潮風
一行はそのまま峠を超えた。
平日の午前ということもあり、車道はスムースに流れ、予定よりも早く市街に到着した。
有料駐車場に車を停め、少し早めの昼食を取ることにした。
街路樹が投げる木陰の下で、ゆったりと食事を楽しめた。
カフェを出た後は
昼時ということもあり、アーケード街は人にあふれ、夏らしい猥雑な活気に満ちていた。流石は政令指定都市、と田舎者丸出しな感想を抱く自分に気づいて、陽は少し自嘲する。
ともあれ、こうして人ごみに洗われ、目的もなく時間を浪費するのは楽しかった。
「美鳥ちゃんなら陽なんかすぐに超えてさ、部の歴史に名を刻む名部長になれるぜ」
「うーん、そうだなあ。やっぱにいちゃんは超えときたいかなあ」
美鳥は美鳥ですっかり編集部に入るつもりでいるようだ。超えときたいなんて簡単にいうが、部長業はそんなに甘くないぞ、と陽は心の中で答える。なんてったって生徒はおろか職員室内の人間関係まで把握して動かなければならない、それはそれは面倒な立ち位置なのだ。しかしそれでも、活動的で口も立つ――というか勢いで押し切る――美鳥なら、部長だろうがなんだろうが余裕でこなせるだろうとも思う兄バカな陽は、その様子を微笑ましく思いながら、
思わず歩みを止めた。
あまりに唐突だった。
首筋に氷水を浴びせかけられるような、全身が引きつるほど強烈な人の気配が、雑踏の中にあってなお鮮明に浮かび上がってきた。
振り返れば、ゆーこが白昼堂々と姿を現していた。
思わず話しかけそうになるが、この状況では独り言をつぶやく危ない人になってしまう。現に数人の通行人が、呆けた顔で突っ立っている青年に不審そうな目を向けている。
陽が対応に迷っていると、ゆーこは持ち前の察しの良さを働かせ、
「電話してるフリをすればいいんじゃないかな」
なるほど、と陽は携帯を取り出し、耳にあてがう。
「どうしたんですかこんなところで」
「や、なんか気づいたら出てきちゃってた、えへへ」
ゆーこは申し訳なさそうにはにかんだ。そういえばゆーこは自分で自分の出現をコントロールできないのだった。半ば彼女を責める気持ちでいた陽は己を恥じた。夢子らの方を覗うと、四人は横断歩道の前で足を止めこちらを見ていた。少しまて、と指を立てて『通話』を続ける。この距離ならば、口にする言葉は雑踏に紛れて向こうに届きはしないだろう。
「いちいち相手してくれなくてもいいんだよ」
珍しく遠慮した様子でゆーこが言った。
「今さら何を言ってるんですか。それにどうせ僕が無視しても、ゆーこさんのほうからこっち見ろってちょっかい出してくるんでしょ」
「なんだとう! 私は猫かなんかか」
どちらかといえばうるさい犬みたいだよなと思うが、本人の自尊心に配慮し言わないでおく。
陽は笑って誤魔化して、話題を変えた。
「それはそうと、ゆーこさんのお気に入りのお店、良かったですよ」
「そりゃそうよ。あそこは陽ちゃんのお気に入りでもあったんだから」
「フム。……なんだかこっちに来てから既視感というか、地元みたいに落ち着く感じがするな。記憶はなくとも身体が覚えてるのかも」
「そうだね」ゆーこは懐かしむように辺りを見回して、「私が大学に入ってからは陽ちゃんがよくこっちに来るようになって、毎週末のようにこの辺りでデートしてたんだもの。交通費だけでもバカになんなくてさ、安くていい店を見つけようって色んなとこ歩きまわって。そりゃ身体にも染みこむってもんだわね。……あ、そうそう、もしかして陽ちゃん、電車賃が無いからって部の予算をちょろまかしてきた事があったのも覚えてないんでしょ」
「ちょろまか、って……え? ウソでしょそれ?」
陽の表情が固まる。衝撃的な事実に体温が二度は下がった気がする。まさか自分が横領なんて。恋愛とはそこまで人を狂わせるのか――というか今ここで暴露すべきことかそれ。
「マジです」ゆーこは陽を睨みつけるが、その表情はどこか優しい。「で、結局私にバレて一晩中お説教。まあ、あれ一度きりだったからね。全部二人の秘密ってことにして後でこっそり埋め合わせたんだけど、でもあれだよお? むっこは気づいてるんじゃないかなあ、多分」
不安を煽られた陽は、反射的に向こうの様子を盗み見た。夢子と清治は近くの店先に並んでおり、残る二人はそれを待っていた。陽に気づいた美鳥が夢子らを指さし『たべる?』と口を動かして、インコのように首を傾げた。陽はとりあえず首肯を返した。
「あ、いいねえひょうたん揚げ。私あれ好きだったんだよ。よく二人で分けて食べたよねえ」
ほとんど抱きつくように体を寄せてきたゆーこが、声を弾ませて言った。
「へえ。おいしいんですか?」
するとゆーこは綿羽のような笑みを浮かべた。
「あなたは知っているはずだよ」
こちらを見上げるその表情に、アルコールの陶酔にも似た心地よさを陽は覚えた。羽毛の布団にくるまるように、甘く麻痺した思考のまどろみに、雑踏の熱が流れこんで飽和する。喉につっかえた息を意識的に吐き出して、どうにか理性を取り戻した。
「フン。――じゃあ、覚えてるかどうか実際に試してきましょうかね」
「私のぶんまでちゃんと味わってきなよ」
陽は静かに頷いて、律儀に通話停止ボタンを押す振りをした。
二人は僅かに視線を絡ませてから、別れた。
「誰からの電話だったの」
受け取ったひょうたん揚げにかぶりつこうとし時、夢子が尋ねた。陽は一瞬ぎくりと固まったが、そのまま一口かじって、なんでもないふうを装って言う。
「ンン、企画の打ち合わせでチョットね」
「何の話?」
「秘密」
「何処の誰と組んでるの」
「それも秘密。まだ正式に立ち上げるわけじゃないから」
「本当に?」
何かが変だと思う。部活のことであったとしても、人の電話の相手について詮索を重ねてくるなんて、夢子らしくない。
「本当だよ」この二月で嘘をつくことにもずいぶん慣れた。「ウチで取り扱えるものかも分かんないけど、今のうちに嚙みついとこうと思って」
「そう……」
ようやく引き下がった夢子だが、しかしその目はまだ疑いの色を引きずっていた。二人の間に漂う空気を察知した寒河江が、そこに割って入った。
「隹先輩はいつもそうやってオイシイとこ独り占めするんですよねえ、まったく。ホウレンソウですよ。ホウレンソウ大事」
「独立・独断・独走が僕のやり方だからね。悔しかったら自分で面白いネタ拾ってきなよ」
と笑う陽を見ていた夢子が、困ったように眉を下げて言った。
「その言い方、お姉ちゃんみたい」
「そうかな。……だとしたら、ゆーこさんに受けた薫陶のおかげかもね。編集部部長かくあるべし、みたいな」
「そういうんじゃないよ」夢子は道路の方へ顔を逸らして言った。「よー君とお姉ちゃん、そういうところは昔からウマが合ってたから。――それこそ初めて会った時からね」
信号が青になると同時に夢子は歩き出した。背筋を伸ばし、迷いのない足運びで人ごみの中を泳いでゆく。音も重みも感じさせない、まるで逃げ水のように遠ざかるその背中に、わけもなく焦燥を掻き立てられた陽は、右に左にと足をもつれさせながら、夢子の後を追いかけた。
五人は商店街を一巡りして、夢子の父と合流した。
それから車輪は東に向かった。
市街地を三十分ほど走り、突き当たった有料道路の高架橋をくぐると、急に視界が開けた。一面に広がる田畑の中を、長い直線道路が突っ切っていた。
知らない道、知らない景色であるにも関わらず、どこか安楽とした心地を陽は覚えたが、それはゆーことの記憶がどうのと言うよりは、田舎っぽいのどかな雰囲気のせいに違いなかった。
少しすると、ささやかな町が見えてきた。
コンビニのある交差点を曲がり、静かな住宅街を進むと目的の海水浴場に到着した。
車を停めると夢子の父はそそくさと準備を始めた。竿の入ったバッグを担ぎ、クーラーボックスから冷凍のエサを取り出す。用事というのは釣具やエサの調達のことだったらしい。夢子の父は釣りが趣味であり、同じく釣りを嗜む陽の父と陽を含めた三人で、よく釣りに出かけたものだった。
「それじゃあ、俺はあっちの方で魚釣りしてるから、君たちも自由に遊んでてくれ」
陽たちはパラソルやボールなどの遊具を持ち、砂浜に出た。
浜はなだらかで漂流物などのゴミも少なかった。波も風も穏やかで、ヒリヒリと肌を焦がす太陽の熱を、霧のような波しぶきが和らげてくれた。
「あまり人がいないな」
黄色い足踏みのポンプをワキに挟んで器用にボールを膨らませながら、清治が言った。陽たち以外にも家族連れや若者のグループなどの姿があったが、その数は疎らだった。
「遊泳禁止の看板がありましたよ。まだ海底に小さなゴミが残ってるとか」
寒河江の言うとおり、目に見える範囲では泳いでいる人間は居なかった。
「それに、気分の問題もあるんだと思う。誰だって辛い出来事があった場所に行くのは、気乗りがしないもの」
夢子が呟くように言った。海風に弄ばれる髪を押さえながら水平線を見つめる、人形のようなその表情は、絵画的な叙情すら孕むようだった。
「わ、砂あっつい!」
いつの間にか履物を脱いでいた美鳥が、はしゃいだ声で砂を蹴散らし、
「でも砂浜は綺麗じゃん。はい、にいちゃん持ってて」とサンダルを陽に押し付け、子犬のように駆けてゆく。「へーい! セージ君パース」
清治がボールを投げると、美鳥は高く弧を描く軌道をキャアキャアいって追いかける。砂に脚力を誤魔化されてよろめき、それでも追いつこうと手を伸ばしたせいでバランスを崩し、頭から一回転してしまう。
「あーん! セージ君のあほー!」砂まみれの頭を振りながら、それでも楽しそうな顔だった。
「美鳥ちゃん大丈夫ー?」寒河江もそちらに駆け寄るが、「うあっ」同じく砂に足を取られて前のめりに倒れこんだ。
「うははははっ。ばーかばーか」無様な格好の二人を清治が囃し立てる。
そんな微笑ましい様子に、夢子は腰に手を当て年寄りじみたため息をつく。
「まったく、みんな子供みたい」
「誰だって水際にやってきたら、大人でいるのは難しいさ。特に、僕たちみたいな子供はね」
そう言って陽は能天気な原色が並ぶパラソルを広げ、砂に突き刺した。広げたシートの四隅をペグで留め、荷物を放りだし、美鳥たちの方へ向かった。
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