告白

 熱せられた空気は抵抗すら感じさせるように鈍く、汗ばむ肌にまとわりつく。

 一日を通してそよ風ほどの動きもなかったのではないかと思うくらい静まり返った廊下を、ようは一人保健室に向かっていた。

 今日の部活は早めに切り上げた。

 あのあと夢子ゆめこが落ち着くと、陽は寒河江さがえにたのんで夢子を保健室へ連れて行かせた。他の部員に清掃用具と、念の為に漂白剤を持ってくるように指示し、それらを使って一人で吐瀉物を片付けた。戻ってきた寒河江から聞く限りでは、感染性のものではなく体調不良が原因だろうとのことで、様子見を兼ねてしばらく保健室で寝ていることにしたそうだ。

 夢子の両親には陽の方から連絡を入れた。どちらも仕事ですぐには来られないし、いまのところ急を要するふうでもないので、追って連絡をするということにした。

 そうして頃合いをみはからってから、どうしても残らなければならない部員以外を帰し、夢子の様子を見るために陽は部室を後にした。

 人の気配の感じられない保健室の戸の前に立つ。おもむろに取っ手に指を掛けるが、ふと思いとどまって、ノックした。

 はいよー。と中から養護教諭の返事がある。あらためて戸を引いて中に入る。

「失礼しまーす。編集部の隹でーす」

「あら、部長さん」と養護教諭は事務机を離れ、一番奥のベッドを囲むカーテンの隙間に顔を突っ込んだ。「河姆渡かぼとさん、部長さんが来たけど大丈夫?」

 再び顔を出した養護教諭が手招きする。

 ベージュの膜に包まれたその一角は日当たりの悪い保健室の中にあってさらに暗く、そこはかとない退廃的気分が漂っていた。

「ごめんなさい」

 夢子は薄い枕の上でころんと頭を傾けて言った。表情は落ち着いていたが、その声色からはやはり疲れが滲んでいた。

 陽は近くにあった丸椅子を足でひきよせ、座る。

「気にするこたねーよ。今日はもう上りにしたから。家の人には僕から連絡入れといたし。一応は大丈夫だって言っておいたんだけど……本当に大丈夫?」

 夢子は頷く。

「疲れが溜まってただけだから」

「そっか……。あ、購買でいちごミルク買ってきたんだけど、飲む?」

「うん」

 水滴でしっとり濡れた紙パックにストローを挿し、口元に持ってゆく。夢子は肩口まで引き上げたタオルケットの中でもぞもぞと姿勢を変え、ストローをくわえる。一口嚥下するたびに鼻から息を吐きだして、甘みを味わうようにゆっくりと、細い喉を動かしていく。

 三口ほど飲んだところで夢子はストローを離した。

「ありがとう。もういい」

 陽は残りを飲んで、潰したパックをゴミ箱に捨てた。

 さて、何をどう話せば良いのだろか。

 陽は沈黙に答えを探すが、適当な話題が見つからない。

 そうこうしているうちに、夢子が先に口を開いた。

「明後日の件だけど――」

「それは寒河江を行かせることにしたよ。一年も一人つけて」

「なんで勝手にそういうことするの。私ならあと一日も休めば大丈夫なのに」

 その刺のある口調が、陽の心を逆撫でた。

「勝手とか言われてもなあ……。部長は僕で、寒河江は副部長だ。二人で話して決めたんだよ。今のお前には任せられないって」

 頑ななまでに人の助けを拒む夢子の性格が、陽は昔から嫌いだった。他人の好意を無下にするからというわけではない。全てを自分がやり遂げねばならないのだという、脅迫的とも思える責任感に閉じこもりたがる性癖が、人を苛つかせるのだ。

「私は邪魔者ってわけ」

「お前じゃなくてもいいってだけ」

 夢子は行き詰まっているのだと思う。

 本当に溺れている人間が、傍からはそうは見えないように。叫ぶでもなく、暴れもがくでもなく、静かに酸素と理性を失って、昏い海の底に沈みかけている。

 腹を決めるなら、今しかないと思う。

 陽は腰を上げて、養護教諭の元へ行った。

「先生、ちょっと席を外してもらっていいですか」

 養護教諭は雑誌から顔を上げて、

「なんでよ」

「いや、あの、……プライベートな話があるので」

「ぷらいべえと?」と養護教諭は眉をひそめて、「私に?」

 陽は否定する。

「まあいいけどさ。私の責任問題になるようなことはやらかないでよね」

 そう言って書類と雑誌と冷めきったコーヒーの入ったマグカップを持って保健室から出て行った、と思ったが戸を閉めようとした所ではたと動きを止め、陽に手招きした。

 養護教諭は小声で耳打ちする。

「なにやってもいいけどベッドは汚すなよ」

「ちょっと話し合いをするだけですよ」

「ならいいけど」と頷いて踵を返し、数歩してまた振り返り、「刃傷沙汰もだめだからね」

 いいからあっちいけ、と陽は手で追い払った。

「それで、プライベートな話って?」

 椅子に体重を預けきらないうちに先手を取られ思わず怯む。

 だがここで覚悟を萎えさせるわけにはいかない。

「夢子の話と、僕の話。――そしてゆーこさんの話」

 夢子は不快を顕にして、身体の向きを変えた。

「そういうの、もういいから」

「よくないよ。……全然よくなんかない。この際だから言うけれど、僕はお前のことをずっと野良猫みたいなやつだって思ってた」

「フン」と夢子は鼻で笑って、「なにそれ」

「いつも取り澄ました顔をして、そのくせ気紛れで気難しいところがあって、自分のテリトリーには決して人を近づけない、たとえ親しい人であっても自分の弱みを晒そうとしない。

 ……なあ、野良猫の寿命って知ってるか。せいぜい三年から五年なんだってさ。十五年ほども生きる室内飼いに比べたら、その四分の一ほどしか生きられないことになる」

「ようするに、自分勝手な私のことなんか信用できないってこと」

 これも昔からそうだった。夢子は人の話の先を読みすぎる。勝手に先ヘ進んで、すぐに結論を出そうとする。

「違うよ、そういうことじゃない」

「じゃあ、どういうことなの」

「もっと人のことを信頼しろってことだよ」

「そうね……お姉ちゃんは私と違って、誰にでも壁を作らなかったもんね」

「だから、そういう事じゃないんだって。まったく、そうやってすぐに自嘲的になるとこも悪い癖だ」

 大きく呼吸して、熱を帯びはじめた喉と頭を冷やす。

「心配なんだよ。……僕だけじゃなく、皆がお前のことを心配してる。つまるところ、それだけお前は信頼されてるってことだよ。だけどお前は昔から人と距離を取りたがるというか、たとえそれが相手の許した領域であっても、自分から踏み込んでいこうとはしない。そういうところがある」

「はぁ」と夢子は神経質な吐息を漏らして。「ようするに、相手を自分と対等な場所に置きたがらない、傲慢なやつだっていいたいわけ」

 違う、と陽は口を開きかけたが、

「わかってる」夢子は強い語調でそれをおしのけた。「……わかってる。自分では臆病なだけだと思ってるけど、臆病さと傲慢さってのは、ある面では見分けがつかないものだってことも、わかってる……つもり」

 背中を丸めて、タオルケットに顔をうずめる。

「だけどそれでも――これでも私は、私なりに他人を尊重してるつもりだよ」

「ちゃんとわかってるよ」ゆっくりと、小さな子供に言い含めるように言う。「だけどそれはあくまでも『信用』の問題であって、信頼とは少し違うと僕は思うんだ。理性的に誠実であろうとする夢子の気持ちは、皆にも伝わってる。でもその一方で腹の底を見せようとしない距離感というか警戒心というか、そういうのって少し寂しいじゃないか。

 だから、野良猫みたいだって僕は思う。敵なんかどこにもいないのに、常に何かに怯えているようで……。心配になるし、助けになりたいと思う。なのに手が届かないっていうのは、やっぱり寂しいんだよ」

「敵……」と夢子は言葉をなぞり、「たしかに、敵はもういない――いなくなった」

「そうだよ。なにも不安なことなんかないんだから……だから話をして欲しいんだ。今だけでもいいから、本音を効かせて欲しい」

「いいじゃないどうでも。野良にエサを与えるのはよくないよ」

 陽は枕に広がる黒髪をじっとと見つめる。

「そうだな……。どうでもいいことかもしれない。だけどお前のそんなとこに甘えて、ちゃんとそれを伝えようとしなかった僕も卑怯だと思う。手が届かないんだから、触れられるのを嫌がってるんだから、しょうがない。……そんな言い訳で自分を納得させていた僕も悪かった」

 ゆっくりと肺をふくらませ、吐き出す。

「だから、まずはこっちの腹の底をみせなきゃならない。今まで隠してきたけど……今となっては手遅れかもしれないけど。でも、ちゃんと本当のことを話そうと思う」

 一瞬の呼吸の合間が絶望的な断崖ようで、次の一言が果てしなく遠く恐ろしい。喉の筋肉が勝手に震え、頭の後ろ側がぞわぞわする。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られるが、立ち上がろうにも膝から下が掻き消えたみたいに力が入らない。

 背に寒気を感じる。

 右手が痺れる。

 息を吸った。


「ゆーこさんの幽霊が見えるんだ」


 言った。

 夢子は眠っているかのように身じろぎもせず、二人の間には沈黙が雪のように降り積もる。 

「比喩とかそういう話じゃないんだ。言葉の通り、ゆーこさんが幽霊になって僕の前に現れた。……最初に出会ったのは退院して初めて登校した日、部室でだった。あれからずっと、ほぼ毎日のように姿を見せるようになった。今日はまだ出てきてないけど、昨日は一緒にしらかば軒に行ったりもしたな」

「――なに、それ」

 夢子は布団に手をついてゆっくりと身体を起こし、人形のようなぎこちない動作で陽のほうを見た。顔にかかる髪の毛を払おうともせず、その隙間から覗く瞳には恐れと困惑と怒りとがないまぜになって渦巻いていた。

「何言ってるのか、わからないんだけど」

「僕は、謝らなければならない。記憶を取り戻すためなんて言って、皆に色々協力してもらったけれど、本当のことを言うとなにかを思い出したことなんて一度もなかったんだ。

 すべてゆーこさんに教えてもらったことを、さも自分で思い出したかのようなフリをして誤魔化していたんだ。だから僕は――」

「やめてよ」夢子は声を震わせて言う。「よー君が怒ってるっていうなら、謝るから。私のわがままのせいで皆に迷惑かけたなら、皆に謝るから。変なことを言うのはやめてよ」

「違う……。謝らなければならないのは僕の方だ。どうにかなるだろうと思って今まで誤魔化してきたツケなんだ。だからまず、僕が全てを話すべきだって――」

「やめてよ!」

 喉から血を絞りだすような濁った叫びが、陽の言葉を遮った。

「わけのわかんないこと言わないでよ! お姉ちゃんはもういないんだよ。私はこの手でお姉ちゃんに触った、お棺に花を入れた、骨を拾って骨壷に入れた、毎日手も合わせてる。私は自分この手で、お姉ちゃんが死んだって事を何度も確かめたんだよ。

 ……幽霊なんているはずないじゃない。なんでそういうこと言うの。私のことなんかいくら嫌いになってもいい、馬鹿なやつだって見下されたっていい。……でも、それならせめて放っておいてよ。変なこと言ってからかったりしないでよ」

「からかってなんかいない。自分でも、わけのわからないことを言っているだろうなってのはわかる。でも僕は、決して夢子のことを馬鹿にしたりなんかしない。どんなに嫌なところを見つけたとしても、夢子が大切な友達だということは揺るぎようがないって、そう信じてる。

 夢子に対する自分の気持ちを信じてるから、僕は本当のことを言いたい――言うべきだって思ったんだ。だから一度でいい。話を聞いて欲しい」

 夢子は深く静かにうなだれた。表情はこぼれた髪に隠れ、まるで黒い雨を浴びたようだった。

「わかったから。……わかったから、もう帰って」

「あのさ、夢子――」

「わかったから!」力のない叫びが陽の言葉を遮った。「少し、落ち着く時間をちょうだい」

 陽はもう一度説得を口にしかけて、やめた。

 そのまま無言で立ち上がり、一度も振り返ること無く。保健室を後にした。

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