魂の重さ

 海には不思議な力がある。

 とりわけようたちのような内陸の住人にとっては、海という場所はまさしく非日常の世界であり、波打ち際はそんな異界への境界だった。足にまとわりつく砂と有機物の匂い。爽やかな湿度。腹の底に響く潮騒に包まれて、思考は頭のてっぺんから干上がっていく。

「えー、今のはネットでしょー!」

 美鳥みどりがぴょんぴょん跳ねてアピールした。

 最初は輪になって徒然にボールを回していたが、途中から「夏の砂浜といえばビーチバレーだろう」という話になり、菓子を賭けて勝負することになった。とはいえ道具はボールが一つあるだけだ。コートは足でテキトーに線を引いた。男女でチームを分け、運動が苦手な夢子ゆめこと背の低い美鳥に考慮し、ハンデとして男子側と女子側では高さの違う、目に見えないネットを張った。

 それでも男子二人の体力に終始押され気味な女子チームは、敗色が濃いと見るや戦術を変え、心理戦もといゴネで押し通す作戦に打って出たのだった。

「今通ったのここでしたもん、ここ!」

 寒河江さがえも美鳥に並び、二人は新種の猿かなにかのように飛び跳ねる。

「いいや、入ってたね。引っかけ気味のタイトなコースでビシィっとキマったね」

 しかし清治せいじも退かない。双方とも空中に引かれたラインを指さして主張を曲げず、話は領土問題さながら平行のままねじれ「どちらの心が清いか」という不毛な討論にずれ込みつつあった。さすがの美鳥も寒河江の負けず嫌いにはついて行けず、夢子にむかってお手上げの仕草。元よりやる気のない夢子は早く終われとでも言いたげに、うんざりした顔で一言。

「じゃんけんでいいじゃない」

 清治がパーで負けた。

「チクショウ。こうなったら一気にカタを付けようぜ」

 わりと本気で悔しがる清治だが、もう勝負なんてどうでも良いと陽は思う。それよりもこの日差しの下で動きまわるのがそろそろキツくなってきた。陽も清治も、すでにシャツを脱ぎ捨てている。背中が汗でべとべとする。このまま下も脱いで海に飛び込みたい衝動にかられる。

 ボールを渡された夢子が、棒立ちのまま機械的なサーブを放った。

 絶妙な高さの球は風にやや流されて、狙いすましたかのようにコートの隅へ吸い込まれる。陽はなんとかボールを拾い、すかさず位置についた清治がオープントスを上げた。

「よっしゃ、決めろよ!」

 陽は助走を付けて飛び上がり、美鳥の背後に空いたスペースを狙って、


 右手が弾け飛んだかと思う。


 ボールを打った手に落雷のごとき衝撃が走り、砂に触れたつま先から力が抜け、崩折れた。

「よー君!」

 皆の目がボールを追う中で、夢子だけがいち早く異常に気付いて砂を蹴った。

「どうしたの? どこか具合が悪いの?」

 返事をする余裕もなかった。額から油汗が滲む。濡れた皮膚を撫でる海風が物凄い勢いで体の熱を奪ってゆくような気がする。うずくまった姿勢のまま、全身が硬縮する。僅かな身じろぎが右手に響き、肉を裂くような熱を持った痛みに苛まれる。まるで右手の神経に突き刺された無数の針が、全身を伝う糸に結び付けられているようだった。胸の内側が引きつり呼吸が覚束ない。耳元で喚く夢子がとにかく不快だった。突発的な怒りを覚え殴り倒したくなり、それ以上に、そんな衝動を抱く自分自身に驚愕する。

 冷静さを失い、完全に混乱していた。

 ソロソロと、具合を探るように細い呼吸を繰り返す。

 しばらく耐えているうちに、徐々に右手の痛みは遠のいていった。

 全身のこわばりをじわりと緩めてゆく。恐る恐る指を動かしてみる。すべての指はゆっくりと、自分の意志通りに動く。安堵の息をどっと吐き出す。全ては一分にも満たない短い時間の出来事だったが、陽にとっては十分もそうしていたかのように思えた。

「大丈夫。もうなおったから」

 顔を上げると、両脇にしゃがみこんでいる夢子と清治が、張り詰めた面持ちでこちらをのぞき込んでいた。そばに立つ美鳥は携帯を握りしめた手をだらりと下ろし、未だうろたえる寒河江と顔を合わせ「びっくりしたあ」と緊張を解いてみせた。

 夢子が戸惑いの声を漏らす。

「大丈夫って言ったって……」

 陽は立ち上がり、皆の前で手を動かしてみせる。

「うん。もう痛くもなんともない。ご覧のとおり元に戻ったよ」

「本当に? 他に痛いとか、変な感じがする所は無い? 頭痛や吐き気はしない?」

 炎天下の激しい運動で頭の傷が開いたのではないか、と夢子は危惧しているらしい。もちろんそんなことはないのだが、実をいえば、当たらずとも遠からずといったところだった。

「医者が言うには、を違えたようなもんなんだとさ」

 退院後に受けた検査では予後は全くの良好であると言い渡されたが、しかし唯一、右手の違和感だけは治らなかった。特に外傷はなく、レントゲンも撮ってみたが異状は見られなかった。事故の時にひねるなり何なりした結果、手の骨や靭帯が微妙にズレ、それが神経を圧迫するために疼痛が起こるのではないかという一応の見解を得たものの、それが治療の助けになることはなかった。幸い痛みは――日や体調によって差はあるが――ごく軽微で、日常における不便は全くなかったが、それでも時々、何かの拍子で鋭い痛みに見舞われることがあった。

「――っつーわけでさ、普通にしてるぶんには全然平気だったんだよ」陽は首を傾げる。「でもさっきみたいなのは初めてだ。まるで溶けた鉛に手を突っ込んだみたいだった。手首から先がちぎれるんじゃないかと思った」

「お前さあ、そういうことはちゃんと話しとけよなあっ」

 清治が陽の肩を軽く小突いた。

「そうですよ。今は大丈夫だからって、変に動かして悪化したらどうするんですか。もっと自分をいたわりましょうよ」

 そんな寒河江の言葉に美鳥が乗っかる。

「にいちゃんは自分の事となるとすっごい鈍感なんだよね。小五の時だっけ? インフルエンザに罹ってたのにただの風邪だから大丈夫大丈夫って学校行って、案の定熱が上がってゲロ吐いて倒れて早退したこととかあったよね」

「なんでそんな昔の話を持ちだしてくんだよお前は」

「そんなこともあったね。あのあと女子の間では、ゲロ吐き滝太郎ってアダ名でしばらくの間呼ばれてた」

「ちょっと夢子さんそれ初耳なんですけど、ってかなにそのヒドいネーミングセンス。滝太郎どっからきたの、関係ないよね! ゲロと伝説の巨大魚関係ないよねえ!」

「知らない。私が考えたんじゃないもの」そう言って夢子は眼鏡を掛け、後ろでまとめていた髪を解いた。「そろそろ休憩にしましょう。もう疲れた」

 五人はパラソルに戻り、ウェットタオルなどで汗を拭った。

 バレーの決着はつかずじまいだが、男子がリードしていた事と陽の右手の事情を加味し、女子が全面的に負けを認めた。早速最寄りのコンビニまで買い出しに行く事になり、陽と清治は荷物番として残る事になったのだが、容赦無い日差しにすっかり体力を奪われてしまった夢子の代わりに、清治がついてゆくことになった。

 残された二人はなんとなしに口をつぐみ、海を眺めていた。

 ゆったりと繰り返す波の低音が、体を柔らかく包みこむ。日陰に居てもなお肌に感じる砂の輻射を、海風が優しく和らげてくれる。

 穏やかな沈黙だった。

 陽も夢子も、あえて無言を保ち続けた。言葉を介して互いを確かめる必要もないくらいに二人の付き合いは長く、言葉によって繋ぎ留めるまでもないほど永くこの関係が続くのだと、共に確信しているが故のことだった。

 たっぷり五分は過ぎた。

「お姉ちゃんと話してるみたいだった」

 夢子がぽつりとこぼしたその一言に、陽は胸裏に狼狽した。まるで山歩き中に熊にでも出くわしたような、胃の縮み上がるような緊張を覚える。

 そんな陽をよそに、夢子は水平線を見据え、独り言のように続ける。

「いつもみたいに悪巧みをしてるのとは、違う顔に見えた。あんなふうに、ちょっと困ったみたいな目で笑うのって、お姉ちゃんが相手の時だけだったから」

「いたって普通に電話してただけなんだけどな」

「まあ、私が変に勘ぐってるだけかもしれないけどね。よー君が違うって言うなら、違うんだろうけど、でも――」抱えた膝に顔を埋め、鋭利な目つきで陽を逆袈裟に斬りつけ、「でも、もし他の女の子と浮気してたりしたら、その時はお姉ちゃんのところに直接謝りにいってもらうからね」

「オオ、おっかないおっかない」陽は茶化すように肩をすくめた。「土産話をたくさん作るためにも、できることなら長生きしたいところだ」

 そんなふうに笑いながら、本当のことを話せたらどんなに楽かとも思う。彼岸と此岸を連絡する通信線になって、別たれた姉妹の間に鴒原之情を燈すことができたなら――

 しかし、それは身勝手すぎる妄想だ。夢子は『ゆーこ』の姿が見えず、声も聞こえない。夢子が生きるこの世界にはもはや、彼女の姉は存在しないのだ。残ったのは、灰と骨と額縁の中の笑顔だけ。そんな『現実』に打ちのめされ、それでも気丈に立ち上がろうとしている夢子の、その後ろ髪を掴んで泥中に引きずり倒すような、そんなマネをしてはならない。ゆーこという幽霊を知るのが自分だけである以上、その責任は陽だけが背負うべきだろう。

「みやげ話、か。……よー君は『あの世』って在ると思う」

「あの世ねえ……。いわゆる死後の世界ってもんは無いと思う。でも、魂は在ると思う」

 ゆーこの証言を参考にするなら、そういうことになる。

「なんだか珍しい組み合わせだね。大概は両方まとめてイエスかノーかなのに」

「なんていうか、人を人たらしめてる何かってのは在るんじゃないかなと思う。人にかぎらず、命あるもの全般に共通する、原始的な意志みたいなものがあって、体がその運動に追っつかなくなった時、その意志がすっぽり抜けだして何処かへ行ってしまうんじゃないかな」

「集合的無意識とか力への意志とか、そういうやつかしらね」

 陽にはよくわからない用語を呟いて納得した夢子は、束の間思考を空に投げて、話を続けた。

「――ねえ、魂の重さって、いくらか知ってる?」

「魂に重さなんて在るの」

「二一グラムなんだって。アメリカのとある医師が、今際の際にある患者の体重を量る実験を行ったの。実験開始から三時間四十分後、患者が息を引き取った。すると棹秤の端が急に下がり、音を立て一番下の棒に当たると、跳ね返ってくることもなくその場に留まった。その重さを確認したところ、四分の三オンス――約二一グラムだった。これが俗に魂の重さだって言われてるの。ちょうど角砂糖六個ぶんくらいね」

 へえ。と陽は相槌を打ちながら、台所で菓子用の秤に乗っかる小さなゆーこを想像して、なんだか可愛いなと一人で楽しくなる。

「魂に重さがあるとするなら、とうぜん質量保存則が適用されるよね。じゃあその重さは――二一グラムの魂は、体から抜けだしたあと何処へ行くんだろう。たとえば沖縄や瀬戸内のあたりでは海の向こうに死者の世界があるし、古事記では地下に黄泉の国がある。山岳信仰の文化では深山幽谷それ自体が異界そのものだったし、宗教の影響力が衰えた現代だって『お星様になった』なんて科白が一つの常套になっている。死後の魂が何処か遠くへ、人の住む世界から人智を超えた世界へと越境してゆくという話は、世界のどの文明にも共通して存在する。

 ――だけど、今は科学の時代だよね。量子スケールの世界を操作し、宇宙の最初期に生成された星の痕跡すら観測できちゃう。そんな現代じゃ素朴な死生観はどんどんファンタジー化していって、そこらの三文小説よろしく気軽な興味と好奇心の餌にしかならない、娯楽のような『お話』の一つになってしまった。大きな世界へ旅立つはずの魂は、それこそ単なる角砂糖程度の重みしか得られないようになった。……それってなんだか、寂しい気がしない」

 波の音に酔わされたのか、らしくない饒舌さを見せる夢子に、陽は戸惑いながらも応える。

「そうだな……。昔に比べりゃ色々と身も蓋もないっていうか、野暮が大手を振ってまかり通るようになったのかもしれない」

「頭では分かってるんだけどね。正直言うと、あまり実感ないんだ。金曜日とかになると、いつもみたいにフラっとお姉ちゃんが帰ってきそうな気がするの。今でも電話をかければつながるようなような、メールを送れば返信があるような……。

 こないだなんかね、部活の資料をどこにしまったのかメールで訊こうとしちゃってさ、途中まで打ってようやく気付いた。……馬鹿みたいでしょ」

 そう言って夢子は口の端を持ち上げてみせるが、その笑みはひどく自虐的だった。

「結局は私の認知の問題なのかもしれない。たとえば今私は、お父さんはまだ生きていて、近くの砂浜で釣りをしていると思ってる。でもそれはここにいる私が勝手にそう考えているだけで、実は熱中症で倒れてたり、うっかりシカケの針を指に刺して痛い思いをしてるかもしれない。今この瞬間にお父さんが生きている保証なんて、実際どこにもない。私は私の感覚器が及ぶ範囲の出来事しか認知できないんだよね。だからこうしてよー君が隣にいる事はわかっても、美鳥たちのことなんてわからない。ただお父さんがまだ釣りをしていることや美鳥たちが買い物に行っているという物事の継続性が否定されていないから、私はそれらの物事が続いていると思い込んでいるってだけ」

「夢子ってさ、つくづくロジカルっていうか、理系思考だよな」

 陽が口を挟むと、夢子は不機嫌をあらわにして、

「なによ、可愛げがないって言いたいならそう言えばいいじゃない」

「べつにそういうつもりで言ったワケじゃないんだけどな」

「じゃあどんなつもりで言ったの――なんて追求はしないでおくよ。フン。まあ可愛げの無さは自覚してるしね」と卑屈っぽい口調で頬杖をつく。「とにかく、そこで私はこう思うことにしたの。お姉ちゃんは海の向こうに行ったんだって。バイトで貯めたお金つかって、おっきなバックパック背負って、世界を旅して回ってるんだって。

 お姉ちゃんて根が無責任っていうか、何事も自分の興味と気紛れ最優先で動く、猫みたいな人だったじゃない。だからそんな感じでバックパッカーにかぶれたかした挙句、彼氏も家族もほっぽって、勝手に海外に飛んでって、今頃タイあたりをうろついてるんだろうって、そんなふうに思うようにした。ニライカナイに渡るのもカオサンロードで沈没するのも、同じようなものじゃないか、ってね」

 飛沫に湿った風は静かな潮流のように、二人の間に吐き出された言葉を攫おうとする。夢子は海中の魚が呟くような小さな声で続ける。

「――たとえばの話ね。いまや世界人口は七〇億を超えたそうだけど、その一方で一人の人間が安定して関り合いを持てる人数はおおよそ一五〇人程度だって言われてる」

「一五〇人の法則、またはダンバー数ってやつだな」

 陽が合いの手を入れると、夢子はほんの少し満足げに頷き、

「じゃあそれ以外の人は? ダンバー数からあぶれた七〇億のその他大勢は、私にとっては居ても居なくても同じ……影みたいな存在でしかないってことになるんじゃないかな。

 つまり今ここにいる私にとって、今ここにいない見知らぬ人々は、幽霊も同然なんだよ。

 だからそれと同じように。勝手なお姉ちゃんは私の一五〇人の法則から抜けだして、七〇億の幽霊と同じ所に旅立ちました。と、そういうふうに思うようにしたの。一人の人間の存在なんてそんな程度のものだってね……。それが私なりの存在論ってやつ」

 背負っていた荷を下ろすように、どっと息をはいて立ち上がり、

「だから、私は大丈夫。もう、なんともない。なんとも思わない」

 サンダルを引っ掛けた夢子は、斬りつけるような日光の中に歩き出していく。

 その後を追おうと腰を僅かに浮かせた陽は、しかし思いど止まった。

 追うには言葉が必要だった。

 だが、今はどんな言葉も余計な世話にしかならないだろう。

 夢子だって鈍感ではないのだ。周囲から心配されていることぐらいわかっている。ただ、確固不抜な自己像を保つために、弱音を吐くというのがどうしてもできなかったのだろう。

 いままで姉の死について語ったことなど一度もなかった夢子が、初めて自分の気持ちを口にしたのだ。

 なんともないなんて嘘だと陽は思うが、しかし夢子は夢子なりに、現実を受け入れつつあるのかもしれないとも思えた。


「何処にも行かないよ」

 麦藁帽子をかぶったゆーこが、まるでパラソルの影から生まれた蜃気楼のように座っていた。

 陽はゆーこを一瞥し、

「どういうことですか」

 何事もなかったかのように先を促した。街中で出てきた時は流石に驚いたが。この状況なら帰ってくる美鳥たちにさえ気をつけていれば問題はないだろう。

「幽霊の私が言うのもおかしな話だけどさ、そもそも意識や魂なんてものを語ろうとすることからして間違っているんだよ。まったく

「それってどういう意味」

「形ある肉体と形なき意識っていう、デカルト的な二元論はナンセンスだって意味よ。『君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある』と言ったニーチェに私は一票を投じるよ」

「そうかなあ」陽は裸足の爪先で砂を弄びながら相槌を打つ。「意識の問題ってそんなに単純じゃないと思いますよ」

「大雑把にたとえるなら、タイプライターみたいなものかもしれないね。タイプライターは文章を生み出すけれど、タイプライターそのものを分解してみても文章は見つからない。そこにあるのは文章に対する『可能性』だけ。

 ほら、猿がタイプライターをランダムに叩き続ければ、いつかはシェイクスピアの作品を打ち出すこともあるっていう、あれみたいなものだよ。この場合は猿を宇宙の物理法則と置き換えてもいいね。タイプライターには全ての文章への可能性が備わっている以上、どんな文章でも十分な時間があれば必ず作り出せるんだよ。あ、因みにシェイクスピアの全ての仕事をデータにすると5Mb程度なんだって。ちょっと高画質な写真を二、三枚も撮ったら超えちゃうくらいだよ。そう考えるとそんなに途方も無い確率ってわけでもない気がしない?」

「なんだか煙に捲かれてる気がする」

「この場合、ハムレットが出来上がるかどうかは重要じゃないんだよ。文章という可能性を汲み出すため、ある種の必然を伴ってタイプライターがあるということ。文字という概念とタイプライターの部品は、可能性の名の元に不可分であるということ。参照される要素が有限であるなら、それがどんなにランダムな並びであっても必ず何かしらの規則性が含まれることになるってこと」

 なんとなく、話の方向が見えてきた。

「ようするに、物理的な運動そのものが、すでにある種の『可能性』を表すものであって、そしてそれを積み重ねていけば、一見して達成できそうにない規模のものでも、可能である限りはいつか実現しうるってこと?」

「まあ、だいたいそういうこと。そしてさすが陽ちゃん。運動というのは良いところを突いてきたね。たとえばとある実験では、表示された光点に『手を伸ばそう』という意思を持つよりも早く、腕の筋肉に信号が発せられていることが確かめられている。これはつまり、運動を行うには意識なんでものは必要ないってわけ。私たちは街中を歩いている時に『次の角を曲がろう』と思うことはあっても、その足の動かし方まではいちいち意識していないでしょう? つまるところ、意思なんてものは行為を上手くサポートするためのオマケにすぎないんだよ。そういう運動の中にあっては、行為の主体である自己と客体である環境を上手く仕分け、さらに行為から行為への変遷を淀みなく行えるようにするためのとして『意識』というものがあると、便利だってことだね。

 だからね、換言するならば形も運動も伴わない意識なんてものは、前提からして間違っているんだよ。ある問題がどうしても解けないようなら、それはその問い自体が間違っている――つまりは擬似問題だね。


 意識やら魂なんてものは、さながら永久機関のような『発明品』でしかなかったんだよ。実際には存在できない、紙の上に打ち出された一つの概念ってわけ。


 だから、何処にも行けなくなることが死なの。概念を成り立たせるための運動が止まってしまえば――タイプライターのアームが絡まったり行送りのギヤが壊れたりしてしまえば、もう文字を打つことはできない。それはそこにあった文字への可能性が壊れることでもある。一度可能性の網目からこぼれ落ちた概念は拡散し、二度と元に戻らない……。それこそカップの中に落とした角砂糖が崩れていくように、ね。それが私の存在論よ」

 滔々とまくし立てたゆーこは満足とばかりに一息ついて、陽の顔を覗きこんだ。

「というわけで、むっこと私、どっちが勝ちだと思う? 陽ちゃんはどっちを選ぶ?」

 今までの流れをぶった切るような問いに陽は呆れて、

「これって勝ち負けの問題だったの?」

「そらそうよ。女二人の前に男が一人居るとなれば、もう何もかもが闘争なんだから。ルール無用のバーリトゥードよ。むっこが屁理屈こねるなら、こっちも屁理屈でやっつけてやるってのが私のやり方だもん。ま、単純にイジるのが楽しいってとこもあったけどね。ベソかいてる時だけは可愛いのよ、あの子は」

「意地悪な姉だなあ」

「これも愛情表現よ」

 ゆーこは臆面もなく笑ってみせるが、それでも陰険な雰囲気は微塵も感じさせない、乾いた明るさがあった。

 どこか老成した雰囲気のある夢子とは反対に、良くも悪くも子供っぽい奔放さがあるゆーこだが、やはり姉妹だけあって根っこの部分では通じるものがあると陽は思う。考え方が理屈っぽいところや、一度スイッチが入ると最後まで意見を言わなければ気が済まないところが似ているし、姉を称して猫のようだと言った夢子にしても、気紛れで向こう見ずなところがないとはいえない。小五の時に山で遭難しかけた件だって、勝手に道から外れた夢子に原因があった。

 不意に、二匹の猫が弄れる様を見ているような、ほのぼのとした笑いがこみ上げてくる。

「やっぱり、ゆーこさんと夢子って似てるよね」

 ゆーこは不服そうな声を上げる。

「えー、どこがぁー? 全然似てないでしょー」

 陽は面白くなってからかう。

「それもそうかなー。夢子はだれかさんと違ってしっかり者だからなー」

「むーっ! そういう言い方が一番イラッとくるんだけど!」

 憤慨したゆーこは砂を掴んで陽に投げつけ――る事ができず、傍からは駄々をこねる子供が腕を振り回しているようにしか見えない。その動きがいっそうの可笑しみを誘う。

「ていうか、むっこだってそんなにしっかりしてるわけじゃないでしょ。いつも澄ました顔してるけど、結構バカな子だよ? 余裕が無くなるとすぐにあっぷあっぷしちゃうんだから」

 流石にバカとまでは思わないが、陽はその意見に少なからぬ同意を覚える。硬い鉄は強いが曲がらず割れてしまうように。何事もそつなくこなしてしまう夢子だが、ある閾値を超えてしまうと途端に行き詰まってしまう面もある。

「要領が悪いんだよ。たとえば本を読むのだって、ページの端から端までじっくりとなぞって、もう一字一句逃すまい、みたいな読み方をするじゃない」

「それって普通じゃないんですか」

「普通といえば普通だけど、私に言わせれば真面目バカだよ。本なんてもんは小説だろうがなんだろうが、ざっと流し読みするだけで十分なんだから。気になった箇所があればその都度読み返せばいいのよ。だからあの子の本棚には私のお下りがどんどん溜まっていくの」

 非難めいたことを言いながらも、妹に向けたその表情はまるで我が子を見守る母のように穏やかで、しかし同時にどこか寂しげでもあった。

「いいじゃないですか、実直で」

「愚直なんだよ」

 遠くで風になびく、白炭を割ったような黒髪を、二人はしばらく眺める。夢子はサンダルを脱ぎ、汀に寄せる波に足を浸してぶらぶらと歩きながら、時々身をかがめてては貝か何かでも拾っているようだった。

 パラソルの下に陰った怠惰な空気が心地良かった。

 この二ヶ月で『ゆーこ』の存在にもすっかり慣れてしまった感のある陽だが、闊達でありながらも朝露のように穏やかな佇まいや、ふとした時に見せる大人びた仕草などを見ていると、胃の奥がむずむずするような、言葉にしがたい何かを感覚することがあった。

 居心地の悪さすら覚えるそのもどかしさについて考えていたところ、ふと、ある疑問が思考の結線上に浮かんだ。

「ねえ、ていうかさっきの話、おかしくない? 魂なんか存在しないっていうんなら、今ここにいるゆーこさんはなんなんですか」

「お? 言われてみれば確かに、私幽霊だもんね、エヘヘ」

 ゆーこはふざけた調子で笑い、顎に指をあてて考える。

「うーん……。まあ、それはそれこれはこれ、だよ。こんな状態になっても、私的にはやっぱり幽霊なんて野暮なものは信じられないもん。『一度咲いた花は永久に死ぬ。これだけは確かだ』というのはペルシアのオマール・カイヤムが残した名句ね。私の好きな言葉の一つだよ。つまり、永久の死を控えているからこそ、花は美しく咲く――と、そういうふうに思いたいんだよ私は。どうよ? 乙女じゃね?」

 なにか上手いこと言ってるような雰囲気だが、なにも答えになっていない気がする。

「幽霊を信じない幽霊って、撞着してますよね。たとえるなら『このページには文字は書かれていない』って書かれてる本とか、『張り紙禁止』の張り紙みたいな」

 そうやって口に出してみると、いやがおうにも矛盾感が増す。もしかしたら本当に、夢子へ対抗するためだけに屁理屈をこねていたのだろうか。物事にこだわらないフリをしながらも、腹の底では反抗心の熾火が常に燃えているところも、この姉妹は似ているのだった。

「じゃあ、さっきと同じように考えてみたらどうかな。つまり、魂と幽霊とを同一とする前提が間違っているとしたら、どう? 考えてみれば、その二つを同じものだとする証拠は何処にもないじゃない。魂とは別の、超自然的な何かによって幽霊という存在が成り立つものだとしたら――ここにいる私は『悠子ゆうこ』なんかじゃなくて、あなたを化かすためにやってきた悪魔か妖かしの類だとしたら?」

 麦藁帽子の影にあってなお昏い瞳孔の底から響くような声。

 艶っぽい口の端が怪しく吊り上がり、白磁のような犬歯が覗く。

 幽鬼のごとき禍々しさすら漂うゆーこの声色に、陽は何も言い返せない。ごろり、と喉仏が上下する。もしかしたら本当に、目の前にいるのはゆーこの形をしたこの世のならぬ何かで、あの事故で死に損なった自分を呪うために現れたのではないかと、そんな気すらしてくる。

「どうしたの、陽。そんな顔して……」

 ゆーこがゆっくりとにじり寄る。

 その容姿はやはり、収差の酷いレンズを通して撮影した幻のようだった。

 生々しい非現実感に、思わず陽が肩を引くと、

「――っぶふふ」

 ゆーこはたまらずに吹き出して、顔を上げた。

「なーにマジでビビってんのよ。ほんと陽ちゃんって脅かし甲斐があるわー。くふふっ。ま、そういう所も可愛くて好きなんだけどねー」

 ゆーこはからからと笑いながら、質量の無い指で頬を突いてくる。

 あけすけな愛情表現に耳が熱くなるのを感じた陽は顔をそむけて、

「前言撤回。やっぱゆーこさんと夢子って全然似てない」

「あ、照れてやーんの」にやにやしながら尻をもぞもぞと動かしてくっついてくる。「付き合い始めのウブい感じを思い出すなあ。ぬへへっ。あの頃はこうやってちちくりあってるだけで脳内物質出まくりだったもんね。もうエンドルフィンじゃばじゃばの脳ミソびちょ濡れよ」

「そんなん思い出さなくてもいいです、ってか言い方がなんかオヤジくさいなあ」

「でも、そんなオヤジくさい人に惚れて告白したのは陽ちゃんのほうでしょ?」

 そう言われると何も言い返せなかった。

「まあ、そりゃそうなんだろうだけど」

 記憶を失ってはいても、自分がこの小柄で朗らかな女性のパートナーであったという事実の痕跡にしばしば気付かされることはあった。

 三年を過ごした部の見知らぬ記録。

 部屋にある覚えのない小物や写真。

 周りの人間から受ける同情の視線。

 いつ身につけたのかもわからぬ癖。

 自身の同一性すらをも脅かされるようなそれらの欠損は、普通ならば恐怖でしか無いはずだったが、陽はそこにゆーこの消息を探すことで、底の見えない虚を覗く恐ろしさにかろうじて取り憑かれずにいたのだ。隣に座る幽霊は、いまや陽にとっての精神安定剤的な役割をも果たしていた。

 自分には言うべきことがあると、陽は思う。

 が、しかし、

「ありがとう」

 ゆーこの声が、喉元までせり上がってきたそれを押しとどめた。

「前にもこんなこと言ったような気がするけど。陽ちゃんとこうして居る時だけ、私は私でいられる。幽霊としてこの世に現れることを、他でもないあなたに許されてるような気がする」

 陽の肩に、鈴のような頭がそっと預けられる。そのウスバカゲロウのように微かな――しかし確かな存在の重さを陽は黙って受け止めた。

「だから、私は大丈夫。この幸福な夢がいつ終わってもいいって思える。たとえ私が生きていた頃の事を忘れられたとしても。あなたは今こうして私を見て、聞いて、感じてくれている。私が今ここにいられるということは、そういうことなんだって、分かったから――

 それだけでもう、

「うん」

 陽は静かに頷き、目を閉じる。

 目蓋を貫く光が作る白い闇の中で、ゆーこの声と気配だけがますますリアルに感じられる。

「むっこは――あの子は自分の弱みを人に見せないように隠してしまう癖がある。自分で勝手に色々抱え込んで、重みに耐えられなくなって一人で潰れて、そしてそれすらをも隠そうとする、どうしようもない馬鹿な子なんだ。

 だからお願い。今のあの子を支えられるのは、あなただけなの」

「うん」

「あの子を安心させてあげて」

「うん」

 目蓋を持ち上げた。

 僅かに動かした視界の端に、陽炎のようにおぼろげな輪郭を認める。

 言うべきことは、決まっていた。

「約束するよ。夢子のことも、ゆーこさんが今ここにいたことも、絶対に忘れないって、約束するよ」

「……ありがとう、陽ちゃん」

 ゆーこは穏やかに頷いた。

 波打ち際から離れた夢子がパラソルの方に歩いてきた。

 陽がその動きに気を取られた一瞬のうちに、まるで神様の指によって世界の膜から弾きだされたように、ゆーこはその姿を消した。

 それでも二一グラムの甘い重さだけは、しばらく肩になずんで消えなかった。

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