7: Keep Me In Your Heart

河姆渡悠子

 名前を呼ばれた気がした。

 今にも途切れそうな弱々しい声が、夜の海に響く波音のように静かに揺らぎ、混濁した意識を洗い清めてゆく。

 変な臭いがするな、とふるとりようは思った。

 全身が鉛のように重く、空中に浮かんでいるように曖昧な感覚の中で、その臭いだけが強く鼻を刺激した。ガソリンと機械油の混ざったそれは気付けのような役割を果たし、陽の意識を覚醒に向かわせた。

 そこは車の助手席だった。グローブボックスのあたりから飛び出たエアバッグの白い袋が、だらりと垂れ下がっている。なぜかルームランプがついていて、背後から差し込む白色光が、がたがたになったダッシュボードに黒々とした影を作っている。

「――ちゃ」

 すぐ近くで、声がした。

 そちらに顔を向けようとしたが、身体はコンクリートで固められているように重かった。懸命に頭を動かそうとしていた時、ふと肩が揺さぶられ、座っていた首がころりと右に傾いた。

 空が見えていた。

 一体どれほどの力が働いたのだろう。ほぼ原型を留めている助手席とは打って変わって、運転席側のピラーからルーフにかけてが、ごっそりと消えていた。折れ曲がったボンネットは壁のように屹立していて、押し出されたダッシュボードから取れかかったハンドルがシフトレバーのほうを向いてうなだれている。

「――よう、ちゃん」

 悠子ゆうこは左手で陽の服を握って、必死に揺さぶり続けていた。

「起きて、陽ちゃん。……聞こえてるんでしょ。……ねえ、陽ちゃん。陽ちゃんてば」

 下半身はせり出したダッシュボードに挟まれ、顔はべったりと血に塗れていた。

「やだよ……。起きてよ。……死んじゃやだよ、陽ちゃん。いやだ……。……陽、ちゃ」

 泣き出しそうな子供のように顔をひしゃげて、ゴボゴボと溺れかけるような音を喉にからませて、それでも悠子は陽の名前を呼び続けた。

「……ダメだよ。わたし……おいて、っく。一人にしない、で。……死なないで。陽ちゃん。……いやだ。こわいよ。……陽」

 大丈夫だよ、と言いたかった。頭はぼんやりしているけど、運転席にくらべたらこちらの被害なんて無いも同然だ。きっとこれくらいで死んだりはしない。だから大丈夫――そう言いたいのに、身体はまるでマネキンのようにびくともしない。

 肩を揺さぶる力はみるまに衰えていった。それと同じように名を呼ぶ声も、更に小さく薄弱とし、精一杯の呼吸に紛れて聞こえなくなっていった。

「――陽、ちゃん」

 やがて握力を失った手が滑り落ちた。それでもまだ悠子は腕を伸ばそうと力を振り絞り、そのはずみでバランスを失った上半身ごと、陽の方へ倒れこんだ。

 だらりと投げ出された陽の右手の上に落ちた顔が、嫌な音を立てた。

 それでも悠子は芋虫のようにもぞもぞと身悶えして、少しでも陽に近づこうとした。

「――やだ、よ」

 ごぼり、とひときわ大きい水音が鳴り、悠子の全身が痙攣を始めた。


 陽の右手の中で、悠子の命がゆるゆるとあふれだしていった。

 その熱は冷たい夜の底にこぼれて、もう二度と戻らない。

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