Episode26 ~在りし日の少女~

 今でも思い出す。

 手に蘇る生々しい感触。紅の情景。

 あの日から――私の中の何かが崩れ去ったのだ。


 わたしの世界は常に灰色だった。

 必要以上に他者とは親しくできない、彩りのない人生。

 昔からずっとそうだった。


 だって、私は普通じゃ無いから。

 私と一緒にいれば、皆が不幸になってしまう。


 そんな自暴自棄な考え方のせいで、何もかもがどうでもよかった。


 例え人として他の人より劣っていて、それを理由に託児学校でいじめられていたとしても。


 一生懸命働いて、私の面倒を見てくれているお父様に迷惑はかけられない。


 だから我慢して学校に通っていた。

 別にいじめられても何とも思わなかったし、感じなかったから。

 多分、その時の私の心は、もうとっくに壊れていたのだと思う。


 でも、そんなある日――。


 放課後。いつもの様にクラスメイトの憂さ晴らしにされていた私は、教室で三人の男子に囲まれていた。


「おい。なんか言えよ、お前。いつも仏頂面で気持ち悪いんだよ」


「表情筋しんでるんじゃないのー?」


「馬鹿、それは元からだろ。あっははははははは!」


 馬鹿にした様に笑うクラスメイト達。

 床を見下ろして、私は事が終わるのを待った。何も反応しなければ、そのうち飽きて去って行く。


 それに、私がいじめられる事でクラスメイト達の気分が晴れるなら、それが私の使命でも良かった。

 別に、どうでも……。


「ん、何だこれ?」


 男子の一人が、不意に私の胸元に手を伸ばした。

 ばちん、と首紐が千切られ、ソレが私の肌身から離れる。


「あ……!」


 普段学校では滅多に声は出さないが、この時だけは思わず声が漏れた。

 男子が手に取ったのは、白く光る爪。

 竜のものと思しきそれは、私がお父様から手渡された、唯一の宝物。


「お、もしかしてこれ、竜の爪か⁉」


「マジかよッ⁉ 現物なんて初めて見たぜッ⁉」


 男子たちはすぐに食いついた。

 当然だ。竜は人前に姿を表さないがゆえに、その爪は希少価値が高いなどというものではない。


「売れば億万長者になれるぞ⁉」


「こ、これがあれば……元の生活がおくれる……」


「ちょ、ずりぃ!」


 男子たちが小競り合いを始める中、私は小刻みに震えていた。

 ――やめて、それだけは。

 声が出ない分、私は懸命に心の中で懇願する。

 でも、目の前の男子はあざ笑うかのように、強気でその想いを一蹴してきた。


「おい、これ貰ってもいいよな? 確かお前は西区住みだろ? あそこは大街路から距離があるからなー? どうせ厄災の被害をそんな受けてないんだろ?」


「でも……それ……私の……」


「いいか! 俺の――俺たち大街路沿いの家は、厄災のせいで全部崩れた! いいか、全部だ! もし立て直しが完了しても、二度と元のような生活は送れないんだよ、俺たちはッ!」


 突如、形相を変えて怒鳴った少年に、びくりと身体が震える。


「だがお前は外から来た奴なのに、俺たちよりも良い家で、良い生活をしている。対して俺たちは被害者全員で教会送りだ。

 不公平だと思わないかッ⁉ よそ者のお前が妬まれるのは当然なんだよ!」


 男子は叱責するようにまくし立てると、ふんと踵を返した。


「これは貰っていく。この街の人達に妬まれたくなければ、さっさとこの街から出ていくんだなッ!」


 男子たちが竜の爪を揺らして、私から離れていく。


 何も言えない。

 だって、事実そうなのだ。


 私は他所から引っ越してきたよそ者で、お父様のおかげでそれなりの暮らしが出来ている。

 それを、厄災で何もかもを失った人達が、羨むのは当然だった。


 私のたった一つの宝物を取られたくない……。

 でも、言い返せない。よそ者の私に、反駁はんばくする権利なんてない。


 何も出来ない自らの弱さに、悔し涙が溢れそうになった。


 ――その時。


 ばんっ! 教室の扉が勢いよく開けられる音が聞こえ、反射的に顔を上げた。

 ……知らない人だ。

 恐らくクラスメイトだけど、名前までは分からない。


 その人の灰色の瞳は深く沈んでいて――何処か、私に似ていた。

 でも同時に私とは違った。


 確かに深く沈んではいるが、その双眸には微かな、しかし決然とした光が差していた。


「おい、その手に持ってるものを離せ。そいつの大切な物なんだろ」


「な、何だお前! お前もこいつのようになりたいか」


 正面の男子が、私から奪い取った竜の爪を力強く握りしめて、凄む。

 しかし灰瞳の少年は、毅然きぜんとして不敵に笑った。


「なら、力づくでどかしてみろ」


 ――そこから先は、思わず目をそらしたくなる光景だった。

 元より三対一。それに少年は一撃殴られて床に叩きつけられ、男子三人から踏みつけられていた。


 鈍い音が私の耳に届いてくる。

 彼は私の為に戦ってくれているのに、耳をふさぐわけにもいかず、かといって動く勇気もない。


 私はただ、震えることしかできなかった。


「もう……やめて……」


 小さい悲鳴は、すぐに鈍い音にかき消された。



 しばらくして、鈍い音は止んだ。

 疲れたのか、男子たちが肩で息をしている音が、耳に入ってきた。


「良いか、これ以上ひどい目に合わされたくなかったら、先生には黙っておけよ」


 せめて戦ってくれた少年の姿だけでも見ようと、私は震える身体を押さえつけ、恐怖に打ち勝って顔を上げた。


 少年は、見るも無残な有様だった。

 服の上からでも、全身がアザだらけになっているのは、火を見るよりも明らか。

 

「……ッ」


 途端、私の口から呻き声に似た吐息が漏れた。

 余りの有様に畏怖したわけじゃない。


 あれだけ酷い目にあったというのに、とんでもなく痛いはずなのに――少年の瞳にはまだ、一筋の光が差していたのだ。


 ――ありえない。

 何で、あの人はあそこまで強くなれるの。

 強烈に胸が締め付けられる。


 胸の内から溢れんばかりの感情に、私は咄嗟に膝をついて起き上がる。

 もう止めて、もう良いから――そう叫ぶために。 


 その時、私の眼前で驚きべきことが二つ起こった。

 最初に、あれだけ傷を負った少年が素早く起き上がった。


 次に男子たちが踵を返したのを見計らって、男子の下ポケットから竜の爪を抜き取ったのだ。


 水の様に滑らかで、静謐な動作。

 私は目を見開くと同時に、理解した。


 きっとあの人は、これの為にわざとやられていたんだ。油断しきった所で、確実に竜の爪を奪い返すそうと。


 男子たちが教室から離れていったのを確信すると、少年が近づいてきた。


 私は言葉を失ったまま、彼を見上げる。

 その灰色の瞳を覗いた途端、胸が締め付けられたような気がした。

 少年はまるで、事実だけを伝えるかの様に、淡々と告げた。


「明日には、この街から出ていくんだ。

 これが見つかっちまった以上、これから先もあいつらは奪おうとしてくる。

 噂になったらお前を妬む連中が、これを狙いに来るかも知れない。

 そうなる前に、この街から離れた方が良い」


 そして、少年は私の手に竜の爪を返して、教室から出ていった。


「……ごめん」


 その寸前。私に振り返り、声を発していないはずの口から、そんな幻聴が聞こえた気がした。



 私は少年の忠告通り、翌日には学校を止めてグラーテを出た。

 その時、ノアという私をいつも励ましてくれていた人から、あの時の少年の名を聞くことができた。


 カイ・フェルグラント。

 ――あの時、勇敢に立ち向かい、助けてくれた彼の名前を。

 私は一生忘れはしないだろう……。

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