Episode24 ~一時の旅行記~

 魔術学園二年次生を乗せた駿馬しゅんばたちは、日が落ちる暮れ方にグラーテを出発した。

 淡い曙色あけぼのいろのベールに覆われた大空の下、数十頭にも及ぶ重装備の馬車が、疾く走る。


 駿馬しゅんばとは、専用訓練の末、魔巧装備を装着した、迅速な物資の供給を目的とする軍用の荷馬車だ。


 だが、その圧倒的な速力とどんな急勾配きゅうこうばいにものともしない膂力りょりょくから、人を運ぶ馬車としても運用されている。


 雄々しきひずめを打ち鳴らしながら、猛然と草原を一直線に突き進む。

 鬱蒼うつそうと茂る森道を横断し、峠を迂回するようなルートで疾駆し続けた駿馬は──。


 普通の馬車ならば、南エリアまで一日は掛かる距離を、わずか数時間で南エリア付近まで到達していたのだ。


「流石に速いわねー、あっ、とうとう見えてきたわっ!」


 列をなすように走る駿馬の荷台から頭をのぞかせたアンリは、後方へ暴れる髪を押さえつつ、嬉々として正面に屹立きつりつする巨峰を見やった。


 アクアリム山脈。

 西エリアと南エリアを隔てる山岳地帯である。

 そこから流れる雄大な大滝は、隣り合うエリアの両方に河川を伸ばし、人々に恵みの水を与えている。


 天日を受けて眩いほどに輝く稜線りょうせんを見上げ、やがてアンリが満足したように、小窓を閉めて座り直すと。


「……何やってるの?」


 いつの間にか一変している馬車内の光景に、呆れんばかりの半目で呟いた。

 何と、外の風景を覗く前までは隣に座っていた親友が席を離れ、正面で船を漕いでいたカイの頭を、その華奢きゃしゃな肩に預けていたのだ。


 この馬車には、三人しか乗っていない。カイ、ノア、アンリである。

 最後まで勧誘を断り続けた結果、流石にこの少人数だと荷台が広く感じる。


 今回の合宿は駿馬を雇ったので、迅速に南エリアに行くことができるのだが、荷台に乗せられる人数は限られている。

 それこそ、二年次生を一気に運ぼうとすれば、いかんせん費用がかさんでしまう。


 そう踏んだ学園側は、クラス毎に数回に渡って運ぶことで、駿馬の数を格段に減らす体制を取ったらしい。既に早朝から出発した一組や、次ぐ二組は向こうで自由時間になっているはずだ。

 そして、アンリ達が在籍する三組のクラスの出発が、遅くなってしまったのである。


 ──最も、唯一本性を見せている二人しかいないこの状況は、変な気を使わずに済むし、無理に優等生を演じなくて済むのだが。

 片端に巡る思考を振り払い、アンリは再び呆れきったような嘆息と、半ば細めた双眸そうぼうを親友へ向ける。


 今度の視線に、僅かなとげを含んでいることを察したノアは、苦笑いを浮かべて弁解を始めた。


「えっと……これはね? カイが何度も頭をかぶいて危ないから、寝かせてあげようとしたんだけど、何故かこうなっちゃっただけで……」


 そう弁解を続けるノアの肩で寝ているカイの顔は、なんとも苛立つほど居心地良さそうであった。

 思えば────カイの寝顔を見たのは初めてかも知れない。いつもはとっつきにくい神妙な表情を浮かべているのに、寝ている時は案外……


 ふつふつと、胸奥からこみ上げる形容しがたい感情を押し殺し、紅の少女は自慢の長髪を掻き上げながら、平然と言った。


「ふーん……まぁ、良いんじゃない。そいつもそこの方が気持ち良いみたいだし」


「あ、あれ? なんかアンリ……不機嫌?」


「別に? 魔術士にとって、精神安定力は常に求められる能力スキルよ。あたしはいつも平常心を心がけているつもりなのだけれど」


 唇を尖らせて告げられた言葉に、ノアが辛抱たまらず席を立って、真実を打ち明けようとした──その時だ。


「ほ、本当に違うのっ! 元はと言えば、これは私の──ッ⁉」


 がたんっ! 車輪が小石を踏んだのか、荷台が上下に揺れた。

 決して大きな振動では無かった。だが、直立して不安定だったノアの態勢を崩すには、十分すぎた。

 ぐらり、と。身体をかしぐ親友を目の当たりにして、アンリは胸奥の感情すら忘れ、無我夢中で飛び出した。


「──ノアッ⁉」


 間一髪。倒れる前に両方を掴んで、何とか支えることに成功する。

 ノアに、ほっと胸を撫で下ろすと共にすぐさまその身体の隅々まで見渡す。


 何処かへぶつかっていないので、外傷の心配はないだろう。しかし足を捻っている可能性もある。

 とりあえず、席に座らせることが何より先決か。


 冷静沈着に──一秒未満の思考判断を終えたアンリは、及び腰になっているノアを席に座らせようと、身を屈む。


「気をつけなさいよ。ノアはおっちょこちょいなんだ──」


 ぽにょん。

 アンリの思考と言葉を停止させたのは、そんな擬音と妙な感触だった。

 恐る恐る下を見ると、やはり──ノアという支えを失ったカイが、自分の胸元に倒れ込んできたのだ。


「…………」


 一瞬だけ、馬車内の空気が氷点下まで凍る。

 その僅かな静寂を打ち破ったのは、ノアだ。


「ちょっ⁉ カイってば何処に倒れ込んで──」


「──はぁ。全く……寝てても人騒がせっぷりは変わらないのね、アンタは……」


 呆れたように呟きながら、アンリは両手を掴んでカイを身から引き剥がす。起こさないように正面の席に寝かせる。

 平然と自らの席に座り直したアンリに、隣に腰掛けたノアは聞かずには居られなかった。


「えっと……大丈夫なの、アンリ?」


「こんな事で動揺しているようじゃ、一流の魔術士には到底なれないわ。あたしはその為に日頃から屈強な精神を育てることにしたの。

 これくらい、取り乱すことではないわ」


 清々しいまで自信満々に告げられ、ノアは苦笑いを浮かべるしかない。


「へ、へぇ……でも、その姿勢は尊敬するな……私は何も誇れるものがないから、アンリが羨ましいよ。

 魔術もそんなに得意じゃないし」


「確か、ノアはマナ濃度が高いんでしょう? だったら、ちゃんと鍛錬すれば、一流の魔術士の素質は十分あるじゃない。

 もっと自分に自信もちなさいよ」


 途端。馬車内が鼻先も見えぬ暗闇に染まった。

 東エリアと南エリアを繋ぐ洞窟に入ったのだ。

 正面の駿場の足元を照らすランプ以外、光源は一切ない。


「…………」


 洞窟を抜けるのは数秒──。

 その間、耐えきれず自らの髪色のように、顔を真っ赤に染める少女に気づく者は、その場に居なかった。




 視界が真っ白に染まる。

 遂に駿馬しゅんばが暗い洞窟を抜けたのだ。

 つまり、今この場所は南エリアの領地内という事になる。

 両頬に手を添えて平温に戻っているのを確認するや、アンリは踵を返して小窓から外の景色を見やった。


「…………」


 絶句。

 次いで小窓から顔をのぞかせたノアも、他の馬車から同じ様に眺めた他の生徒たちも、誰もが言葉を失った。

 緩やかな草原の斜面を下る北東には、巨峰から流れる大滝、北西には自然豊かに茂る森林。


 そして正面の遠くの方に見えるのは、市街地《オーシェン》と、そこに面した先が見えぬほど広大な大海原だ。

 透き通るような海は、今は点からの斜陽を反射して、穏やかなオレンジの色合いを含んでいるが、それでも壮麗そうれいなる雄大さと美しさは変わらない。


 これがもし早朝──本来の蒼色を湛えた海ならば、どれほど綺麗だろう……

 アンリは眼前の絶景に瞳を輝かせながらも、そう思わずには居られなかった。



 何時までそうしていたのだろう。

 見惚れすぎて、その場の音が遠ざかり、時間さえも停止したようだった。

 それほど、意識が目の前の絶景に吸い寄せられていたのだ。

 静寂を破り、遠くへ揺蕩うアンリの意識を還したのは、親友の静かな呟きだった。


「すっごい、綺麗……」


 感極まったような声色に、アンリも目頭に熱くなるものを感じながら、唇を綻ばせる。


「ええ、そうね……」


 その言葉を最後にして、すっかり魅了された二人は。夕焼けに染まる海をオーシェンに着くまで遠望するのだった。

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