階段から落ちた日から数日経つと、取り巻く環境に変化が見られるようになった。


「おはよう大蕗オオフキさん」

「おはよう」

 朝、登校すると昇降口で声をかけられた。クラスの子たちだ。

「おはよ……」

 マツリは挨拶を返すが、声をかけてきたのはあまり喋ったことのない子たちで地味に驚いた。最近こういうことが増えた気がする。知らない人に校内で声をかけられる、みたいなことが。

 なんだか変に目立つようになってしまったな……、と靴をはきかえ、階段へ向かおうとした時だった。


「おはよう」


 はきはきとした声が上から聞こえた。誰へ向けた挨拶か分からなかったのだが、あまりにまっすぐ耳に届く声だったため、マツリは思わず顔を上げた。すると、見覚えのある顔がそこにあった。

「あの子は治ったー?」

 階段から落ちた時、助けてくれた子だった。明るい髪が綺麗になびいている。改めて見ると力強い目をしていて、ちょっとメグに似てる気がした。

「あ、うん」

「よかったー。んじゃね」

 爽やかに、鮮やかに、すれ違いざま手を振って、彼女は行ってしまった。しかし始業時間前なのに手ぶらで玄関口から外へ出て行った彼女に違和感を覚え、マツリは首を傾げた。

「マツリッ」

「わ」

 今度は後ろからどすっと抱きつかれた。いづみだ。

「おっはよ」

「おはよう、いづみ」

「ねぇ! ちょっと頼まれてくれない!?」

 いづみはマツリの手取り、ブンブンと振った。

「な、なに」


 お願いは、代役だった。



「……此処。かな」

 立てつけの悪い扉を開くと、バコッという音がした。

「あった」

 中庭の隅にある百葉箱ひゃくようばこをほとんど壊すような形で開けて、温度計の温度を確認する。

「……だめじゃん」

 シャーペンでその温度を用紙に記入して、マツリは思わず呟いた。

 近年温暖化が進んでクーラー使用許可温度を超えなければ学校等の施設では冷暖房を使うことができなくなっている。普段はデジタルの温度計が職員室に表示されるらしいのだが、壊れてしまったらしく、保健委員のいづみが古い百葉箱の中身を見に行くように言われたようだ。

 その代役として此処にやってきたのだが、結果的には、駄目だった。規定値には届かぬ温度なので、冷房はお預けだろう。初夏とは言え確かに最近汗ばむ。マツリ自身はあまり汗をかかないタイプなので大きな問題ではなかったが、人によっては死活問題だろう。

 シャーペンをポケットに入れ、しゃがんでいた足を伸ばした時だった。

「おや」

 後ろから声がして、マツリは振り向いた。

「……おはようございます」

 あの保健医が、後ろに立っていた。

「おはよう。えっと」

「大蕗です」

「あぁ。大蕗 祀オオフキ マツリさん、だったかな」

「はい。先生、何しに此処に?」

 マツリが問うと、保健医は肩をすくめた。

「君と同じさ」

「あ、じゃあ、ちょうど良かったです。保健委員に渡さなきゃいけなかったけど、きっと先生に提出するんでしょう」

 データを書いた紙を手渡すと、保健医はそれを見て首を傾げた。

「六組……って、たしか高橋さんが保健委員じゃ?」

「いづみは今朝はミーティングがあって」

「なるほどね。……ああ、これは駄目だね」

 ふっとため息をつく。温度の話だろう。

「……先生」

「ん?」

 にこっとマツリに向けられた笑顔はすごく綺麗で、心から笑っているように見えた。

「先生は、その、メグが……。なんで、メグが怖いんですか」

 マツリはじっと保健医の眼を見つめた。彼もマツリをまっすぐ見つめ返し、一歩彼女に近づいた。

「大蕗、俺はね。人間が怖いんだ」

 にっこりと笑って、保健医は軽い口調でそう言った。マツリは言葉を失った。

「人間……?」

「そ」

「そんな風には、見えません」

「かもね?」

 すべてを見切ったようで、軽率な言い方だった。ますますそうは見えなかった。

「だって誰もが何かを隠している。見えているものだって見たままとは限らないだろう? 例えば」

 彼はマツリを指さし、目を細めた。笑ったような、睨んだような顔で。

「大蕗 祀のその体の中にも、何かがいるかもしれない」

 マツリはその挑発に対し、小さく保健医を睨み返す。

「……なんて」

 彼は今度ははっきりと微笑んだ。美しいその顔が、今度はなんだかひどく胡散臭く感じてしまった。

「だけど、そんなの誰にもわかんないだろ? その正体不明な中身に対する恐怖は、気が付いたらどんどん俺の中に蓄積されてしまった」

 それは悲しい告白のような、秘密の共有のような言葉だった。

「いつからだったかな。その恐怖が俺の体を支配していって、完全に俺に根差して……。俺は……」

 保健医は少し寂しげな笑顔を見せた。

「俺はこの感情から逃れられないようになってしまった」

 マツリは言葉と詰まらせた。

 理解できないわけではない。けれど、その感情はマツリの中にはまるで無いものだった。どう言えばいいのか、見当もつかない。

「もう怖がることにも慣れたよ」

 そう言った彼は本当に穏やかに笑っていた。他人を怖れている人が、そんな笑顔を他人に向けられるのだろうか。いっそ、「今言ったことは全部嘘だよ」とか言ってくれそうな雰囲気だった。

「だから俺はアイツを特別に怖がっているわけじゃないよ」

 けれど、彼はマツリが最初に尋ねた質問の答えを返しただけだった。

「授業、始まるよ」

「え……あ」

 突然話が変わった。確かに時計ももう三十五分を指している。

「行きます」

 マツリは小さい声でそう言い、カバンを持ち上げて去ろうとした。

「マツリ」

 少し驚いて顔を上げる。保健医が下の名前で呼んだからだ。

「俺はね、メグなんかよりむしろ君が怖いんだ」

「……私」

「君のほうが、きっと何か半端ないものを隠しているから」

 マツリは地面の砂と靴の裏とをらせた。じゃりっと音を立てる。

「…………それ」

「なんて。ただの勘だけどねぇ」

 ここに来て彼は、冗談ですよ、と言わんばかりにへらっと笑った。

「ほら。チャイム鳴るよ」

「……失礼します」

 マツリは礼をして、中庭から走り去った。


 胸がもやもやする。あの保健医は、一体なんなんだろう。


 疼いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る