決壊

 翌日も部活のためにようは学校へ向かった。

 今日は昨日にもまして機嫌が悪かった。ちょうど地元の駅に到着したところに夢子ゆめこから連絡があった。直接打ち合わせに向かうので、部室には午後から顔をだすとのこと。

 昨日に引き続き朝から空振りである。とはいえ夢子の行動には個人的な感情を抜きにして責められるような部分は無い。つまりは勝手に自分で自分を振り回して勝手にがっかりしているだけなのであるが、そんな自家中毒的な苛立ちにどっぷりハマっている現状というものが、陽は一番気に食わない。

 集まった部員は三割ほどだった。さらに数人の部外者が、主に編集部の部室だけにあるエアコンでもって涼むために、打ち合わせと称した単なる駄弁りで時間を潰していた。

 昼が過ぎても怠惰な空気は消えること無く、時間はゆるゆると上滑りしていった。

 そこへようやく夢子がやってきた。

「あ、おつかれさまでーす」

 部員の挨拶に頷いて何事もなかったかのように自分の席につく夢子に、陽は声をかける。

「調子はどうなの」

加茂かも、吹奏楽部のパンフはできた?」

 無視である。

 バッグから出したファイルを持って席を立った夢子は、加茂から試し刷りをうけとる流れで一年生の方へ行き、ファイルを開いてあれこれ指示を出す。

 再び隣の席に戻ってきた夢子にもう一度、

「もう大丈夫なのか」

 夢子は邪険にするような視線で、

「なんか焼きそば臭い」

 指摘の通り、陽は昼に焼きそばを食べた。コンビニのカップ焼きそばを、しかも二つ一気にである。料理研究部から借りてきたマヨネーズと七味を気が狂ったようにぶちまけ、それを見ていた寒河江さがえに「部長それはさすがに気持ち悪いです」と蔑まれるのも意に介さず、流し込むような勢いで胃の腑に収めたのだったが――

 なにも椅子ごと逃げることはないだろうと思う。

 無言で陽との距離を空けた夢子は、書類を広げて作業を始めた。

 なるほど、どうやら冷戦をお望みらしい。ならばつつしんで受けて立つのが編集部の流儀というものだ。

 陽は何も気にしない素振りで自分の作業に戻った。

 少しして、ジャブ程度のちょっかいを出してみる。

「商工会のほう行ってきたんだろ。どうだった?」

「去年と同じ。今年はちょっと多く置いてもらえるみたい」

 そろそろ夏祭りの時期だ。編集部はその昔から積極的に地元の祭りへ参加している。取材はほとんどフリーパスだし、期間中は商店街の各地に部誌やチラシを置いてもらってもいる。

「そう。……そういや機械技術研究部の展示の件はどうなったの」

「大丈夫だって。明後日に機技研の人と一緒に挨拶に行ってくるから」

「お前が行くのか」

 夢子はようやく書類から顔を上げ、疎ましげに陽を睨みつけた。

「なに。私じゃダメなの」

「ダメだなんていわないよ。でもさ、病み上がりだろ? 抱えてる仕事もあるし、誰かに任せてもいいんじゃないかな。なんなら僕が――」

「よー君はまず自分のことをどうにかして!」

 怒気を含んだ鞭のような声が、間延びしきった部室の空気を打ち据えた。

「――そうだな。たしかに僕もやること溜まってるし、人のことをどうこう言う資格はないか。いや、悪かったよ。明後日はよろしく頼みます」

 陽は努めて冷静な態度でやり過ごした。二人がそれぞれの作業に戻ると、部室中のだれもが飲み込んだ息をどっと吐き出し、心なしか背筋を伸ばして自分たちの仕事に戻った。駄弁りに来ていた他所の部員は気まずそうな様子でそそくさと編集部を後にした。

 思っていたよりも、事態は芳しくない方向に進んでいる。

 陽はラップトップの画面を睨みながらキーボードを叩くが、文章は同じ行で増えたり減ったりを繰り返すばかりだった。何を書いても何か欠けているような、空々しさだけが積み重なってゆく。まったく頭が働かない。どうやってこの雰囲気を変えてゆけばよいのだろうか。

 その時、卓上にあった陽の携帯がガリガリと震えた。

「もしもし、ふるとりです」

『あ、フルちん先輩ですか? 由良ゆらでーす』

 料理研究部の部長だった。

「人のこと変なアダ名で呼ぶなよ」

『えー、だってウチの先輩もそう呼んでたじゃないっすか。……そういえばフルちん先輩ってなんていう苗字でしたっけ?』

「隹だ、ふ・る・と・り。アドレス交換した時に教えたでしょ。つか、今言ったし」

『うーん。ぱっと見て読みにくいんすよ、この文字。……まあそれはどうでもいいですけど』

「よくないよ」

 押しの弱い性格のせいか、どうも昔から女性に軽く見られる事が多い陽である。

 由良は構わず話を進める。

『それでですねえ、鯉食こいしょくの件なんですけど、通常価格が五五〇ってことで一応固まりました』

「原価は」

『ええと、大体一六〇から一八〇あたりですかねえ。とりあえずそういうことなんで、後はそちらの企画のほう進めてもらっておっけーでーす。――あ、あんまりふっかけないでくださいよ。こっちは今のところ順調なんですから、水をさすようなことはマジやめてくださいよね』

「うん、わかったよ。相談してみる。報告ありがとうね」

 通話を終えた陽は、さり気なく横目で夢子を窺う。書類を睨むその顔は相変わらずの仏頂面だった。戦略も何も思いつかない。とにかくこれ以上機嫌を損ねるようなことは避けつつ、出たとこ勝負で行くしかない。

 メモ帳を持ち、椅子ごと夢子の隣に行く。

「なに」

 夢子はあからさまな一瞥をくれて、また書類に視線を戻す。

「今の電話、料理研の部長からでさ。鯉食の件なんだけど、通常価格で五五〇に決まったって。んでもって原価は一六〇から一八〇のあたり」

 言いながらメモ帳に書き込んでゆく。

「――んで、食券の方は四〇〇くらいの設定が妥当じゃないかなって僕は思うんだけど、どうかな?」

 夢子は肘をつき額に手をあてる。その仕草からはあきらかな疲労がうかがえた。

「そうだね……。四〇〇なら十分お得感あるし、さばけると思う」

「うん。それでウチの取り分は、……そうだなあ、売上げの二割くらいでどうだろう」

 この企画の本来の目的は、料理研究部の予算増にある。この学校には『特別指定部活動』という枠があり、指定された部には豊富な予算がつく。当然ながら、指定を受けるためには相応の実績が求められる。そこで料理研は今回の企画の成功をもって委員会へアピールし、指定枠の獲得を狙っているのだった。そして陽たちはそれを手伝うついでに、僅かばかりのお駄賃をもらおうというわけである。ちなみに『文芸部』は特別指定部活動の常連で、さらに部誌に広告を乗せ広告料を得ていることもあり、活動資金は潤沢である。

「三割は欲しいところだけど、まあそれでいいか。となると販売数は二八〇――じゃ冒険しすぎな気もするかな」

「じゃあ堅実に二〇〇くらいでいいんじゃないか。となるとだ、全部はけて――」

 と、そんなふうに具体案はすんなりまとまった。後は三方の代表が顔を合わせて話し合い、最終的な合意を取り付けるだけだ。

 さっそく料理研の部長に報告のメールを打ちながら、視界の端にご機嫌の麗しくない隣人を意識する。どう話しかけようかと考えるが、気の利いた言葉など一つも浮かんでこず、

「そういや話は変わるけどさ、受験勉強はかどってる?」

 直球を投げた。

「別に」夢子はため息っぽく言う。「普通」

「僕もぼちぼちやってるんだけどさあ、やっぱ一人だと身が入らないというか、ついつい遊んじゃうんだよね」

 清治せいじが邪魔したりするし、とは言わないでおいた。

「ふーん」

 そんなの知ったことか、とばかりに夢子は投げやりな相槌を打つ。

「だからさ、夢子も一人でやってるんだったら、一緒に勉強しないか。やっぱり隣に誰かがいたほうが張り合いがあると思うんだよね。ほら、今年は美鳥も受験生だし」

「美鳥なら一人でも大丈夫だよ」

「そりゃそうだけど……。まあ僕が大丈夫じゃないっていうか、高校受験の時はさ、清治と一緒にゆーこさんに教えてもらってどうにかやり過ごした感じだったろ」

 そこで一度言葉を区切り反応を待ってみるが、夢子は沈黙を乗せたため息を返すだけだ。

「正直、まだ勉強の仕方がわかってないっつーか、イマイチ能率が上がらないんだよね」

「――うん」

 聞いているのかいないのかよくわからない気怠げな吐息。

「ゆーこさんと同じとこ行くんだろ?」

「――うん」

「ああ、もしかして夏期講習とか受けてたりする?」

「――うん」

「へえ……。やっぱりそういうの行ったほうがいいのかな」

「――うん」

 ここにきてようやく、陽はその違和感に気づいた。

 ふう。と夢子がまた大きくため息をついた。

 ――いや、ため息ではない。それはリズムを著しく乱した呼吸の音だった。まるで消耗した病人のように、細い肩を全部使って、絶え絶えといった様子で息をしている。

「――おい、どうした大丈夫か」

 陽は夢子の肩に手をかけ顔を覗き込む。力なく開いた口から浅い呼吸が続いている。その虚ろな瞳はプラスティックのように生気を欠き、机の天板を見つめたまま微動だにしない。

 冷たい後悔が陽の全身を流れる。

 もしかしたら、昨日に具合が悪いと言ったのは本当だったのではないか。寝坊したのはやはり体調不良のせいで、連絡が遅れたのはそれでも部活に出るべきかと迷ったからで、さらにはスケジュール変更は必要ないと断った手前もあり、治っていないにもかかわらず、打ち合わせのために無理を押して出てきたのではないか。

「なあ、やっぱりまだ良くなってないんじゃないか。……もしかして熱があったりするのか」

 そう言って額に触れようとした陽の手を、夢子は撥ね退けた。

「――だい、大丈夫だから、――ただ、暑くて、――気分が、ちょっと、悪い、――大丈夫」

 なんとか喘ぐように言葉を返すが、誰がどう見たってちょっとどころの騒ぎではない。

「全然大丈夫じゃねーよ。今日はもういいから、保健室で――」

 突然、夢子は椅子から転げ落ちるようにして立ち上がった。

 そしてほとんど体当たりのような勢いで窓際に走った。口を押さえながらスイング式の窓を開けようとするが、鍵に阻まれて開かない。必死の形相でノブに指をかけるも、パニックに陥っているせいで指が上手く動かず、さらに間の悪いことにロックもかかっていた。夢子はガチガチと何度も指を引っ掛けてはロックを外し損ねる。古びた窓がガタガタと音を立てる。

 ようやく陽はその行動の意味を悟った。すぐさま窓に飛びつき鍵を開けてやるが――

 もはや遅かった。

 夢子がぴたりと動きを止めた。

 身体をくの字に折り曲げて、額を壁に擦り付けるようにしながらその場に崩れ落ち、ガラス細工みたいな背筋を砕けそうなほどに強張らせた。

 その場にいた全員が為す術もなく、夢子が床を汚す様をただ呆然と見ていた。

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