「おやァ?」


 突然、声と共に薄暗い保健室に光の筋が差し込んだ。見ると長髪の男が保健室の戸を開けて立っていた。

「だめだよー此処は男女の関係作るところじゃないんだからー」

 そいつはへらっと笑い、注意だか忠告だか分からないようなことを言った。よく見ると、白衣を着ている。――こいつ、まさか……。と、メグがいぶかしがると、マツリがその正体を告げた。

 そのまさかだった。マツリが立ち上がり駆け寄る。

「あの人、階段からも落ちてしまって、ちょっと傷が開いちゃって……」

「へー」

「手当、してもらえますか……?」

「んーまぁ。応急処置はするけどね」

 彼は気だるげにそう言って、救急箱を開けた。色白で金髪の長髪。綺麗な顔立ちに長身。どうして今まで知らなかったのか、と思うほど目立つ容姿だった。

 メグはちらっとソファーと机を見る。

「……昼間っから、勤務中にバーボン飲むなよ……」

 おおよそ保健室らしからぬ液体がグラスに注がれており、思わずツッコんでしまった。

「こらこら物色しなーい」

 そう言うと保健医はメグの傷口を見ようと肩を掴み、包帯に触れる。

「いでッ! いででででってめ!!」

「なんだ、応急処置自体はできてるじゃないか」

「あぁ!?」

 涙目で睨む。

 子供みたいで可愛いな、メグ。と、マツリは心の中で呟いた。

「あ、でも……包帯とか結構ぼろぼろで……」

 下手くそである自覚はあったらしい。

「ま、いいんじゃねぇ? この悪ガキには。なぁ?」

「こっの……、腐れ保健医……ッ」

 叫びかけたメグが何かに反応し、一瞬固まった。

「『』ねぇ……」

「!!」

 メグとマツリは体を強張らせた。なんで、この人がそんなことを言うのか、理解できなかったからだ。

「先生……」

「てめぇ……」

 二人は微かに白衣の彼を睨む。

「知ってるよ。左手だろ?」

「!?」

 いよいよ得体のしれない気持ち悪さが二人を襲った。

「どこまで知ってる……」

 メグがわずかに殺気を放ちながら問うと、彼はなんてことはないという顔で笑った。

「発現のメカニズムなら一通りは」

 メグは体をより硬直させ、警戒した。左手が少し震えているよう見えた。

「ある感情に対して暴食反応を起こす気体のような何かが、左手の皮膚から発生する。原因までは知らないがね。何を喰う?」

「……『恐怖』だ……」

「そうか」

 にこっと笑って保健医はソファーに腰掛けた。

「お前……なんで……」

 逆にメグはベッドから立ち上がり、彼に近づこうとした。

「おっと」

 右手を上げての制するような仕草に、びくっとメグの体が揺れた。

「触らないでくれよ?」

 メグは黙って彼を見つめる。何かを確認するように、じっと。

「悪いけど俺は怖いんだ。お前が」

 ひどい。

 ひどい沈黙が流れた。いっそいたたまれない空気の中、保健医はへらっと笑った。

 ――怖い? 先生が、メグを?

 マツリにはそうは見えなかった。飄々ひょうひょうとしていて、全く怖がっていないように見える。

「……そうだな」

 しかし、メグは納得したように乾燥した笑みを見せた。そして勢いよくきびすを返し、ドアを蹴り開けて出ていった。

 ガコン! と乱暴に戸が閉まると、また薄暗い教室に沈黙が広がった。

「…………」

 マツリが保健医の方に向き直る。

「先生……」

「んー?」

 彼は机の上の電気を付け、氷とバーボンをグラスに入れはじめる。ロックで飲むらしい。

「どうして、あんなこと言ったんですか?」

「あんなこと?」

「メグの左手のこと……知ってた……」

「あぁ……」

 保健医はふっと笑った。

「そこの種明かしは、今は出来ないなァ」

「……でも、じゃあ。どうして」

「?」

 要領を得ない。保健医はマツリを見つめ返した。彼女は無表情のまま、ぼんやり薄暗さに溶けている。

「……メグは……先生のこと。傷つけたりしない」

 カコン……。氷が鳴った。

「あんな風に……言ったら……メグが」


 ――傷ついただろう。きっと。

 マツリは思った。

 あの沈黙。あの瞬間、メグの心は傷ついていた。

 別に何を取って食おうってわけじゃない。そんな気はない。なのに無情にも誤解を多分に含んだ視線を投げつけられる。勝手に恐れられて、勝手に距離を置かれる。それが別にどうとも思っていない相手でも、何とも言えない気持ちになる。メグが普段受けている扱いや、目線を向けられたマツリには、理解できてしまった。


「メグがあの化け物を出さない限り……傷つけたりしないです」

 マツリが言い切った。それはまるで。

「……君は、彼を庇うようだね」

「庇う……?」

 これは庇うという行為なのだろうか。自分を傷つけようとする相手を、庇う? 何となく違う気もした。

「じゃあ君は、怖くないのか? 得体の知れないもの。傷つける可能性があるもの。それを隠し持つ彼。ひとつも怖くないのかい?」

 言葉が出なかった。なぜなら、化け物が怖くない方が異常だと、理解できてしまうから。

「信用、しきれるか?」

「……メグは」

 マツリは掌を潰した。うまく説明できないもどかしさからだ。

「…………メグが。一番、自分を怖がってるから」

 保健医は微かに目を丸めた。そして何か言おうとしたが、声が喉から出ることはなかった。

「失礼します」

 マツリはそのまま回れ右をし、まっすぐ保健室を出た。一人残された保健医は、それを見送るとぽつりと呟いた。

「………なるほどねぇ」

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