雪が降っていた。


 口から出る空気が白かった。

 その年はうんと寒い寒波が来ていて、珍しく雪が降った。久しく首都には降っていない白い雪が。


 私立病院のG棟に母親は入院していた。

 母の病気は時間と共に体をむしばむ酷い病で、治らないものだった。今の医学でも。

 八つの頃、俺は母親に会いたくて毎日のように病室へ通った。父親は母親の入院費を稼ぐため日々働きづめで家に居ることは殆んどなかったが、その頃にはそんな生活にも慣れていた。病室へ行けば母に会える。それだけで、良かったんだ。

 だけど、母は日に日にやつれていった。

 母を蝕む病魔は、発病から病死までが平均六年と言われており、その時すでに発病から四年経っていた。もう死がいつ目の前に現われるか分からない。そんな毎日だったんだと、今なら分かる。けれど無知な俺は、よく馬鹿なことを尋ねたものだった。

「お母さん大丈夫?」

「うん。大丈夫……心配しないで。ね」

 母はいつも少しだけ苦しそうに、優しく笑う。俺はあの日まで一度も発作を起している母親も、激痛に呻く母親も見た事がなかった。それは母が隠してたからで、俺にそんな姿は見せまいと頑張ってくれていたからだったのだが、そんなことは全くかいせず、いつも笑顔で迎えてくれる母親が大好きだった。


 そして雪が降ったあの寒い日。俺は嬉しくって、いつもより急いで病院に行った。

「お母さんお母さ……っ」

 病室のドアに手をかけた時だった。


 ガシャーン!!


 ひどい音がした。何かが崩れたような。割れたような。

「!」

 思わずドアノブから手を離し、開ける勇気のなかった俺はドアの隙間に目をやった。

「ううううううううっ」

神威カムイさん! しっかり! ナースセンター! G508号室の神威さん発作です。鎮静剤と痛み止めを至急持ってきて! ……神威さん!」

「ッうあああああっ……いやああああああああああ!!!」

 悲鳴が耳に焼きついた。その瞬間。


 ――怖い。


 取り乱して叫ぶ母親を。痛みと苦しさに耐えて咽び泣く母親を。どういうわけか怖いと思ってしまった。「どうしよう。どうしよう」そればかりが頭を巡る。ドアの前でがたがた震えることしかできない。

「母さ……」

「どいて僕!」

「!」

 絞り出した勇気は、突き飛ばされて掻き消される。何人かのナースと白衣の男が母親の病室に駆け込んできた。そして苦しみ悶える母に処置を始めた。そして気が付けば、俺は恐ろしさのあまり泣きながら逃げ出していた。

 外にはまだ、雪が降っていた。


 この冷たさは残酷だ、と思った。


 俺はいつのまにか病棟の隙間にある暗く細い通路に座りこんでいた。室外機の音だけが聞こえる。誰も通らないその場所で、涙を拭い続けていた。涙が溢れて止まらない。恐怖が溢れて、止まらない。

 あんな母親の姿も、来るであろう母親の死も、恐ろしすぎた。

 自分に隠してその恐怖と戦い続けていた母を思うと、やりきれなかった。

 きっと母は、俺がこの時の俺の何万倍もの恐怖と苦しみを感じていただろう。

 母親の苦しみを目の当たりにして、何もできない自分が悔しい。そう思うと、途端に強い感情が湧いてきた。それは理不尽な現状に対する怒りにも似た感情で、運命に抗いたいという強い願いだった。


 助けて。

 助けてくれよ。

 母さんを。

 母さんの痛みを。

 取り除いて。

 頼むから。

 死なないで。

 誰か。

 母さんの苦しみを取り去ってくれ。

 できるなら。

 取り去ってやりたい。

 俺が。


 ――ぽつり。


 雪が体に当たって小さく融ける。なんとも無力な姿だろう。俺はますます泣いた。うずくまって、腕を抱いて。

 ぽつ、ぽつ。

 積もることも叶わぬ粉雪が、りもせず体にぶつかってくる。

 ぽつ、ぽつ。

 ぽつ……ぽつ。


 ぽっ……


 ぽっ


「え……」

 肌に雪が落ちるたび、すぐにけてしまっていたのに。左手だけは雪が当たったその部分が白くぼんやりと燃えるように揺れ始めた。白い光が目に映る。ゆっくり、ゆっくり。雪が当たるところに浮かび上がっては、揺れ動く。白い影。白い焔。

「……なん……だこれ」

 呟いた。口から白い息が漏れる。まるで白い炎を吐くように。燃える。燃える。左の腕が、燃えていく。

「うああ! ……え……っ……えぇ……?」

 こんなこと、あるんだろうか。

 あっという間に左手が白い光の炎に包まれていた。

 そして。


「ギギャギャギャギャギャギャギャギャギャァァァ……!!」

「うっ……っうあああああああああああああああ!?」


 俺は喉が掻き切れそうなほど、大声を上げた。くるりとあいつが振り向いて、つぶれた目をこちらに向けて、高笑いをしたんだ。


 あの時の恐怖はきっと、生涯一。

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