事故現場

 六週間。

 ミツバチはその短い生涯のうちに約二千キロをも飛び回り、ティースプーン一杯分ほどの蜜を集めるといわれている。

 六週間。

 ようはティースプーンはおろか花の在り処すらも見つけられぬままだった。

 思い出集めを始めてからこっち、夢子ゆめこ清治せいじ、そしてもちろんゆーこと一緒に様々な場所に行き、色々な話をした。だが結局、陽が自発的に何かを思い出すということはなかった。

 無くしてしまったお気に入りの絵本の物語を追想するように、歯抜けになった本棚を言葉で埋めようとするように、訥々と語られるそれぞれの思い出に陽は耳を傾け、時々自分も何かを思い出したようなフリをした。

 もう、何も思い出せないのではないかと思う。

 川底を転がる石のように、記憶もまた時間の流れとともにディテールを失い、さらさらと温かい砂のような『思い出』として積ってゆく。その手を切ったガラス瓶の破片も、時間と思い出の砂に洗われて、形のぼやけた心地良い手触りへ変わってゆく。ならばもう、いくら真摯に砂浜を掘り起こしたところで、価値あるものなど見つかりはしないのではないか。

 徒労と欺瞞を重ねながら、自分は何を得ようとしているのか。そもそも『確かなものを思い出したい』なんて曖昧模糊とした言葉は、裏を返せば『どうでもいい』という浅慮の発露であり、それこそ清治が言うようなパフォーマンスに過ぎなかったのではなかったか。

 詮無いことだなんてゆーこに言いながら、その実そういった考えが頭から離れないのは陽のほうであり、考えても仕方ないという言葉の半分は、きっと自身に向けられていた。

 このまま記憶が戻らなくとも、それはそれで良いのかもしれないと陽は思い始めている。


 それでも花だけは見つかった。

 当然といえば当然だが、花屋に行けば花はある。陽は真っ赤なヒナゲシを購入した。シンプルでありながら印象的な花冠と目に残る鮮やかな発色は、なるほどゆーこが好みそうである。

 そして、約束の日の朝。

 車が七人乗りということもあり、陽たち三人に加えて美鳥みどり寒河江さがえも同行することになった。運転は夢子の父親だ。

 車に乗り込もうと助手席のドアを開けた時、陽のシャツの裾が引っ張られた。

 振り返れば夢子が、まるで置き去りにされた子供のような目を陽に向けていた。

「あ……、ごめんなさい」

 夢子は自分の行動に驚いて素早く手を引っ込めた。どうしたのかと陽が訊ねると、授業以外では気分次第でかけたりかけなかったりする眼鏡のツルを触りながら、奥歯に物が挟まったように、

「……その、もし気分が悪くなったりしたら、私が席変わるから」

 心配されているのだと思う。

 今まで色々な場所に行ったが、現場に行くのは今日が初めてだ。陽自身、もしかしたら何かが起こるのではという漠とした期待を抱きながら、同時に少なからぬ不安を感じてもいた。

「ああ。何かあったらその時は、素直に頼るよ」

 そう答えると夢子は納得したように頷いて、後部座席に乗り込んだ。

 十年選手のミニバンが、騒々しい蝉時雨と深い夏空の下に滑り出る。二列目に夢子と美鳥、三列目には清治と寒河江が座った。美鳥と寒河江は今日が初対面だったがすぐに打ち解け、出発早々から女三人寄ればなんとやらであった。夢子の父は早朝の雀のようなおしゃべりを後頭部で聞きながら機嫌良さそうにハンドルを握っている。その隣、陽はまるで自分の家の車のように馴染んだシートに背中を預け、窓に流れる見知った風景を、空っぽの頭にただ受け止める。

 三十分ほどして峠道に入った。

 左右に山々が迫り、道は曲がりくねった上り坂になった。

 あと十分も走れば、目的地に着く。

 いつの間にか皆の口数が少なくなり、ロードノイズだけがやけに大きく車内に響いた。

 しばらくして、夢子の父が無言でハザードスイッチを押した。

 そのまま車は減速し、橋の袂にある旧道へと折れた。

 発動機がブルリと身震いして止まり、蝋燭の火を吹き消すように車内の音が消えた。

 一瞬の空白を挟んで、夢子の父がドアノブに手をかけた。陽もそれに従い車を降りた。

 ハイコントラストな夏の色と、驚くほど清冽な山の冷気が陽たちを迎えた。

 陽は最初、どこが現場なのか解らなかった。

 車の後方に立ち尽くしている夢子の足元に、半分腐った植物の残骸があった。元は花束だったそれを山側に投げ捨て、陽たちはそれぞれ用意した花を新たに手向けた。夢子の父は線香を箱から取り出したが、「やっぱ山の中で火はやめておこう」と仕舞い直した。

 改めて周囲を確認する。橋の欄干が一部だけ新しかった。新道の舗装面に不自然な擦過痕があった。旧道から沢に下る斜面の草の伸び様が違った。言われなければ気付かないほどではあるが、ここで『何かが起こった』のだという痕跡はまだ残されていた。

 意味を欠いた『状態』だけがそこに存在していた。

 その現状はふるとりようという人間の現在そのものだった。

 今この場所にあるすべてが自分の一部であり、また自分がこの場所の一部であるのだという、圧倒的な実感があった。それなのに理性は理解を拒んでいる。意味と記憶――本来ここにあるべきそれらが決定的に失われた、腹の底が冷えるような寄る辺の無さを陽は感じた。

 手を合わせ、頭を上げてからも、誰も口を開かなかった。ズジュ、という湿った音に目を送れば、花束の前にしゃがみこんだ寒河江が、うなだれたまま鼻をすすっていった。

「つつじさん」

「ん、ありがと」

 寒河江は美鳥から受け取ったポケットティッシュで鼻をかんで立ち上がった。

 陽はなんとなしに、汚れたガードレールの向こうへ視線を滑らせ、

「――お?」

 意図せず声がこぼれた。

 沢の対岸、生い茂る樹木の下に人がいた。が、よく見るとそれは見知った幽霊だった。向こうも陽が気づいたと知って、無邪気に飛び跳ねて手を振ってきた。毎度のことながら、少しはTPOを考慮して出てきてほしいものである。

「どうしたの」

 夢子が隣に並んだ。固まったままの陽に、ゆーこがなにやらジェスチャを送る。背後の森林を見上げ、何かを指さしている。その指先を追うと、深緑に映える小さな青色があった。

「あ、いや、あそこに綺麗な鳥がいるなって」

「ほんとだ」夢子もすぐにそれを見つけた。「オオルリだね。ウグイス、コマドリに並んで三鳴鳥と称される、夏の渡り鳥」

「詳しいんだな」

「お姉ちゃん、動物好きだったから。――もちろん犬を除いてだけどね。鳥類図鑑とかよく見てて、オオルリが一番好きだって言ってたのを思い出した。私、本物は初めて見たな」

 背の高い広葉樹の梢に留まった鳥は、光を浴びてコバルトガラスのように輝いていた。耳を澄ませば、美しく透き通った鳴き声が聴こえる。

 鳥はひとしきり囀ると、鮮やかな羽色の名残を夏の空に曳いて、何処かへ飛んでいった。

「お姉ちゃん、見てたかな」

 陽は沢のほうへと視線を落として答える。

「見てたと思うよ。……でも、ゆーこさんなら鳥よりも沢で遊んでそうだ」

「たしかにね。そんな気がする」

 そう言って夢子は身を翻し、車の方に歩いていった。

 陽はしばしその場に留まって、岩に腰掛けて清流に白い足を遊ばせるゆーこを見守った。陽の視線に気づいたゆーこが、向日葵のような笑顔を咲かせて手を振る。

 陽は誰も見ていないのを確認して、小さく手を振り返した。

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