Episode30 ~覗く闇~

 地面を蹴って走る。

 息はとっくに絶え、酷使した両脚が悲鳴を上げているのがわかった。

 しかし止まらない。止まるわけにはいかない。

 一刻も早く、此処から抜け出さないと――。


 紅い髪をたなびかせながら疾駆していると、曲がり角から体を覗かせた巨大な物体に、アンリは咄嗟に足を止めた。


「ハァ……! ハァー……! また、なの……」


 汗で濡れた自慢の紅髪をかき揚げて、右手を前に突き出す。


解放リリース――ソルブライト・ラジエーションッ!」


 アンリの掌から稲妻がほとばしった。

 衝撃が空気が揺らす。

 アンリの体すらのけ反らせるほどの威力。一ミリメのブレもなく、一条の閃光はゴーレムの頭部を射抜く――。

 かと思われたが、渾身の魔術は頭部を少し焦がすだけだった。


 立ち上る煙の奥で、ゴーレムの赤い両目が不規則に点滅している。

 アンリはその隙を逃さなかった。

 勝ち目などない。それは最初から分かっていた。

 今できることは、逃走だ。


 踏み込むのと同時に、強化呪文エンチャントを起動する。アンリの脚に光が纏い、吸収するように消える。

 地を蹴ると、僅か数秒でゴーレムの横を通り過ぎていた。

 煙から解放され、獲物を見失っている守護者を尻目にしながら、アンリは懸命に足を動かすのだった。


 ゴーレムを撒いた事を確認すると、アンリはたまらず壁に体を預けて片膝をついた。

 肩で息をしながら、唯一まともに働かせられる頭で、考えを巡らせる。

 アライト遺跡に入ってから直に、突然視界が青い光に包まれ、いつの間にか此処にいたのが数分前。


 足元の魔術陣を確認し、状況を把握したところまではよかった。

 突如、通路の先から現れたゴーレムにアンリは愚かにも、魔術で迎え撃とうとしてしまったのだ。


 無論、遺跡の守護者には魔力耐性がある。それは知り得ていた。

 しかし侮っていたのだ。まさか、胴に当てても傷一つつかないほどなんて思いもしなかった。

 結果その隙を付かれ、アンリはゴーレムの腕に捕まってしまった。


 予想外なのはここからで、どうやら守護者の腕には体内マナを吸収する能力があるらしい。

 何とかその時は逃げ出せたが、かなりのマナを吸われてしまった。

 そのせいで、今のアンリの魔力保有量マナ・キャパは限界に達しつつあった。


 アンリは壁に手を付けて、震えながらも立ち上がる。

 いつまでも休憩している訳にもいかない。少しでも早く、この地獄から抜け出さなければ。

 アンリを転移してきた魔術陣があれば、元の所に転移し直せるのだが、逃げ回っているうちにその場所も分からなくなった。


 悲鳴を上げる体に鞭を打って、アンリが顔を上げて瞬間だった。

 ――がしゃん、がしゃん。

 通路の奥から重苦しい音が聞こえてくる。


「うそ……でしょ……」


 暗闇から現れた白亜のゴーレムに、アンリは目を見開いた。

 この上ない絶望が眼前に迫る。今度こそ、血の気が引くほどの恐怖を感じた。

 たくましい剛腕が振り上げられる。アンリは咄嗟に、その頭部に稲妻を放っていた。

 ゴーレムの動きが止まる。

 頭部の点滅を確認することなく、アンリが振り返って走ろうとした瞬間。


「あっ……⁉」


 脚に力が入らず、体が地面に叩きつけられた。

 マナに限界が来たのだ。もはや、体を動かせるほどのマナも残っていないのだ。


 恐怖に駆られて魔術を放ったのが失敗だった。

 まだ、走って逃げていた方が助かったかもしれないのに。

 アンリは顔に絶望を浮かばせながらも、後ろのゴーレムを見た。


 両手の点滅――エラーから解放され、今まさに剛腕を振り下ろさんとしている。

 恐らくゴーレムはアンリの残り少ないマナを吸収するだろう。

 そうなれば、向かう先は死だ。

 アンリの足先から頭の天辺まで、冷たい感覚が走った。


「いや……嫌……ッ」


 アンリは咄嗟に、とある男の名前を叫ぼうとした。

 しかしすぐに、それが無意味なことに気づいた。

 思えば――前回の事件では、不審者に殺されそうになった所を、彼が助けてくれたのだ。

 その後も、戦闘中にはいつも彼が隣に居た。

 強大な敵に、勇敢にも立ち向かう彼の姿を見て、アンリも恐怖に打ち勝てたのだ。


 しかし今回は違う。

 アンリは一人で此処へ転移させられてしまったのだから。

 遂に、自分を死に至らしめる拳が、振り下げられる。

 瞬間、アンリはたまらず目蓋を閉じて、震えた声で呟いていた。


「助けて……カイ……ッ!」


 …………。

 いつまで経っても、ゴーレムの腕が降ってこない。

 体を掴まれた感覚もない。

 不思議に思い、アンリが震えながら目を開ける。


 目と鼻の先に、顔を覆いつくしてしまいそうな巨大な掌があった。

 そして、指の合間から見えたのは、驚くべき光景だった。

 見覚えのある茶色の髪の少年。その手には薄青色の剣が握られ、刀身がゴーレムの中心に突き刺さっていた。


 その背中には見覚えがあった。

 あの時、震えるだけしかできなかったアンリに――勇気を与えた背中だった。


「……うそ、カイ……?」


 カイがじゃきっという金属音を鳴らして、ゴーレムの体から剣を抜く。

 ピー、ピーと、甲高い音を発しながらゴーレムは全身を震わせて、そのまま停止したように、両目の光が途切れた。


 カイは無言で剣を斜めに振り払うと、一条の光が灯された灰眼をアンリに向けた。


「無事なようだな……間に合ってよかった」


「え、なんで……貴方がここに……?」


「どういう訳か知らんが、どうやら俺も此処に飛ばされたみたいだな」


 口元に笑みを浮かべて言う少年に、思わず笑みがこぼれた。危機が去って緊張がほぐれただろうか。アンリの頬に涙が伝った。

 それを指先で拭いながら、ぎこちない笑みをカイに向けた。


「ほんと……助けに来るのが遅いのよ……馬鹿」


「おいおい、そこはありがとうとかないのかよ」


「うるさいっ、馬鹿」


 顔を伏せて沈黙するアンリの元に、カイが歩み寄る。

 ほら、と差し伸べられた手を握って、アンリは何とか立ち上がった。

 だがすぐに脱力したように尻餅をついてしまった。


 どうやら少し時間が経ったくらいでは、体は回復してくれないらしい。それほどまで、マナを吸われてしまったという事だ。


「おい、大丈夫か⁉」


「大丈夫って言いたいけど……マナを吸い取られすぎたみたい」


「マナを吸い取る? 俺にはそんな事してこなかったが」


 不思議呟いた言葉に、アンリは柄にもなく驚いてしまった。

 ゴーレムの拳に捕まれると、マナを吸い取られることを説明すると、カイはふむ、と筆を組んだ。


「もしかしたら、マナの質が高い奴を感知して吸い取ってるのかもしれないな。

 事実俺にはしてこなかった。お前はマナの質が良いから、狙われたんじゃないか?」


 確かにここに転移されてから、余りにもゴーレムに遭遇しすぎだとは思っていた。もし、事前に魔術的にそのような命令を受けていたのなら、ありえなくはない。

 なるほどね、とアンリが納得していると。

 突然、視界にカイの顔が映った。カイがしゃがんだのだ。


「な、なによ」


 あまりに真摯に見つめてくるので、アンリが気恥ずかしくそうにしていると。


「ちょっと失礼」


 カイがおもむろにアンリの右手首を掴んで、ぐいっと自分の胸へ押し付けたのだ。

 その意味不明な奇行にアンリが騒ぎ立てる。


「ちょ、貴方何やって――⁉」


「静かにしてろ。すぐ終わる」


 落ち着いた声で制された。

 呆然と眺めていると、カイは目を閉じて集中し始めた。

 そしてある呪文が滑らかに口から発せられた。


解放リリース――リレイション・マナコード」


 その瞬間。カイの心臓から薄青色の粒子が溢れた。

 粒子は腕を伝って、アンリの心臓へと流れていく。

 胸の奥から、暖かい熱が広がった。心地よい熱をアンリがまじまじと感じていると、熱は全身に巡った。


 よし、と。カイが呟いて、押し付けていた手を離した。

 アンリの手から流れていた粒子が途切れ、熱も引いていく。同時に、重く伸し掛かっていた脱力感が消えていることに、アンリは気付いた。


「少しマナを分けてやった。俺のマナなんか足しにしかならないだろうが、動けるようにはなったはずだ」


「あ、ほんとだわ……」


 試しに足に力を入れてみると、何の苦もなく立ち上がれた。

 完全回復とまではいかないが、普通に体を動かす程度はできるようになった。

 手を開けたり閉じたりを繰り返しながら、アンリはふと思った疑問をカイに投げかける。


「他人にマナを与える治癒術なんて……いつの間に覚えたの?」


 学園で教えられる治癒法は、精々せいぜい体の自然回復力を促進させて、傷口を埋める程度だ。マナを分け与える魔術なんか教わらない。

 大抵の魔術士はマナの管理ができるし、消費したマナを補完するならポーションを飲めばいい。


「特訓、したからな。これだけは」


「え……?」


 その意味深な言葉を聞いて、アンリはハッと思い返した。

 前回――この前の事件の時も、マナの暴走で倒れた事を。あの時とは状況さえ違うが、対処法は変わらない。

 きっと、カイはあれから、アンリを助けられなかった過ちを反省し、マナを分け与える治癒術を覚えたのだ。

 もう二度と、同じ失敗をしないために。


「貴方ねぇ……そんなのを覚えるくらいなら、もっと覚えるべき魔術があるでしょうに」

 

 呆れたように返しつつも、アンリの口元は不思議と綻んでいた。

 自分のためにそこまでしてくれたと思うと、アンリは何となくこそばゆい感覚を覚えた。


 ――最近、ずっと変だ。

 時折ときおり胸が苦しくなったり、痛くなる。前までは確実に、こんな気持ちになったりしなかった。

 もう少し深く考えたかったが、今はここから抜け出す事が最優先だ、と思考を切り替える。


「それで、これからどうするの? こんな複雑な迷路じゃ、階段を探すのも一苦労よ?」


 元より、ここから抜け出す方法はそれしかないのだが。

 しかしアンリが必死逃げていた最中、階段らしきものは一切見なかった。

 恐らくこの危険階層が巨大な迷路となっているのだ。そうなれば、一つしかない階段を探すのは至難の業だ。


「いや、その必要はない。階段を見つけずとも、ここから出る方法ならある」


 唐突にありえない事を口走るカイ。

 どういう事なのか。アンリは頭上に疑問符を浮かべた。


「俺達がここへ転移してきた魔術陣があっただろ。転移は一歩通行だが、術式を改変させれば、戻れなくはないはずだ。

 俺じゃそんな高度なこと無理だが、アンリならできるだろ?」


「で、できるけど……それこそ無理よッ! だって、あたしも今まで逃げてきて魔術陣の場所が分からないのよ⁉ 階段も見つけられないのに、どうやって見つけるっていうの⁉」


 アンリが言い放つと、何故かカイは得意げな顔をした。

 そして「チッチッチ」と指を左右に揺らしながら、後ろをよく見てみろ、と言った。

 言われるがままアンリは振り向く。


 見れば、カイがやってきた通路の下に、何やら小さく光る物体が見えた。物体は間隔を空けて置いてあり、奥へ奥へと続いている。

 そこで、アンリはカイが言わんとする事を悟った。


「ま、まさかあれって――」


「ああ、あれは俺が生成した結晶だ。何かあった時に元の場所に戻れるように、置いておいたんだ。

 アレを辿れば、魔術陣のあった場所に戻れる」


 ここから抜け出せる。

 ついに希望が見えてきて、歓喜にわかずにはいられなかった。


「す、凄いじゃない! なら早く行きましょう、こんな所一秒でも早く抜け出したいわッ!」


「ああ、ノアの様子も心配だしな」


「ええ……そう、ね」


 ノア。その名前を聞いた途端、アンリは何故か、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

 カイの頭の中には、常にノアがいる。

 ノアのため――正確には、彼女と交わした《誓い》を果たすため、カイは動いているのだ。


 そこに……アンリはいない。いるとしても、微々たるものだろう。

 自分を助けたのも、結局はノアを守るため、といえるかもしれない。


(……何考えてるの、そんな……)


 分かっている。カイがそんな奴ではない事くらい。

 きっと、ノアだからとか関係なく、もし危機にさらされていたのがアンリではなかったとしても、カイは同じように助けただろう。


 だが、どうしてもそういう考え方をしてしまう自分に、アンリは嫌気が差した。

 ――本当に、変だ。


「何やってる? 早く行くぞ」


「――、ええ」


 これ以上考えてはいけないような気がして、アンリは駆け寄りながら、その思考を奥深くにしまい込むのだった。

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