目の前の非現実的な光景にマツリは一瞬息をするのを忘れた。


「……それが……」

 彼女が声を出した瞬間にその化け物はしゅるりと消えた。

「こいつらは俺に恐怖を抱いたからな」

 床に散らばる男たちを見る。

「……恐怖」

「こいつは俺に対する恐怖に向かって暴食衝動を発する。つまり、化け物だ」

「化け物……」

「俺を『怖い』と感じた奴らを俺の左手で撫でれば、あいつが牙をむいて、その感情を身体ごと抉って喰らう」

「……感情?」

「それがお前の知りたがってた『呪われた手』だぜ。マツリ」

 にぃっと笑ったメグの顔が、少し歪んで見えた。メグの体は返り血だらけだった。

「……それで、この傷なんだ……」

 マツリは納得したようにそう言って、ちらりと倒れた男たちを見る。確かに、鋭い牙で喰いちぎられたような傷だった。傷口は深い。

「はっはは!」

「?」

 メグが急に声を上げて笑い出したので、マツリはメグの顔をまじまじと見た。なんだか無邪気にも見えた。

「お前、本当に女なのか?」

「……生物的には」

「はっ……! 初めてだぜ、こいつを見てびびらなかった女は」

 左手をぷらぷらと振って愉快そうにマツリを見ると、メグは歩き出した。マツリも彼について歩く。こんなところで一人にされたくない。

「少しも怖くなかったってことは……ない」

「へー?」

 裏路地を出る。通行人が血みどろのメグを見てギョッとしたのが見えた。

「嘘だね」

「ほんと」

「じゃああいつが消えるのはおかしい」

「……」

「最後の男を喰った時、あいつの体がお前にかすった。でもあいつはお前を喰わなかった。まるで興味なしだ」

「……あの男の人の方が、怖がってたんじゃないの?」

 繁華街を歩く。そろそろ通行人の眼が痛い。

「かもな」

 メグはそんなことは気にも留めず、笑ってた。

「でも、この間も左手はお前に反応しなかった」

「襲ってきた時?」

 彼女があまりに軽く言ってのけるので、メグは拍子抜けした。が、すぐに笑う。

「そーそー。あの時疼きもしなかったからな」

 怖くなかったから、とは、反論はしなかった。

「恐怖って」

 マツリが口を開くと、メグが足を止めて振り返った。

「恐怖って、死にたくないとか。……傷つきたくないとか。そうなったらどうしようとか。そういう感情から湧くものなんじゃないかな」

「お前にはねぇってか」

「……そんなことない」

 首を振る。

 マツリが何を言いたいのか分からず、メグは顔をしかめた。

「多分」

 表情を見る限り、マツリ自身もよく分かっていないようだった。

 メグは呆れたような顔をしてまた歩き出した。マツリもそれに付いて歩く。

「神威君」

「上の名前で呼ぶな」

「…………メグ君」

「『君』もいらねぇ」

 いちいち注文付ける男だな……。マツリは息をつく。

「どうして、その手のこと。教えてくれたの?」

 メグは一瞬黙って立ち止まり、左手でマツリを指さした。

「お前だけだからだよ」

「……?」

「お前だけが俺を怖がらなかった」

 マツリはメグの眼をじっと見つめた。

「だから」

 ぴょんっとメグが側にあった柵を乗り越えて、ガード下へ飛び降りる。着地すると、メグはマツリを見上げた。まるで睨むようだった。

「傷つけてやりたいと思ったんだ」

「……なにそれ」

 メグはふっと笑う。

「失敗したけどな」

 そう言ってメグはガードの下を行ってしまった。


 一人残されたマツリは、夕方の気配を見せ始めた空を見上げてため息をつくと、ゆっくり歩きだした。

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