終奏、夏空

 その日は夢子ゆめこの家に集まることにした。

 ようたちはそれぞれの進路に万全を期すべく、暇な時間は皆で集まって勉強することにした。夏休みに入ってからも、陽と夢子と清治せいじ美鳥みどりは、参考書と問題集の束を抱え、互いの家をぐるぐると行ったり来たりしている毎日だ。

 まだまだ夏は終わりそうもない。

 三時のおやつということで一階の居間に降りてきた四人は間食のトコロテンを食べたあとも、干からびたナマズのように畳の上でごろごろしていた。

 扇風機の前に陣取った清治が、天井を仰いで言った。

「なーあ、かーぼとぉー」

「なによ」

「今日はもうオシマイにしねえ? もう俺、暑くて全然やる気しねえ」

「あなたにやる気が無いのはいつものことでしょ」

 すると隣で寝転んでいた美鳥が足をバタバタさせ、

「あたしももうやるきしなーい。むっこねえちゃーん。こんどみんなでプールでもいこうよー。ねーえー、いこうよー」畳の上を平泳ぎして夢子の太腿に縋りつく。

「ああもう、あっついんだからくっつかないでよ」

 陽はそんなやり取りを尻目に、ちゃっかりおかわりしていたトコロテンのドンブリを持って、縁側からの風景を眺めていた。

 遠く田んぼの畦道に立ったゆーこが、こちらに手を降っていた。

 陽はささやかに手を振り返したが、すぐにゆーこの姿は陽炎の揺らめきに滲んで消えた。

 まるでちょとした見間違いであったかのように。

 結果からいえば、陽は『河姆渡かぼと悠子ゆうこ』にまつわる記憶を取り戻すことはできなかった。

 そして部室での一件以来、ゆーこの出現頻度は急速に減っていった。その存在感もだんだん淡くぼやけるようになり、言葉を交わすこともなく、現れる時間も短くなっていった。それでも時折姿を現せば、気楽な猫のような表情で陽の隣にやってきて、また消えるまでの僅かな間、静かに寄り添っているのだった。

 このまま時間が過ぎてゆけば、最終的にゆーこは消えてしまうだろう。

 それでも陽は、それが悲劇だとは思わない。

 いつの日かゆーこという存在の編み目が解け、全てが記憶の欠片に還ってしまったとしても、それでもゆーこにまつわるこの記憶だけは、いつまでも陽の中に残り続けるのだから。


 はるか昔、死者の魂は鳥の翼に乗って旅立つものだった。

 この国においては大鳥――つまり白鳥が死者の魂を運ぶ使者であるとされ、他の国においてもそういった渡り鳥に人の魂を託す話がしばし見られる。

 悠子の場合は、やはりオオルリだろう。白鳥のほうが乗り心地がよさそうなものだが、悠子ならそんなことは気にせずに、好きなものは好きなんだと言い切ってしまうに違いない。もしかしたらその背にはゆーこも相乗りしているかもしれない。二人はパイロットの迷惑も気にせずに、狭い背中の上でぎゃあぎゃあ喧嘩しながらも、仲良くこの空を渡ってくるだろう。

 そして陽は、まだまだ夏の色があせない空を、寂しくも晴れがましい思いで見上げている。


 失ってしまったものは、取り戻せない。

 大切なものであればあるほど、自分の中でそれが占めていた場所には大きな虚がぽっかりと口を開け、それはどんなものを持ってしても、埋め合わせることはできない。

 そこにあるのは悲しみの暗さであり、絶望の広さでもあり、そして次に控える別の喪失への恐怖の深さでもあるだろう。

 だがそれは同時に、幸福の大きさでもあったのだ。

 失って初めてその大切さに気づく、という常套句の意味が今の陽にはよく分かる。

 それは大切にすべきものに気づかなかった愚かしさを悔いるだけの言葉ではない。世界と自分との間に境界を設けることで自我が定まるように、喪失というハサミで自分自身が切り取られることで初めて、そこにあったものの大きさが決まるという意味を含んでもいるはずだ。

 何かを失うということは、それが確かに存在していたのだという証を得ることに他ならない。

 失った人生の重さが即ち、魂の重さなのだ。

 これからも多くのものを得るだろう。そしてそれと同じだけのものを失くすだろう。

 だけど陽は、どんなに広い空でも怯まずに飛んで行く、小さな翼の在り処を知っている。


 それだけでもう、陽は安心だ。

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The Ghost Of U 結城わんこ @sobercat

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