6: On My Own
葬送
そして
魂や意識の実在を疑う以前の問題として、幽霊なんていう非現実的なものを信じるほうがおかしかったのだ。
記憶というものが脳細胞の結びつきによる固定されたパターンであるなら、陽の中にはそのパターンの大部分がまだ残されていると考えるのが妥当だ。頭の中に刻み込まれたゆーこの全て――姿形は言うに及ばずその性格や仕草といったそれらを、意識的に引き出すことができなくとも、無意識の領域では参照することができていたとするなら。
自分だけにしか見えず、いっさいの客観的証明が不可能であるならば、それはやはり幻覚に過ぎないのではないか。
そのようにはっきりとした言葉となって意識されてしまったが最後、もうそれ以外のことを考えるのは不可能に近かった。疑えば疑うほどに、その仮説の輪郭は鮮明さを増しリアルな質感を伴って陽に襲いかかってきた。
今までの自分が正気であったという確証はいともたやすく崩壊し、これからの自分が正気でいられるという保証がどこにも見い出せない。
自己の同一性と連続性にまったく信用を置くことができず、それがどこまでも恐ろしい。
霞網に捕らわれた鳥のように、もがけばもがくほど透明な絶望の糸が深く絡みつく。
陽は恐慌状態に陥った。
今この瞬間にも『ゆーこ』が姿を現すのではないかと思うと、怖くて仕方がなかった。
何かの拍子に悪意を抱いたゆーこが陽の体を乗っ取ろうとした場合、それを防ぐ手立てがまったくないのだ。『ゆーこ』は自分の声を操れる。それは言い換えるなら幻覚と自己の区別がつかなくなった瞬間に他ならず、そしてその症候はいつ拡大しないとも限らない。
そしてその混同が行き着くところまで行き着いた時、自分はどうなってしまうのか――
それはまさに死への恐怖だった。
部屋の隅に吹き溜まる闇が、底の見えない地獄につながっているように思えた。
しかし明かりをつけるくらいなら、目蓋をきつく閉ざしたまま何も見ないようにしていたほうがずっと楽だった。ベッドの上で胎児のように丸まって、なるべく早く眠ろうとした。だがその一方で眠りに落ちてしまったが最期、本当にゆーこに身体を乗っ取られてしまうのではないかという不安がどうしても消えず、神経は勝手に高ぶり続けた。
結局のところ、生理現象には勝てなかった。睡眠というよりは断続的な気絶といったほうが適当な、浅く短い眠りを繰り返し、気づけば朝になっていた。
両親が家を出てしばらく経ったころ、眠気よりも喉の渇きに突き動かされて、陽はそのそと一階へ降りていった。台所にはちょど朝食の用意をしている
「おはよー。にいちゃん今日も部活――ってどうしたの。なんか二日酔いみたいな顔してるよ。どこか具合悪いの?」
寝不足で疲れが取れないと答えると、美鳥は養分が足りてないのだと言って陽のぶんの朝食も作り始めた。母が用意したものと昨日の残りを温めた直したりよそったりするだけなので手間はかからないのだが、そんな妹の甲斐甲斐しさが陽に若干の安らぎを与えてくれた。
朝食を食べた二人はリビングで徒然に過ごした。陽はソファに浅く腰掛け、美鳥はそんな兄にもお構いなしでその膝の上に脚を投げ出して寝転び、本を読み始めた。
陽はそのままぼんやりとTVを見ていた。膝に乗る生きた人間の重さが、まるで獣から自分を守ってくれるライフル銃のように頼もしく感じられ、いつの間にか眠ってしまっていた。
肩を揺すられて目を開けると、とうに昼を過ぎていた。
「あたしこれからガミん家に遊びに行ってくるから。冷蔵庫にお昼ごはん入ってるから、烏龍茶でもかけて食べてね」
そう言って美鳥は出かけて行った。
一人になった陽の中で思考が再び内向きに回転しはじめた。
一時間もしないうちに耐えられなくなった陽は、制服に着替えて家を出た。
今日は部活は休みだが、もしかしたら
とにかく、生きた人の近くにいたかった。
だから編集部の扉の鍵が開いていただけで、内心助かったと思った。
しかし部室に人の影はなかった。見たところ誰かが来ているようすもなく、どうやら鍵を閉め忘れていただけらしい。不用心だ。カーテンを締め切った室内は薄暗く、埃っぽい熱気だけが泥のように漂っていた。落胆した陽は機技研の部室に足を運んだが、同じくそこも休みのようだった。料理研も生徒会も、こんな時に限って誰もいない。
行き場を無くした陽は部室に戻り、乾いた屍のように机に突っ伏していた。
遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏が幻聴のように思えてくる。
自分がいるこの部室すらも、幻の一部なのかもしれなかった。
たとえば、あの日ここで見たものを振り返ってみればいい。現世のモノに干渉することのできない幽霊が、物理的な実体を持つ被り物を被っていて、さらに陽はそれを脱がせる事ができた。その状況に合理的な説明を求めた場合、答えは一つしか無い。
前提が間違っていたのだ。
陽は自らの手で被り物を部室まで運び、そしてその記憶を失った――いや、記憶を捏造したのだ。自分は手ぶらで部室に来て、『ゆーこ』に出会い、彼女から被り物を受け取った。そういったフィクションをその場で作り上げたのだ。
だが実際そこにいたのは、被り物を抱えて呆ける
そんな奇妙なことがありえるものか、と思うがしかし、自分の記憶をまったく信用出来ない今となっては、それがいちばんありえそうな答えなのだった。
とうの昔に、自分は一線を越えていたのだと思う。
記憶を閉ざし、頭の中の幽霊と恋人ごっこを繰り広げ、煮詰まらせた譫妄の果てに一番の親友までも傷つけてしまった。
取り返しの付かない過ちを贖うすべなど、どこにも見つからない。
自責や自暴というにはあまりにも空虚な、さえざえとした後悔だけがあった。
身体はまるで無機質な粘土の塊のようだった。重ったるい肉の感覚は自分を縛り付ける鎖のようで、そんな自分を含めた世界のすべてが、現実味を欠いた作り物みたいに感じられた。
ふと、全てを手放してしまおうと思った。
陽の中で、なにかの振子が外れた。
おもむろに立ち上がり、ふらふらと重みのない足取りで部室を横切る。キャビネットの引き出しを開け、乱雑に放り込まれていた文房具の中からそれを選ぶ。
千枚通しだった。
陽が入部するはるか前に見捨てられ、そこに押し込まれていたのだろう。先のほうがどうしようもなく曲がっていて、痘瘡のように浮き上がって剥げたメッキの下には赤茶けた錆が巣食っていた。言うまでもなく先端は丸まりきっており、十枚ほどの紙束であっても貫けるかは怪しかった。
それでもまだ、十分ように立つ。
陽は髪の毛をかき分けて、周りの頭皮とは感触の違うその一点へと針の先を誘導する。
僅かに力を込めると、冷たい金属がやわらかなくぼみを押す感触があった。
あとは力任せに事を成せばよかった。
脳の中に住み着いた幽霊を成仏させる、たった一つの確実な方法。
償いなんて高尚なものではない。
絶望なんて情緒に逃げるのでもない。
取りこぼしたゴミを片付けるだけだ。
自分が事故を生き延びたのは間違いだったのだ。
だんだんと浅く遅くなる呼吸に意識を埋没させ、
何も考えずにただ腕を動かそうとしたそのとき、
扉が開く音がした。
ぎくりと固まった
抱えた書類を放り投げ、捨て身とも思える勢いで陽にぶつかっていく。渾身の体当たりだった。二人はもつれ合いながら床に倒れこむ。跳ね飛ばされたパイプ椅子が大きな音を立てる。気が動転した陽は赤子ように床を這って逃げようとするが、夢子は自分でも驚くほどの腕力でその身体をひっくり返し、馬乗りになった。押しのけようとする手首を掴み、床に叩きつけ、
「――何してんの!」
相手の喉笛に噛みつかんばかりの剣幕で夢子が吼えた。
「何しようとしてたのよ!」
一方、陽の表情は断罪される者のそれだった。小柄な夢子をはね退けることなど造作も無いはずなのに、竦み上がった身体は思い通りに動かず、もぞもぞと身悶えることしかできない。
「よー君までいなくなったら……。もうどうしたらいいかわからなくなるじゃない」
「でも、だって、もう、こうするしか――」
「だってじゃない!」夢子は鋭く叫んだ。「でもやだってで、勝手に納得しないでよ。そんなひとりよがりで、これ以上私の大切なものを奪わないでよ」
その言葉で陽は正気を取り戻した。同時に、全身が崩れ落ちるような罪悪感にも襲われた。
「――あのう」
と背後から声がした。夢子が肩越しにそちらを見やると、開けっ放しの入り口から恐る恐るといった感じで顔を覗かせる運動部の女子生徒が二人。
「先生とか呼んできたほうがいいですか」
夢子は手をひらひらさせ、打って変わって明るい調子で答える。
「大丈夫大丈夫、ただの痴話喧嘩だから。ドア閉めて、ほっといてて」
女子生徒たちが立ち去ると、夢子は陽の拘束を解いた。
床に転がった千枚通しを拾い、カーテンを開け放ち、窓から身を乗り出して人の目がないのを確認し、近くの植え込みにむかって投げ捨てた。扉の前に散らばった書類を拾い上げ、席について言う。
「ちょっと、いつまで寝転んでるの」
陽はのろのろと立ち上がり、転がっている椅子を起こして座った。
しばらくの間、夢子が書類を整理するシャラシャラという音だけが響いていた。作業が一段落して、夢子は顔を上げる。
「さて、説明する用意はできた?」
「……ごめん」
「私は謝罪しろなんて言ってない」
「でも、僕は――」
「勝手に納得しないでって言ったでしょ」夢子は苛立ちと呆れの混ざったため息を一つ吐き出して、「なんであんなことをしたのか。昨日あれからなにがあったのか、それを聞きたいの」
陽は観念して全てを話した。白鳥の被り物、夢子の告白、幽霊の存在――それらの矛盾に答える頭の傷。
「――つまり、よー君の脳の一部が勝手に機能して、お姉ちゃんの記憶を元にして脳の中に幽霊を作り上げた、と」
陽は頷く。
「まず、最初にそれを疑うべきだったんだ。幽霊なんて、やっぱりいるはずがないよ」
夢子は視線を落として、束の間なにかを思案する。
「ねえ、サードマン現象って知ってる」
陽は首を振る。
「たとえば冬の雪山で、どこからともなく自分を励ましてくれる人が現れたり、漂流中の船の上や真っ暗な洞窟でじっとしている時に、どこからともなく声が聞こえたり。そんなふうに極限の状況に置かれた人は、しばしば不思議な幻覚を見ることがあるんだって。
それは幻とは思えないほどにリアルな存在感を持っていて、会話することも出来れば、手をとり肩を支えて道を示し、自分を窮地から救ってくれたりもする。そしてその現象に遭遇した人はしばしば神やあの世といった宗教的な世界へ目覚めたりもする。
たとえば『山小屋の幽霊』もその一種だね。冬の山小屋で四人の登山者が、部屋の四辺をリレーして眠らないように身体を温めるんだけど、あとで振り返ってみると継るはずのないリレーがつながっている――幻の五人目がいた事に気づく」
「僕が見ていた『ゆーこさん』も、そのサードマン現象ってやつだと?」
「サードマンが現れる原因というのは複数あるけど、極限状況を体験しているという点は全てのケースに共通している。心身の疲労、低酸素、低血糖、脳浮腫、極度の不快状況に対応するための自己催眠――。よー君の場合はたぶん、事故によってそれが引き起こされた」
夢子の話は、すっと胸に落ちた。自分の体験した未知のものに理由と名前が与えられるというのは、少なからず不安を取り除いてくれるものだ。
「だけど、僕がお前にしたことまでも幻覚のせいにするわけにはいかない」
「そうだね」
と頷いて夢子は目を閉じ、大きく息を吸った。再び開いた眼差しはどこか優しく、いつの間にか灰色の雲に覆われていた空の彼方へと向けられていた。
「実際のところ、図星だった」
「――え」と陽は思わず声を漏らした。
「自分でも結構自覚してたんだ。よー君が保健室で言ったことも、昨日……お姉ちゃんが言ったことも、全部心当たりがある。
私、フラれてからもずっとそのことを引きずってた。諦めることができなくて、ぐじぐじと気持ちを腐らせて、それがいつの間にかお姉ちゃんへの恨みに変わっていた。
お姉ちゃんとよー君のことは祝福してたよ。私との関係だって特に変わらずに、全ては今までどおりで――いや、むしろ良くなったんじゃないかって思う時もあった。
……だけど、やっぱり幸せそうな二人をみてると、時々胸の奥がもやもやしてきて、お姉ちゃんのことが恨めしくてしょうがなかった。自分のものを取られた気がして、悔しかった。
ほんと、最低だよね。フラれたうえに逆恨みまでして」
夢子は自嘲するでもなく、開き直るわけでもなく、ただ穏やかな口調で言った。
「でも、あれは本物のゆーこさんなんかじゃない。頭のおかしくなった僕が、ゆーこさんのマネをしていただけだ」
「そうやってすぐに問題から逃げるのはよー君の悪い癖だよ。なんでも勝手に納得してうやむやにしようとするとこあるよね。私、よー君のそういうところが嫌い」
いつだったか、似たようなことを『ゆーこ』に言われた気がする。
「じゃあ仮に、お姉ちゃんの幽霊がサードマン現象であったとして、そして全てがよー君の頭の中での出来事だったとしよう。そうすれば『幽霊』については説明出来る。……でもね、それを踏まえた上で、さらに一つ疑問があるの。
よー君が遭遇したサードマンは、なんでお姉ちゃんの姿をしていたのかな?」
「それは……」
「正直、私よりもよー君のほうがお姉ちゃんのことをよく知ってると思う。それこそ身体のすみずみまでね。そしてその記憶は、間違いなく本物の記憶だといえる。だとしたら、本物のお姉ちゃんの記憶によって作り上げられたそれを、単なる狂気や妄想を理由に、まったく無意味なものだと言い切っていいものなのかな」
陽はその問いに答えられなかった。いくら記憶が本物でも、幻は幻なのではないかと思う。
「……そんなこといわれたって、僕には答えようがないよ」
「少なくとも私はあの時、本当にお姉ちゃんの幽霊がいるように感じた。私の後に立ったお姉ちゃんが、じっと私を見ているんだって、本気で怖かった。
……本当のことを言うとね、私もお姉ちゃんに嫉妬してたんだ。よー君のことだけじゃない。いつだって明るくて行動力があって、すぐに誰とでも仲良くなれて。私なんかよりずっと頭の回転が早くて、どんなことでもすぐに解決しちゃう。飽きっぽくてすぐに投げ出すくせに、何かを始めれば持ち前の器用さであっというまに上達する。
だから、お姉ちゃんも私に嫉妬してたっていうのを聞いて、少しホッとしたというか……ああ、やっぱりそうだったのかなあって思った。
私とお姉ちゃんって、よく正反対な性格だって言われるけど、実は似たもの同士な姉妹なのかもしれないって、そう思えたんだ。
たとえそれが本物のお姉ちゃんの言葉じゃなかったとしても、私の知らないお姉ちゃんを知っているよー君が、その記憶の中から汲み上げた言葉なら、少しは信用してもいいと思った。そのくらいにはあなたのことを信頼してる」
そして夢子は陽を真っ直ぐに見つめ、宣言する。
「私は、お姉ちゃんが好きだった。行動派で頭が良くて皆から好かれるお姉ちゃんのことが、嫉妬するほど誇らしかった。そしてそれは、お姉ちゃんも同じだったんだ。お姉ちゃんはいつだって私のことを気にかけてくれていた。いつだって私より先を歩いて行って、早くしろってイライラしながら、それでも私が追いつくまでちゃんと待っててくれてたんだもの」
気づけば随分と日が陰り、まるで夜のような暗さの中に二人はいた。
厚い雲が低空を流れ、時折強く吹く風に窓がガタガタと揺れている。
嵐の気配が急速に強まっていた。
「ねえ、よー君はお姉ちゃんのことをどう思ってる?」
「どうって言われても。……やっぱりあれは幻覚で、僕は気が変になってたとしか思えない」
「違うよ」夢子は寂しげな表情で頭を振った。「お姉ちゃんの幽霊をどう思うかじゃなくて、幽霊になったお姉ちゃんに対して、よー君自身はどう思っていたのかを訊いてるの」
その問いかけが呼び水となった。
地面に落ちた朽葉が空を昇って枝に戻り青葉へ還るように、ゆーこと過ごした日々の記憶を無意識のうちに遡っていた。その逆向が最初に出会ったこの部室まで辿り着いた時、胸の中には確かなその感触が宿りつつあった。
「楽しくなかったと言えば、嘘になる。結局ゆーこさんのことはなにも思い出せなかったけど、それでも二人で昔のことについて色々話すのは、楽しかった。ゆーこさんが自分の大切な人だったんだなって、そう思えることもあった。恋人だったとかそういうのを抜きにしても、良い人だなあって思ったし、だから記憶が戻らなくても、成仏できなくても、一緒にいられるならそれほど悪くもないかもなって考えたりもした。
――だけど結局、それも自作自演の一部でしか無かったんだよ。自分が好きだった人の、好きだった記憶の欠片を集めて作ったものなんだ。自分で気に入らないはずがない」
「そのとおり、幻かもしれない。よー君の頭の中にある無意識という機織り機が、記憶の糸を使って勝手に編み出した、脳の中の幽霊だったかもしれない」
夢子の声が徐々に熱を帯びていく。
「でも、だからといって、その幽霊と一緒にいたよー君自身が見て、聴いて、感じたものが、過ごした時間が、それら全てのことまでもが幻にはならないと思う。
だって、あなたは生きてるから。全てを嘘で片付けるには重すぎるほどの実体をもって、確かにここに存在しているから。それがただのひとりよがりでも、都合のいい偶像だったとしても……今ここで生きているよー君は本物なんだから。
ならば、こう言い換える事もできるでしょう。あなたが見ていたお姉ちゃんの幽霊は、あなたが愛したお姉ちゃんの姿そのものでもあるんだって。だから私は、そんなあなたが愛したお姉ちゃんの幽霊を――」
『私がただの幻覚なんだってことは、わかってた』
束ねたカーテンの影から、ゆーこが姿をあらわした。
『まるで夢を見ているように感覚が曖昧なのは、そもそもの身体的記憶が無いから。本来なら知らないはずのことを知っているのは、陽ちゃんの記憶が混ざっているから。私が陽ちゃんと一緒にいた時の記憶しか持っていないのは、それ以外の記憶なんて最初から無かったから』
その姿は窓から差し込む薄暗い光に包まれて、水面を渡る波紋のように揺らいでいた。
陽は思わず立ち上がった。その表情を読み取った夢子が言う。
「もしかして……いるの? そこにお姉ちゃんが」
しかし陽の耳には届かない。陽はふらふらとゆーこの元へ向かう。
『私はランダムに打たれた文字列に紛れた、数行の日記。
私はいつか歌われたメロディの遠い残響。
私は陽ちゃんの脳のリソースを食いつぶして実行されたバグ』
淡い輪郭はオーロラのように、滑らかで唐突な変化を繰り替えしていた。その表面に様々なゆーこが現れて、消えてゆく。
『それしか答えはないんだって、わかってたよ。……それでも、それなのに。……ここにこうして夢見られている自分がニセモノなんだって思うと、何の価値も持たないただのフィクションにすぎないんだって思うと、怖くて怖くて仕方なかった。この指は一度も陽ちゃんに触れたことがないんだって事実がひたすら悲しくて仕方なかった。曖昧な意識の中で、衝動に突き動かされた自分が何をしでかすか、恐ろしくて仕方なかった』
細切れになった感情の欠片が、嵐のように吹き荒れ、顔面上に喜怒哀楽のモザイクを作り出す。その混沌は無声の絶叫にほかならなかった。
『でも、むっこが陽ちゃんに迫ったとき、自分の中の何かが突然崩れて、感情が止められなくなて……。結果的に、全ての責任をあなたに負わせてしまった』
なぜだろう。
『赦してなんて、言えるはずがない。助けてなんて、言えるはずがない』
なぜこんなにも胸が痛むのか。
『なにも言わずに消えることだけが、この私にできる唯一の良きことだっていうのはわかってる。だけど……それでも私は、』
全ては白昼夢でしかないのに。愚にもつかない一人遊びだとわかっているのに。こうして自己の存在の寄る辺なさに怯えるゆーこを前にして、なぜこんなにも心が揺れるのか。
自分には言うべきことがあると、陽は思う。
「――幻なんかじゃないよ」
ゆーこの頬に右手を伸ばした。
「本物のゆーこさんは――
霞のような頬に重ねた手のひらが、繊細な骨格に沿わせた指が、じりじりと痺れて熱を持つ。
「だけど僕の中にある思い出は本物だったんだ。思い出すことはできなくても、失われてなんかいなかったんだ。僕の心に残った歯型を――大切なその人が生きていたという証の存在を証明してくれたのは、他でもないゆーこさんだ。それが僕の中に残っていると教えてくれたのはゆーこさんだ」
荒れる外の天気とは反対に、ゆーこの姿は夕暮れに凪ぐ海のように静けさを取り戻していった。
「――だから、僕は信じたい。河姆渡悠子ではない、今ここにいる幽霊の『ゆーこさん』を信じたい。ゆーこさんは無意味なんかじゃない。夢子の言うとおり、ゆーこさんと一緒にいた日々はニセモノなんかじゃなかった。ゆーこさん自身が僕の中に残した思い出は、ゆーこさんだけがくれたものだ」
添えられた膚の温もりを確かめるように、ゆーこは手のひらに顔を埋め、小鳥の翼のような手を重ねた。
ぼやけていた輪郭がピントを取り戻し、髪の毛の一本までが鮮やかな像を結び始める。
「最初にここで出会った時、めちゃくちゃビックリしたよ」
『うん』
「昔の話をたくさんしてくれたよね」
『うん』
「一緒に歩いた肝試し、楽しかったよ」
『うん』
「ゆーこさんのお気に入りの店、僕も気に入ったよ」
『うん』
「海で話したことは、正直難しくてわかんなかった」
『うん』
「僕が迷ってる時はいつだって励ましてくれたよね」
『うん』
「僕はもう大丈夫。もうゆーこさんを疑ったりする必要はないってわかったから」
いつか言いそびれたその言葉が、自然と喉の奥からあふれた。
「僕はゆーこさんのことが好きなんだってわかったから。――だから、ありがとう」
柔らかに細めたゆーこの目から玻璃玉のような涙がこぼれた。
透き通った水滴に映り込んているのは陽とゆーこの思い出に違いなかった。
『私も同じ気持ちだよ。――河姆渡悠子の記憶としてじゃない、今ここにいる幽霊のゆーことして、私はあなたのことが好き』
無論、そんな二人のやり取りは夢子には見えていなかったが、しかしじっと目を伏せたその胸の内では懐かしい姉の声を確かに感じていた。
背後で、蝶番がギジジジジと鳴いた。
編集部の扉は立て付けが悪い。閉め方が甘いと時々こうやって勝手に開く。
陽と夢子は反射的にドアのほうを見たが、そこには誰も居なかった。
その時、ひときわ強く吹きつけた風が窓を叩き、大きな音を立てた。
校舎の何処かで窓が開いていたのだろう。揺らいだ大気は肌でもそうとわかるほどに波打って、部室の中を駆け抜けた。
因みに、編集部の窓もあまり立て付けが良いとはいえない。濃密な気圧の手に押された窓はいとも簡単に弾けて開き、均衡の崩れた室内に濁流のような風が押し寄せた。
夢子は身をすくめ、弄ばれる髪の毛を抑えた。机の上の書類が飛ぶ。窓に引きずり込まれたレースのカーテンが、バタバタと音をたてる。舞い上がった埃を目に受けた陽は目蓋を瞬かせ、その視界の端を小さな蒼色がかすめて飛び去った。
全ては一秒にも満たない間の出来事だった。
風はすぐに勢いを失い、静けさと暗さが舞い戻った部室にはもう、ゆーこの姿は無かった。
廊下の方から、騒がしげな声と足音が近づいてきた。
「すいませーん」
運動部の女子生徒――さっきのとはまた別の子だ――が数人連れ立って、ドア枠から身を乗り出していた。
「こっちに鳥が飛んで来ませんでしたかー?」
「鳥?」と飛ばされた書類を拾いながら夢子が受け答えする。
「はい。えっとー、大きさはこんくらいで、なんかすっごい綺麗な青色をしてて」
と、女子生徒はやや興奮した様子で鳥の大きさをジェスチャで示した。
「ここの窓から飛んでいったよ」
窓を閉めた陽が答えると、すこし残念そうな顔で、
「そっすかー。まあ無事に逃げたようでなによりですね。でもほんと、綺麗な鳥だったなー」
「オオルリっていう鳥だよ。ウグイス、コマドリに並んで三鳴鳥と称される、夏の渡り鳥」
「へえー。渡り鳥なんだ」と素直に感心した女子生徒は、「まあともかく、いきなり押しかけちゃってすいませんでした。それじゃ、失礼しましたー」一礼して編集部を後にした。
夢子は廊下に顔を出して左右を確認し、ドアノブをしっかり引いて扉を閉める。
「まったく、このドアもちゃんと直したほうがいいかもね」
席に戻った夢子は、窓の外をぼうっと見つめている陽に語りかける。
「……ねえ、お姉ちゃん、まだそこにいる?」
「いや、もういないよ」
「そっか」夢子は頷いて、「もしかしたらオオルリの背中に乗って、飛んでっちゃったのかもね」と冗談めいた明るい口調で言った。
陽は沈黙したまま、窓際に立ち尽くしている。
身じろぎ一つしないその背中に異様な雰囲気を感じた夢子はもう一度、
「ねえ、よー君――」
ごつん。
糸の切れた操り人形のように、陽の身体がその場に崩れ落ちた。
「よー君!」
夢子はすぐさま駆け寄った。だらりと横たわる陽の身体を見た瞬間、最悪のケースが脳裏に浮かんで血の気が引く。衝動的に肩をゆすろうとして、しかしなんとか思いとどまる。
「よー君! ねえ聞こえる。よー君! 目を開けてよ!」
何度も何度も耳元で叫んだが、ゆるく閉じられた目蓋はぴくりとも動かない。
意識が全くないと見るや、夢子はすぐに次の行動に移った。身を翻しドアをぶちぬくような勢いで部室から飛び出し、職員室に向かって全速力で廊下を走った。
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