YOU
保健室を後にしてから、
自ら連絡を取ることはなかったし、相手から連絡が来ることもなかった。部活関連のあれやこれやも、全て
返答の用意が必要とあらばいくらでも待つつもりではあったが、こうしてまた部活の日になり学校へ向かう段階になってまたぞろ緊張がぶり返してくるというのはやはり、まだどこかに夢子と向き合うことへの不安が残っているのだろう。
地元駅に到着する。夢子の姿が無い事に思わず安堵を覚えてしまった自分に気付いて、陽は心中に自嘲した。ゆーこに言われたとおり、やはり自分は優柔不断だ。この場にゆーこがいたなら、しゃきっとしなさい、とか言われてしこたま尻を叩かれていたに違いない。
学校に到着する。陽は昇降口で上履きに履き替えながら――誰も見ちゃいないのだからはばかることなど無いのに――横目でさり気なく夢子の下駄箱を覗き見る。見慣れたローファーが澄ました踵をこちらに向けてボックスの中に佇んでいる。少し安心する。
部室に到着する。今朝からずっと夢子への対応の脳内会議を繰り広げてきたが、堂々巡りの果てに思考はとっちらかる一方で、何一つ有意義な結論を導き出せなかった。ドアに貼り付けられた『文芸・編集部』の表札が時間切れを宣告している。がさがさに乾いてめくれ上がった唇を噛む。リップクリームを塗る。フスン、と鼻息にのせて脳内のゴミどもを一掃する。
開ける。
「ういーっす」
いつもの調子で部室に入れば、いつものように乱雑な部室でいつもより少ないメンツがいつもと同じような雰囲気で作業をしており、その中でいつもと同じ席に座っている夢子は後ろでまとめたいつもと少し違う髪型をしていて、
「おはよう」
いつもと同じ調子で挨拶するその頭に、羽を象ったヘアピンをつけていた。
「あ、はい、おはようございます」
とっさに敬語が出るくらいには動揺した。パイプ椅子に腰を下ろし、バッグから荷物を取り出しながら、無意識のうちに鈍色のモチーフへ目が引きつけられてしまう。
そんな挙動不審な様子に夢子は首をかしげて、
「――どうかしたの?」
「ん、あ、いや、体のほうはもう大丈夫なのかなって」
「お陰様でね」何も気にすることはないといった顔で、「皆に肩代わりしてもらったお陰ですっかり良くなったよ。やることが無くて暇で暇で。このあっつい時に外に出るのも厭だし、ずっと食っちゃ寝食っちゃ寝してたら、夏バテ回復を通り越して体重増えちゃった」
「それはよろしい」
「全然よろしくありません」とささやかなむくれっツラを作って、「ああ、そういえばあの話だけど、部活が終わってからでいいでしょ」
あまりにも普通の調子で言うものだから、あの話ってなに、と聞き返しそうになった。
「うん、わかった。じゃあそれは後でってことで」
話そのものをなかったことにされる、という危惧はとりあえず回避された。猶予も部活の終わりまでとはっきり決まったことだし、あとは野となれ山となれだ。
胸にわだかまっていたものが消えた陽は、気分を切り替えて部活に専念した。
地元の駅に到着すると、いままで押し黙っていた夢子がようやく口を開いた。
「とりあえず、私の家にいこう」
陽は頷き、駐輪場から自転車を取ってくる。乗って行くかと訊ねたが、夢子は頭を振った。
駅の西口を出て少し歩けば、視界に広がるのは田んぼの緑だけになる。道はひたすら真っ直ぐで、空気はひたすら生ぬるく、ひたすら動きに乏しい景色は二人を取り残して時間を止めてしまったようにすら思える。
ふと、夢子は陽の顔を見上げて言った。
「ねえ、今日の私の髪型、なにか気づかない」
「髪型ってか、そのヘアピン、ゆーこさんのだろ」
「やっぱり気づいてたんだ」細い指を羽に滑らせて、「お姉ちゃんのお気に入りだったから、一緒にお棺に入れてあげようと思ったんだけど、形見が欲しくて貰っちゃった」
ふーん。と陽は頷く。幽霊になってからもつけているあたり、本当にお気に入りだったのだろう。夢子は話を続ける。
「ずっと、他人事だと思ってた。まさか自分の大切なものが突然無くなるなんて、そんなことあるはずないって、無根拠に安心しきってた。
……笑っちゃうよね。日常なんてものはいつだって、さしたる理由もなしに突然奪われ得るものだって、私たちはそれを目の当たりにしていたはずなのに。……多分、心の何処かでは他人事のように思ってたんだ。それこそ未曾有の災害でも起こらない限り、私たちの日常は変わらないんだって、どこかで高をくくってた」
陽は相槌を打つこともなく、ただ話を聞いている。
「でも実際のところはさ、そんなに違いはないんだよね。戦争だろうが天災だろうが交通事故だろうが、起こってしまったことは一人の人間にはどうすることもできなくて――そしてそれ自体には意味も理由もなく、ただ事実として受け入れることしか許されない。物語という装飾を剥いでみればみんな同じ、重くも軽くもないただの事実」
夢子の声は稲穂を渡る風になって、淡く陽の中を通り過ぎる。
それは霧箱に落ちた粒子のように、『日常』という言葉を軌跡として残していった。
日常――。十数年も繰り返したそれはしかし、よくよく考えれば全く同じであったことなど一度もないはずなのだ。どんなに似通った一日だとしても自分自身は確実に変化しているし、自分のあずかり知らぬ世界の何処かでは、今この瞬間にも誰かの日常が終わっているに違いなく、そして自分はそれらの物事を慣習でひとまとめにし、忘却という名の生ごみ処理機にぶち込んで出来上がったなにかを日常であるとしていた。
それならば――日常というものが忘却と慣習によって成り立っているとするならば、果たしてそれは本当に日常と呼んでよいのだろうか。
日常というものはもしかすると、以前にゆーこが言った『魂』と同じように、前提を違えた擬似問題なのではないか。
陽は返す言葉を見つけられないまま、ラチェットのように空回りする思考を押して歩いた。
「飲み物持ってくるから、クーラー入れて待ってて」
「あいよ」
夢子はいったん自分の部屋に荷物を置き、下に降りていった。陽はそれを足音で確認してから、ゆっくりと深呼吸をする。
ゆーこの匂いがした。
夢子に似ているがそれよりも少し複雑な匂いだ。以前来た時よりも更に薄くなったような気がする。ふと、ベッドに頭から潜り込んで匂いを嗅いでみたいというフェティッシュな衝動に駆られたが、ゆーこに見られでもしたら恥ずかしいことこの上ないのでやめておく。内側のカーテンを開け、コンセントが刺さりっぱなしのエアコンの電源を入れる。
ベッドも机もゆーこが使っていたころのままで、今にも戸の向こうから生身のゆーこがひょっこりと顔を出しそうなくらいの生活感があった。が、しかし押入れの前に積まれたダンボール――アパートから持ってきた荷物だ――は無言で主の不在を主張していた。
久しぶりに起こされたエアコンが埃臭い咳をして、部屋の空気を静かにかき回し始めた。
夢子が盆を持って部屋に戻ってきた。
陽は麦茶の入ったコップを受け取ってベッドに腰を下ろした。
互いの出方を窺うような、よそよそしい沈黙。
ガラスの肌に浮いた水滴が、だらだらと指を濡らしてゆく。
どのくらいそうしていただろうか――。放心したように茶色の水面を見つめていた夢子が、ふ、と息を漏らして、口も付けないままコップを盆に戻した。
「私は大丈夫だから。もう一度最初から聞かせて」
まっすぐに陽を射抜く双眸は先日とは打って変わって柔らかく、昏い色は見えない。
陽は麦茶を一気に飲み干して、言う。
「僕が復学したあの日、誰もいない部室で脅かされた。演劇部の依頼で作ったっていう白鳥の被り物を被ってた――」
部屋で腰を抜かしたこと、布団の上に正座して説教を受けたこと、借りてきたアルバムを二人で一緒に見たこと、二人で肝試しを楽しんだこと、坊主を呪い殺そうとした四十九日のこと、海に行った日のこと――
さしあたっては具体的なやり取りは省き、日記的に掻い摘んだエピソードにとどめた。勢いに任せて走りそうになる口をなだめ、ゆっくりと、一つ一つの場面を頭のなかで思い出しながら、陽は物語った。
夢子は適度に相槌を打ちながら、しかし聞いているのか居ないのかも判然としない、淡々とした面持ちで耳を傾けた。陽が語り終えるとしばらく考えこんで、
「――それで?」と夢子は部屋の中を見回す。「今もいるの?」
陽が首を振ると夢子は少し気を緩めて、
「じゃあ、声が聞こえるとかいうのは?」
「頭の中に響くっていうか……そうだな、例えるならヘッドフォンをしてるようなふうに聞こえたりするんだ。声を操られるときは、文字通りスピーカーだよ。まるでゆーこさんの声が銅線を流れる電流にでもなったように、承知か否かも関係なしに言わされる感じ」
「なにそれエクソシストみたい」
「まあ実際そんな感じだよ。逆さになって這いまわったり首がぐるんぐるん回ったりは流石にないけど、正直いまだにびっくりすることもある」
陽は冗談っぽく笑ってみせるが、目の前の仏頂面は緩む気配もない。
「それで、お姉ちゃんの心残りってなんなの」
「大雑把なんだけど、二つある。一つは、僕に記憶を取り戻して欲しいということ。もう一つは夢子の――夢子に安心して欲しいということ」
どう言おうかと迷ったが、ゆーこが言った『安心』という言葉を、そのまま使った。
「安心って、どういうこと。――私ならもう大丈夫だって言ったじゃない。確かに少しナーヴァスな気分を引きずっているかもしれないけど……でも、お姉ちゃんのことについては自分なりに区切りはつけてる」
「吐くぐらいなのにか」
にわかに能面が崩れる。夢子は不愉快とばかりに顔を背け、
「ただの夏バテだって」
嘘をつけ、と思う。
自己管理力が低いわけでもない夢子が夏バテであそこまで体調を崩すなんて考えられなかったし、なによりも夢子が戻したのは先日だけではないのだ。
海に行こうと誘われた夏休み前のあの日の事を、陽は覚えている。
「仮にそうだとしてもだ。ずっと様子が変だったってのは自分でも分かってるだろ。……それとも、上手くごまかせてるとでも思ってたのか? 皆だっていつものお前らしくないって心配してるのに」
「いつもの私ってなによ」夢子は皮肉っぽい失笑をこぼして、「変わったのは私のほうじゃなくて『いつも』のほうでしょ。私は何も――何一つ昔から変わってなんかいないのに」
「そうだな……。さしたる理由もなくただ突然にそうなったっていうのは、お前の性格からしたらやっぱり受け容れ難いんだろうなってのは、わかる」
変わってなどいないのだろう。
昔から、夢子は理性の信奉者だった。研ぎ澄ました因果の包丁はまさに万能であり、あらゆる事物は綺麗に切り分けて皿の上に並べられるものなのだと信じて疑わなかった。もちろんそんな勝手が通じないことはいくらでもあったし、夢子だって『馬鹿の馬鹿たる所以』は承知している。理不尽を理不尽のままに料理できる柔軟性がなければ、編集部の副部長なんて務まるはずがなかった。
しかし、
「あれはそういう意味で言ったんじゃない。事実は事実として、しょうがないんだって思ってるって言いたかっただけ」
どこかで捌き方を間違えたのだろう。それが他人事ならば諦めて放り投げることもできようが、俎上に横たわるのはほかならぬ自分自身であり、故に逃げることもままならない。自分でもおかしいと思いながら取り返しの付かない間違いを重ね、ぐちゃぐちゃに肉を削ぎ骨を割られたそこにはもはや子供じみた意固地しか残らず、それに縋りついて「鴉も浴せば鵠になる」と唱え続ければそれが本当になるのだと信じているかのようだった。
陽はゆーこのレクチャーを思い出す。
「まあ、お前のそういう『理屈が全て』みたいなとこは小さい頃からずっとそうだったもんな。実際にお前はいつも正しかったし。物事は全て正しくあるべきで、何よりも自分自身が一番正しくなければならいと思っている。そういう性格だった」
「勝手に人の性格を決めつけないでよ」
夢子が苛立ちを露わにして言った。
「でもそこがお前のいいところだと僕は思ってるし、そういう生真面目なところは本当に信頼できる。……だけどゆーこさんはお前のそういうところを『愚直』だと言ってた。正直、僕もそれには肯けるところがある。お前は――」
「幽霊だかなんだか知らないけど!」
張り詰めた声が、陽の言葉を遮った。
「私にはよー君の言ってることがわからないよ。……確かに、私はどこか変になってるんだと思う。皆が心配してるのもわかってるし、正面から向き合って折り合いを付けなきゃいけないんだってのもわかる。……だけどこんなんじゃ無理だよ。お姉ちゃんの幽霊が居るとか言われても、私にはよー君のほうがおかしくなっちゃったようにしか見えないよ」
人の形をした見知らぬ何かを見るような、怯えた視線だった。
「だいたいおかしいよ。お姉ちゃんが本当に私のことを心残りにしてるなら、なんで私にはお姉ちゃんが見えないの。夢の中でもいいからなにか言ってくれればそれでいいのに。
――どう考えたっておかしいのはよー君のほうじゃない。お姉ちゃんのことだけ綺麗さっぱり忘れちゃったってだけでもありえないのに、それなのに今度は幽霊だなんて、そんなこと言われたってハイソウデスカなんて信じられるわけ無いじゃない。それならまずよー君の記憶を取り戻すほうが先でしょ」
夢子は己の胎内へ引きこもるかのようにきつく抱きしめた膝に顔を埋める。震える声はところどころ引きつり、それでもなお嘆願するように続ける。
「私のことなんか放っておいてよ。……放っておいてくれれば全部忘れられるのに。大丈夫になるのに。そんな滅茶苦茶なことを言われたってわかんないよ」
聞き分けの無い子供を諭すような優しい声で、陽は語りかけた。
「それがゆーこさんの望みなんだよ。記憶のことについては、ゆーこさんも僕も、もうこれでいいってことになった。だから後は夢子を――お前を安心させて欲しいって、ゆーこさんはそう言っていた。なんだかんだ言ってもさ、ゆーこさんはお前のことを大切に思ってるんだよ」
そこで突然、夢子の心がへし折れた。
何かの箍が外れた瞬間が、陽にもはっきりとわかった。
机を跳ね飛ばすような勢いで立ち上がったその目は、獣のような色に染まっていた。爆発的な勢いで向かってくる足取りに一瞬身体が怯え、何故か反射的に頭を守ろうとして持ち上げたその手首を、小さな手がもぎ取る。咄嗟の判断も利かずにそのまま腕を捻られ布団の上に引き倒された陽の脇腹を、馬乗りになった夢子の白い太腿が締め付ける。
「ふざけるのもいい加減にしてよ! なにが安心だよ、なにが大切に思ってるだよ!」
へし折れた亀裂から一気に感情があふれ出した。夢子は唾が飛ぶのも構わずに、喉の奥底から言葉を吐き出す。
「いつだって私の大切なものを横取りしていくくせに。皆の前では私を可愛がるような事を言いながら、自分の引き立て役くらいにしか思っていなかったくせに。……こないだの保健室で、敵なんかいないってよー君は言ったけど。たしかに敵はもういないよ。だって、私のいちばんの敵はお姉ちゃんだったんだから」
違う。そんなことはない。ゆーこは夢子の事を悪く言うところがあるけれど、それは姉妹故の気安さからくるものでまったく本心ではないはずだ。
陽は抗弁しようとするが、腹を押されているせいで上手く呼吸が、
――気配がおとづれた。
五感の解像度が二次曲線的に上昇する。布団の匂いがまるで雨上がりの畦道ような濃密さで立ち昇ってくる。カーテンの隙間から差し込む日光が額に浮いた脂汗を焼く。倒れたコップの中身が床にパタパタこぼれている。まるで海底に沈んだように、空気が猛烈な圧力で身体を押さえつけてくる。舞い上がった埃がマリンスノウのようにゆっくりと部屋を横切り、
「あなたのそういう面倒くさいとこ、ほんとウンザリする」
夢子の肩越しに立つゆーこが、心底つまらない物を見るような顔で二人を見下ろしていた。
金縛り状態の陽はまったく視線をそらすことができない。
夢子はその口調に一瞬戸惑い、しかしすぐにその瞳の先に何が居るのかを悟って凍りつく。
「自分がどんだけいいものを持っているのかは無頓着なくせに、後悔だけは一丁前よね」
やめろ。
「あの子なら放っておいても自分で何とかできる、ってな感じで放任されてた私と違って、あなたはまるでお姫様だったもの」
ゆーこの口調と混ざり合った自分の声が、たとえようもなく気持ち悪い。逆光に浮かぶゆーこの姿はこの世に対する呪いそのものが空中に凝結したようで、その白い輪郭に縁取られた無表情が、心の底から恐ろしい。やめてくれ、と陽は頭の中で叫ぶ。もう、やめてくれ。
「私ね、あなたのことが嫌いだった――というよりは嫉妬してたのかな。物静かで我慢強くて努力家で、誰からもチヤホヤと良い子扱いされて、周りの人が自然と手を差し伸べてくれる。身体にしても背は私より高いし、脚も腕も細くて綺麗で、顔だって私より整ってる。私が勝てるとこなんて、ちょっと勉強ができるとか友だちが多いとか、あと声がうるさいとか、それくらいしか無かった。
髪を切ったのだってそう。あなたのほうが髪が綺麗だって、陽が言ったからだよ。負けを認めるのは好きじゃないけど、勝てない勝負はとっとと降りるってのが私のポリシーだしね」
夢子は茫然自失として動かず、陽の胸に落ちた視線は焦点を失ったまま何も見てはいない。
「人よりちょっと要領が良いだけで、まるで十徳ナイフか何かのように勝手にいろいろ期待されて、それに頑張って応えても、見返りはさらなる過剰評価……。
だから、あなたの持ってる『いいもの』が羨ましかった。いつだってそれが欲しくてしょうがなかった。――でもね、あなただって人のことを言えないでしょ。ひとの男にちょくちょく色目を使ってさ。バレてないとでも思ってた?」
夢子は隠していた罪を暴かれたような狼狽を浮かべ、震える唇で、
「――ちがう。だって、それは」
「私が陽をとったから? それこそ違うでしょ。抜け駆けしようとしたのはあなたのほうじゃん。中学二年の時に、
細い指がゆるゆると解け、虚ろだった表情がみるまに恐怖と恥辱で満たされてゆく。
「なんで――なんでお姉ちゃんがそれを知ってるの」引きつった口元が泣き笑いのような表情を作る。「あの日のことは絶対誰にも言わないって、約束したじゃない。前に天鶴山に行った時だって、よー君はあのことを忘れてるって……」
夢子の中に冷たい理解が宿った。上体を起こし、壁に向かって呟くように言う。
「ああ、そっか。私、嘘をつかれてたんだ」
「違う」反射的に答えたのは陽だった。「僕は嘘なんか――」
「あの日のことは私とよー君しか知らないんだよ? お姉ちゃんが知ってるっていうのなら、それはよー君が話したってことじゃない。たとえお姉ちゃんがよー君の頭の中を覗けたとしても、こんどはあのことを忘れてるって言ったことが嘘になる」
その頬をつたう涙はしかし、感情の表現ではなく機能の崩壊というべきものだった。無造作な勢いであふれた涙は鼻筋から口をなぞり、顎の先からぼたぼたと滴るままになっている。
「わかった。もういい」
乾いた声。
夢子はのそのそとベッドから降りた。そして雑な手つきで頭のヘアピンを掴み、ピリピリと髪の毛が切れるのも構わずに毟り取り、だらりと腕を下げた勢いのまま床に投げ捨てた。
「幽霊ごっこがやりたいなら一人で勝手にやってなよ」
軽蔑するのも面倒だというふうに吐き捨てて、夢子は部屋を出て行った。
あとに残ったのは呆然としてベッドに沈む陽と、埃っぽい空気をかき混ぜるエアコンの吐息と、茶色い水たまりに塗れた銀色の羽根だけだった。
夢子は自分の部屋に引きこもったまま出て来なかった。
陽は半ば放心状態で、逃げるように河姆渡家を去った。
こんなはずではなかった。
頭の中ではただその一念だけが、無限に続く自己相似形の螺旋を描いて消えない。
覚悟はあった。
夢子が全てを吐き出せるようにとことんまで付き合うと決めていた。そのためには悪役にもなってやると思った。相手の傷口にも触れるし、涙だって流させてやると、決心していた。
しかし、それはあくまでも絡まりきった糸を解きほぐすためだったはずだ。
なのに、この有様はなんだ。
結び目ははさらに固く引き絞られ、爪の先ほどの引っ掛かりも失ってしまった。そればかりではない。触る必要のない綻びまでをも無理やり引き出して新たな傷を――取り返しの付かない傷を拡げた挙句、おめおめと逃げ出してきただけではないか。
どうして、なんで――
「なんであんなことを言ったんだよ。……なあおい聞いてるのか。聞いてるなら出てこいよ。あれがゆーこさんの言いたかったことなのかよ!」
誰もいない田畑に挟まれた道の真ん中で、後悔と恥と苛立ちとが八つ当たり的な叫びになって突沸した。
問いかけは夏の湿度に虚しく紛れて、返答は無い。
重くのしかかる暑さに呼吸が苦しくなった。吹き出す汗がヤニのように粘ついて悪臭を放つように思える。偉そうなことを言っておきながら結局は逃げ出してしまった自分がどうしようもなく恥ずかしくて、腹立たしい。自暴的な感情だけがどんどん膨らんでいく。
自分は夢子に嘘をついていたのだろうか?
家に帰ってからも延々とそのことばかりを考えていた。中学の時に天鶴山で夢子を振ったということは、もちろん覚えていなどいない。アルバムを見ていて違和感を覚えたのは確かだが、それ以上の具体的な記憶は全く思い出せなかった。記憶を失う以前にゆーこに話してしまったというのも自分の性格では考えにくい。こう見えても口は堅いほうだ。
とにかく、ゆーこと話したかった。
それなのに、こんな時に限って毛ほどの気配も見せないのは、いくら自分の意志ではないにしろ卑怯だと思う。
ウマイもマズイもわからない夕食を漫然と胃袋に投げ込んで部屋に戻った陽は、灯りをつけることもなく、ただひたすら屍のような身体を椅子に投げ出して、薄く開いた目蓋の隙間から闇を飲んでいた。
開け放った窓から流れこんでくるぬるい風を、床のサーキュレーターがゆるゆるとかき混ぜる。隣の田んぼからカエルの声が聞こえる。どこか遠くで、調子っぱずれな蝉がひとしきり鳴いてそれきり黙る。部屋に流れ込んでくる夜の気配の中に五感が溶けていく。時計の秒針の音がまるで頭に釘を打ち込む金槌の音のように聞こえる。
堂々巡りの果てに夢とも現ともつかないまどろみにはまりこんだ思考の隅っこで、暗闇と静寂が粘土のように混ざり合う。
それは徐々に一人の女性の形を成していった。
――そもそも、だ。
一体『ゆーこ』は何者なのだろうか。
もちろん、幽霊なのだろう。
だが、幽霊の定番とも言えるポルターガイストやら火の玉やらといった現象を起こすこともできないし、その『存在』を感じとれるのも陽だけだ。
夢子の言うとおり、妹のことが心残りならば夢子にもその姿が見えていいはずだ。なのに陽だけにしか見えないというのは、いったいどういうことなのか。
恋人だったから。最期まで一緒にいたから。
そんな理由付けはいかにももっともらしい響きをみせるが、そのもっともらしさの裏に、なにか見過ごしてはならないものが隠れているように思える。
何処にも行けなくなることが死だと、ゆーこは言った。
ゆーこはもう、何処にも行けない。その体は僅かな灰と骨を残して煙になり、あとに残されたのは記憶と記録の糸で編まれた薄絹のような思い出だけだった。そしてそんな思い出すらも失った陽にとっては幽霊の『ゆーこ』こそが全てであり、その魂を肯定することでしか、彼女の生を肯定する事ができないでいた。
しかし、ゆーこは魂や意識といったものを、一貫して否定しいていた。
彼女の言うとおり、魂や意識といったものが『可能性』に基づいた一つの『状態』にすぎないのだとしたら――たとえるならコンピュータの揮発性メモリのように、可能性という電源を切られた状態は熱として排出され、大気のゆらぎの中に紛れて消えてしまうだけだとしたら。
五月の夜空に溶けたはずの彼女の魂が、なぜ再び凝集し陽の前に現れたのか。
その存在を可能にした秩序は、いったいどこからやってきたのか。
――ある問題がどうしても解けないようなら、それはその問い自体が間違っている。
何の前触れもなく湧き上がった思考が緩やかな渦を描き始めた。渦は周囲に浮かんでいた言葉以前のなにかを巻き込んで急速に勢いを増し、ある一点にむかって収束しいく。
自分しか見えない幽霊、
頭の中に溜まった血、
角砂糖六個分の重み、
二週間の昏睡状態、
正面衝突事故、
右手の痛み、
記憶喪失、
走馬灯、
存在論、
意識、
魂――
今まで見て見ぬふりをしてきたその疑問が、夜の底から恐ろしい速さで浮上し、真っ黒な壁になって陽を飲み込んだ。
身も凍るような直感に襲われた。
全身の皮膚が粟立つ。後頭部からびりびりと痺れが広がる。鼓膜を叩く時計の音が痛い。夜気が喉に粘ついて重い。まるで土の上に転がされた魚にでもなったような窒息感に襲われる。
居ても立ってもいられなくなった陽は椅子を跳ね飛ばし、部屋から逃げ出した。夢遊病患者のような足取りで台所に行き水道の水をがぶ飲みし、そのまま蛇口から流れる水の柱に頭を突っ込んで顔を洗った。頭を上げる。滴る水がTシャツを濡らすのも構わず、深く呼吸をして息を整える。心臓は空気を噛んだポンプのように、力のないリズムで喘いでいる。
全ての問題を上手く説明できる、たった一つのもっともらしい答え。
『ゆーこ』という幽霊は、
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