5: The Ghost Of YOU

幽霊とラーメン

 高校生活の最後の一年というのは、いわばオマケみたいなものだ。

 早い者は二年の冬から受験の対策を始めていたりするが、大半にとって三年の夏休みというのは今後の身の振り方を決め行動を起こすための期間だ。霧がかかったように不確かな未来像。蛇口から滲む水滴のように僅かな、しかし着実に重みを増してゆく不安。高校受験のそれとは全く違ったそれらに相対するための、モラトリアムという面がこの一年間にある。

 そしてようもまた、その当事者の一人である。

「でも、オープンキャンパス行ってきたんだろ?」

「一応はね」

 一応は、という前置きはあるものの、陽は地元の国立大学を進路に据えていた。

 己を鼓舞するために少々難しめな参考書を選んでみたものの、案の定少々どころではない壁の高さに意気を挫かれた陽は早くも目標を下方修正し、進路課からもらってきた過去問をだらだらとついばんでいた。

 そんな受験生の部屋のベッドを占拠し、積み上げた漫画本をこれまただらだらと崩している清治せいじがぼりぼりと腹を掻きながら言う。

「いいなー、大学生」

「じゃあお前も大学に切り替えればいいじゃん」

「無理無理」清治は読みかけの本を山の上に戻し、「ウチにゃそんなカネねえし、奨学金借りてまで行きたいとも思わねえし。ま、専門学校だな」

「それでも勉強しておいたほうがいいよ。頭も筋肉と同じ、使わないと衰えていくんだから」

 清治が言葉を返そうとした時、二階に上がってきた美鳥みどりが部屋の前で声を上げた。

「セージ君、にいちゃん。ご飯できたよー、開けてー」

 陽はドアを開け、部屋に入れてやる。盆には三人分の昼食がある。わざわざ持ってこなくても下で食べればよさそうなものだが、美鳥は冷房の効いた部屋で食べたかったようだ。

「そういうわりには温かいパスタなんだな」と清治。

「ちょうどチーズがあったからカルボナーラにしたの。それに二人ともずっとエアコン効いた部屋にいるでしょ。夏だからって身体の冷やし過ぎはよくないよ」

「美鳥ちゃんは気が利くねえ」清治は無造作にフォークでスパゲティーをすくい、「んー、いいねえ。最近素麺ばっかだったからこういうコッテリ系ほしかったのよ。んあ、うめえ。やっぱ美鳥ちゃんのメシはウマいわ」と餓えた熊のような勢いでがっついてる。

「お粗末さまです。ってかセージ君何しにきたの。勉強しにきたんじゃないの?」

「美鳥ちゃんの手料理を食べに来たに決まってんじゃん」

 軽口を叩く清治に美鳥はじっとりとした目を向け、ため息混じりに、

「あっそ。たかりに来てるだけなんだったら今度からセージ君だけカップラーメンね」

「そうだそうだ。メシくらい自分で買ってこい」

「えー、薄情な兄妹だなあ」

 そこで会話は一旦途切れた。しばらく食器の当たる音だけが響いたあと、清治が口を開いた。

「そういや河姆渡かぼとってどこ行くんだろ」

「さあ、ゆーこさんと同じとこじゃないの」

 もそもそと麺を頬張りながら陽は応えた。すると美鳥は、奇妙なものに出くわしたように眉をひそめた。

「なにそれ、にいちゃんたちむっこ姉ちゃんの進路知らないの」

 そう言われて初めて気づいた。陽は夢子ゆめこの希望する進路を知らなかった。夢子のことだから大学へ進学するつもりなのだろうが、本人の口から具体的な話を聞いたことはなかった。

 ところが美鳥はすでにそのことを――それこそ夏休み前から知っていた。やはりゆーこと同じ隣県の大学を目指すのだと、美鳥は呆れをにじませた表情で言った。

「信じらんない。いつも一緒にいるくせに」

「いつもってほどじゃないし、そういうこと話すきっかけが無かっただけだよ」

 とは言いながらも、陽は頭の隅になにか引っかかるものを感じていた。思い返してみれば海に行ってからこっち、部活以外で夢子と顔を合わせることはなかった。さらに去年の記憶も手繰り寄せてみる。やはり夏休み中はあまり連絡をとっていなかったように思うが、ゆーこ絡みの記憶と一緒に忘れているという可能性があるし、それを別にしてもぼんやりとだが、しばしば電話やメールで他愛ないやり取りをしていたような覚えがある。

「ふと思い出したんだけど。僕たちの高校入試の時ってゆーこさんに面倒見てもらったよね」

「んおお、ほうほう!」清治はズルズルと麺を口いっぱいにすすって、「俺らが無事合格できたのも、悠子ゆうこさんのおかげらよほんと」

「あ、ちょっと、セージ君ソース飛ばさないでよ。ちゃんと飲み込んでから話しなよ」

「俺ら、っていうかほぼお前だろ。僕はそんなにヤバくはなかったぞ」

「いやいや、にいちゃんも結構ヤバめだったから」

「う……。まあそれはいいとしてだ。その時は夢子って何してたのかな」

 美鳥が答える。

「あたしと遊んでたけど? にいちゃんたちがここで勉強してる間、むっこ姉ちゃんとあたしはあたしの部屋で漫画読んだり、下でお菓子作ったりしてた」

「みんなウチに来てたんだ」

「そうだね。大体はウチに集まってたかなあ。冬だったから結構まったりごろごろしてたな」

 記憶にはなくとも、今の陽にはその様子を容易に想像できた。それによって淀んでいた思考が徐々に陰影を取り戻し始め、脳のシワの間に沈んでいた違和感が浮上してくる。

「にいちゃんたちさ、最近付き合い悪いよね」

「ええ、どこがよ?」

 と眉根を寄せる清治。陽はなんでもないふりをしてお代わりの麦茶を自分のコップにつぐ。

 しかし、その胸の内には動揺があった。

「なんていうか、近頃みんなばらばらだなーって」

 美鳥がフォークで麺をまとめながら呟いた。

「ほりゃあみんあうへんはあんあっていほがひいひしんおはあーあーらはらら」

「だから、飲み込んでからしゃべんなさいってば」と美鳥は清治の膝を叩く。

 どっちが歳上なんだかわからないな、と心中にぼやきつつ陽は清治の言葉を翻訳する。

「皆ぞれぞれの進路のことで忙しいのさ」

 陽は自分に言い聞かせるように、頭の中でその言葉を反芻していた。

 すると美鳥は二人の顔を交互に見つめて、ふすん、と鼻から息をはいて、

「あーあ、なんだかなあ」

 そう言って皿を持ち残りを一気にかきこんだ。威嚇する様な視線を野郎二人に飛ばしながら、可愛い顎を目一杯動かして咀嚼する。口の中のものを麦茶で流し込み、勢いよくコップをテーブルに置いて一息つき、

「あたし、そういうの好きじゃないな」吐き捨てるように言って、「ごちそうさま」そそくさと立ち上がり部屋を出て行った。

「あ、おい、皿くらい持ってけよ」

 陽が声をかけると、不機嫌そうな顔がドアから覗き、

「ちゃんと洗って片付けといてよね、セージ君」

「ええー」と不満気げな清治だったが、美鳥がそのおままごとみたいな眉間にシワを寄せて睨みつけると、「あ、はい、洗って片付けときます。ありがとうございます」

「よろしい」

 これみよがしな足音を立てて、美鳥は階段を降りていった。

「好きじゃないって言われても、なあ?」

 清治はのんきに同意を求める。

「まあ、そうだよな」

 陽は曖昧な首肯を返しながら、すっかり冷めきってしまった麺をフォークで弄んでいた。


   ***


 駅から数メートル歩いた所で携帯が震えた。

 メールの受信画面を開くと、『ごめんなさい』という題名が目に入った。

 夢子からだった。

『ちょっと体調が優れないので今日の部活は休みます。

 高畠たかはた君の企画の件はこちらでメールを送っておきます。わからないことがあるようなら助けてあげてください。明日までには回復すると思うので、スケジュール変更の必要はありません。

 迷惑をかけてごめんなさい。よろしくお願いします』

「あーあ、こりゃサボリだわ」

 陽の腕に縋るようにして画面を覗き見たゆーこが言った。

「うーん、やっぱりそう思います?」

 間違いないねー。とゆーこが頷く。

 二時間ほど前のことである。陽が地元の駅に向かうと、いつも同じ時間の電車に乗るはずの夢子の姿が何処にも見えず、そのままホームで待っていると携帯にメールが届いた。『ごめんなさい』という題名のそれを開くと『寝坊しちゃって少し送れるかも。先に行ってて』とあった。陽はその文面に引っかかるものを感じながらも『わかった』とだけ返信し、電車に乗った。

 夏休みに入ってからも編集部の活動は止まらない。部室に集まる日は週三日ほどに減るし、それも予定があれば来なくてもいいというふうになってはいるものの、部誌やその他諸々の仕事は――陽のせいで無駄に増えたそれが――山とある。陽も夢子も受験生という立場なので無理に来なくても良いのだが、それ以前に編集部部員としてのある種刷り込み的な義務感があるために、貴重な高校生活最後の夏休みを部活に捧げ続けているのだった。

 要するに、部の伝統というやつである。

 そしてそんな伝統や義務や責任などという言葉にたいして、必要以上に気負うのが夢子の性分だった。部活を休んだことが無いというわけではない。が、いつもの夢子なら体調が悪ければ朝の段階でそうと連絡するはずだ。さらに言えば、目覚ましの鳴る三十分前には必ず目が覚めてしまうような人間が寝坊なんてするはずがない。

 陽は少し考えて、身体を大事にという旨をやや説教じみるくらい強調したメールを返した。

「陽ちゃんも結構イジワルだねえ」いやらしい笑みを浮かべてゆーこが言った。

 夢子の罪悪感を煽るような返信をしたのは、もちろんわざとである。

「なんかさ、こういうの好きじゃないんだよね」

 あの日から、美鳥の言葉がずっと頭の隅っこに引っかかっていた。なぜかといえばもちろん、それが陽の気持ちを端的に表していたからだ。

 付き合いが悪いのは、むしろ夢子のほうなのだ。

 会話らしい会話も少なく、こちらから声をかけてもいつの間にか部活の話にすり替えられ、おまけに今日のサボリだ。慣れない嘘を吐いてみたところで、そんなものはすぐバレるに決まっているというのに――。

 そう思うとなんだか侮られているような気がして無性に腹が立ってきた。しかし、脳天を焦がす気の遠くなるような熱線に、怒りの方向までもが朦朧たる陽炎に紛れて勢いを失う。

 何もかもが、夏の空気のように重ったるく淀んでいた。

 発散が必要である。

 陽はいつもコンビニで昼食を買い込み部室でそれを食べるのだが、今日は奮発して外食することにした。

 立ち寄ったのは名をしらかば軒といい、以前に部誌のラーメン特集で取り上げたこともある店だ。麺モノはプラス五〇円で大盛りにできるところが陽は気に入っている。ちょうど暖簾を上げたとこで、陽が最初の客のようだった。ちょっとだけ得意な気分になりながら好きな場所に腰を下ろした。メインは冷やし中華と入る前から決めていたので、それにもう一品足そうとラミネートされたメニューを眺めて考えていた所、メニューに華奢な指が止まった。

「ここはスタミナからみそラーメンに決まりだね」

 二人掛けのテーブルの向かいにゆーこが座っていた。

「冷やし中華の大盛りにするよ」

 するとゆーこは顔中をひしゃげて不満を表し、

「夏だから冷やし中華って、なんか安直じゃん。それって暑さに負けてるし雰囲気に流されてるって思わない? 夏こそスタミナ系でしょ。や、それも安直だってのはごもっともな意見よ。でもね、そもそもラーメン屋に来てだよ、せっかく仕込んだスープがあるのにだよ、冷やし中華ってのはちょっと寂しいじゃない。なにかチガウじゃない。そんでもって幽霊になった今だから言えるけど、私ここの冷やし中華そんなに好きじゃないんだよね。タレが平凡っていうか、明らかに季節商品的な間に合わせ感があってさ、ラーメンの力の入れ具合とは明らかに差があるんだもの。ね、だからラーメンにしよう。スタミナからみそラーメンのほうが私はいいな」

 誰にも聞こえないのを良いことに、テーブルをひっくり返さんばかりの勢いで勝手なことをまくし立てるゆーこ。陽はひそひそと反論する。

「いいじゃないですか安直だろうが間に合わせだろうが平凡だろうが。っていうか『私はいいな』ってなんだよ、ゆーこさんは食べらんないでしょうが」

「私は陽ちゃんが食べるとこを見たいの。陽ちゃんだってガッツリ胃に打ち込みたい気分なんでしょ? 私は男らしく麺をすするガッツリ系陽ちゃんが見たいな!」

 ゆーこはテーブルに身を乗り出し、遊べとせがむ犬のような瞳で陽を見つめる。

 こうなってしまったら、折れる以外になす手はなかった。

「――わかったよ」ため息混じりに呟いて陽はカウンターのおばちゃんを呼んだ。「すいませーん! スタミナからみそラーメンの大盛り一つ!」

 注文を受けたおばちゃんが踵を返そうとした時、勝手に口が動いた。

「あとギョーザも!」

 おばちゃんが厨房に戻ったところでやっと喉が自由になった。

「いやあ、ついつい声が出ちゃった。ごめんねえ」

 言いながらも、そこに反省の色は見えない。

 陽は非難を込めて睨みつけてみるものの、眉間に寄せた力はすぐに解けてしまう。不思議と人を巻き込んでしまうゆーこの無邪気さは、本来に持つ人の良さからくるものに違いなく、そんな彼女の前にあっては中途半端な怒りなど、逆に滑稽を演じることにしかならないのだ。

 まったく、この人にはかなわない。

 店内をうろつき回るゆーこのおぼろげな姿を、陽は夢でも見ているような気分で見守っている。ここでいう夢というのは、比喩というよりももっと直接的な意味を持つ。

 ゆーこの姿や見え方は、その時々で変化するのだ。

 服装や髪型、さらに存在の解像度とでもいうのだろうか――それらはまるで一定しない。たとえば目の焦点が合わないような、像がボヤケる程度に見えることもあれば、映りの悪いアナログテレビのようにゴーストを引き連れていたり、今ならば多重露光の写真みたいに身体の一部を空間へと置き忘れるようにスタンプして歩いたりもする。

 オカルティックなモノが大の苦手である陽が、ゆーこの人ならざる奇妙な有り様を目の当たりにしてなお心穏やかにしていられるのは、眠りの中で夢を見ている時のように無根拠な――しかし確固として自明であるという、理性を超えた肯定感を覚えるからでもあった。

 五分ほどしてドンブリが運ばれてきた。

 山である。

「うっわ、ここの大盛りってこんなに多かったっけ」

 ゆーこが目を丸くして言った。

 大盛り用の器に蓋をするように敷かれた豚バラチャーシューの上には、ニラとモヤシの炒めものがトドメとばかりに丘陵を成しており、それらの間に埋もれた辛味噌の玉がかろうじてといった感じで顔を出している。ここまでくると下品の一歩手前だ。陽の記憶では大盛りであっても増えるのは麺だけのはずだが、これは明らかに炒めものが多すぎる。サービスだろうか。

 ともあれ、頼んだからには食べないわけにはいかない。陽は箸を割り山を崩しにかかる。

 とてもそうは見えないが、陽はなかなかの大食らいである。食い気自体はそんなに強いわけでも無く、普段も常識的な量で満足しているのだが、ひとたび調子が乗ってくると人の倍は食べる。その食べ方にしても一気に詰め込むのではなく、淡々とではあるが確実に削ってゆくタイプなので、大食漢という印象を与えることはない。

「どう? おいしい?」

 ゆーこは肘をついた手に顎を乗せ、陽の食べっぷりをうっとりと眺めている。

「うん、おいしい」

「そっか。よかったよかった」

 ゆーこはまるで自分の作った料理を褒められたように上機嫌で、にこにこと楽しそうに――なんだかペットに餌をやっているような顔に見えなくもないが――観察を続けた。

 そうやってじっと見つめられているのは、なんだか妙に気恥ずかしかった。たとえるなら着替えを見られるようなむず痒さだ。見知らぬ人との相席もあまり気にならないタチの陽であるが、こうも凝視されては流石にやりづらい。

 気まずさを誤魔化すために、なにか話しかけようと思って顔を上げ、

「ん? どうかしたの?」

 ふと思いついて餃子を一つつまみ、タレにつけてゆーこの鼻先に差し出してみる。

 はむっ。

 反射的に食らいついたゆーこだが、当然食べられるわけがない。うむうむと咀嚼するふりをみせるも、すり抜けた箸が鼻穴から生えている。陽は笑いを堪えながら箸を引き抜く。やはり餃子は元のままだ。これみよがしに一口で頬張る。

「むー!」とゆーこが頬をふくらませた。

 その様子に自然と笑みが込みあげてくる。本当によく表情が変わって、楽しい人だ。未練故に現れた幽霊のくせに、生者に対する恨みや妬みをみじんもみせないのは、死してなお明晰な理性のせいだろうか、なんにせよ一緒にいても嫌な気分にはまったくならない。

 もし今も生きていてくれたなら――

 もっと楽しく笑えるのかもしれないと陽は思う。こんな人が近くにいて、しかも自分とは友人以上の関係であるというのは、疑いの余地もないほど幸福なことだったはずだ。

「なによう。なんなのよその目は。幽霊だからって馬鹿にしてんのかオイコラ」

 ゆーこはわざとらしくいじけてみせる。きっとテーブルの下では犬の尻尾のように脚をばたばた振り回し、陽の脛に蹴りを見舞っているに違いなかった。

 冷水で舌の上をそそぎながら周囲をさり気なく確認して、言う。

「ゆーこさんが可愛いなあ、って思ってさ」

 その言葉を受けたゆーこが、一瞬息をつまらせたのがわかった。予想外のことに驚いたのか、ふい、と顔を伏せ上目遣いに陽の表情を窺い、だけどすぐに顔いっぱいの笑みを咲かせて、

「そんなの当たり前でしょっ。今更なに言ってんのよ」

 手を伸ばせば触れられる距離なのに、光の速さでも永遠に届かない彼方にその笑顔はあった。

 それが今の陽には少し寂しい。

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