんど呻き声だった。涙が混ざったような声だ。嫌な予感がして脚を止め、一歩だけリビングに近づいた。

 その時。どこかで嗅いだ事のあるような金属の匂いが鼻をついた。

「なんで私を捨てて行くのぉ……ッ――」

「……っ」

 ギクリとして身を震わせる。母は叫ぶような、掠れた声で泣いていた。

「おか……」

「あんたが悪いんだからねぇ……!」

「ッ!」

 闇を撒いたような、呪いの言葉が心臓に刺さった。こちらを見ようともしないその女が呻く。――ああ、あの言葉が来る。体が震えた。

「あんたがいるからぁ……! 全部駄目なんだからねマツリィ……!!」

 声が出なかった。もうほとんど金縛りだ。動けない。そんな私を見て、彼女は立ち上がった。

 顔が見えた。涙で濡れていた。髪を乱し、眼を剥き、凄い形相だった。そしてなにより、彼女の右手が、あけに染まってた。

 ――誰の血。

 震えが止まらない。怖い。逃げたい。此処から、逃げ出したい。なのに、無情にも動けない。

「こっちに来なさいマツリ!!」

「っ……わ……っ」

 乱暴にひっぱられた。

「あの人が去ったのも、私が独りになったのも、こんなに頑張らなくちゃいけないのも」

 ――あいつが私を捨てたのも。

「あいつが私を捨てたのも、他の女の所へ行ったのもォ!」

 ――全部。

「全部、あんたがいたからァぁあ!」

 ――あんたが生まれてきたから。

「あんたが生まれてきたからッ……!!」

 ――あんたが。

「あんたが、消えてくれてたらァ! よかったのよ!!」

 悲痛な声だった。


 ――あぁ。もう。

 息を切らしてまで叫ばなくっても……聞こえてるよ。

 お母さん。

 私、知ってたよ。その言葉。聞かないようにずっと避けてきたその言葉たちを。

 あなたの孤独を。知ってたよ、私。


 私の小さな体はずるずると外に引きずり出され、逃げることもできないまま、此処へ連れてこられた。――この工場へ。

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