吐息

 奇声を上げて走り出したい気分だったが、こらえた。

 ひとけの無い放課後の廊下を競歩手前の歩幅で進んでいると、後ろからパチパチと小走りに追いかけてくる足音がした。

「豆腐にだって歯型がつかねえぞ! だってさ。さっすが部長、かっこいーぃ」

 制服姿のゆーこが囃し立てるように陽の顔を覗き込んだ。ようは足を止め、辺に人が居ないのを確認し、今度は普通に歩き出す。

「誰のせいであんなことになったと思ってるんですか」

 苦し紛れに言ってみた陽だが、誰のせいかは明らかである。ゆーこの割り込みがあまりにも自然で、感想も自分のそれと重なっていたとはいえ、衆目の中で堂々と『会話』してしまった間抜けな自分が悪いのだ。大体、毎日部室に来ては漫然と記録を漁ってばかりの自分こそが腑抜けではないか。よくも「やる気がないなら帰って寝てろ」なんて言えたものだ。

「んー。ボケっとしてた陽ちゃんのせいじゃないかな」

 ごもっともな返答にぐうの音も出ない陽は重い溜息を吐き出すことで精神の安定を図る。

「だぁいじょぶだって。あの子たちも夏休み前で気が抜けてたみたいだし、ここらで活を入れるべきだったんだって。……まあ、一番気が抜けてたのは部長さんみたいでしたけどねえ」

「ああもう、そんなのわかってるよ」

「へっへー、自分で下手こいたくせにふてくされてやーんの」

 人を小馬鹿にしたような憎たらしさ満点の笑みに、陽は拳を振り上げて、

「うるさいあっちいけ」

「うっへへへ」

 破顔したゆーこは身体を翻し、ホッピングする小鳥のように廊下を駆け、羽根の髪飾りを煌めかせて曲がり角の向こうに消えていった。

 結局からかいに来ただけか、と陽は肩を落としてとぼとぼと廊下を歩きそめる。


 生徒会室は特別教室棟の三階のさらに一番奥にあった。

 上手なのか下手なのかも判然としない書風で『生徒会室』と書かれた教室プレートの下、廊下の真ん中には赤いパイロンが蹴りだされており、プレートと同じ筆跡で『役員在室』と書かれた腹をこちらに向けている。

 部室棟は全て埋まっているし、放課後自由に使える教室がここしかないからこんな不便な場所に仕方なく押し込められているのだ、と役員たちは自嘲するが、本音はまんざらでもないのだろうと陽は考えている。教師の目すら届かない校舎の隅っこは、騒がしい編集部のそれとは真逆のベクトルにある誇大妄想の気配がした。

 パイロンの数メートル手前まで来た時、生徒会室の扉が勢い良く開かれた。

 出てきたのは夢子ゆめこだった。

 後手で強かに扉を閉めた夢子は陽の姿を認めると、一瞬気まずそうに目を逸らし、

「話はついたから」

 すれ違いざまに言い放ち、引き止める陽の声をも無視して、すたすた歩いていった。

 追いかけようと一歩踏み出した時、背後で扉が開いた。

「なに、フルちんまで文句言いにきたの」

 振り向けばクラスメイトの油戸あぶらとが、あからさまに眉根を寄せて立っていた。

「いやね、ちょっと様子を見にきただけなんだけど――」早くも階段の方に消えてゆく黒髪を振り返り、「間に合わなかったみたいだな。色々と」

 油戸は静かに扉を閉め、嘆息して窓際に腰をもたれかけた。

「ごめんなさい。今回ばかりはあたしが悪かったわ」

 そう言って降参のジェスチャを示す油戸に、陽は少なからぬ驚きを覚えた。

一言で言えば、編集部と生徒会は犬猿の仲である。面倒な案件を日常的に持ち込む編集部のことを生徒会は当然よろしく思ってはおらず、二者間の対立はこの学校における伝統の一つだ。

 陽は無言で顎を動かし、先を促す。

「いっとくけど、フルちんとこの小間使いが持ってきた――ハイハイ副部長ね、うん、まあその副部長サンが持ってきた企画の詰めが甘いのは別のハナシだかんね。別に意地悪してるわけじゃないよ。もっと練ってから持ってきて欲しいってだけ。だけど河姆渡かぼとさんがね……。あーだこーだ言って無理くり押し付けてきてさ、だんだんウザくなっちゃって、あたしも色々言ってやったの。でも河姆渡さんていくら煽っても乗ってこないでしょ? だから、つい……」

 ああ、そういうことか。

 言い渋る油戸の上目気味な視線に、陽は事の顛末を悟って唇を噛む。

 腫れ物に触れるように、引いた位置から人の腹中を盗み見るように、事情を知るものが必ずと言っていいほど見せるその目遣いは、もちろん配慮の気持ちからくるものなのだろうが、陽にとってそれは哀れまれているようにしか思えず、少なからぬ疎外感と落胆を覚える。

 だから、一思いに口にする。

「ゆーこさんのことでなんか言ったんだろ」

 油戸は肯定の代わりに、フン、と息をもらして、

「『虎の尾を踏む』って言葉の意味を学んだわ。それこそ一瞬で」パチンと指を鳴らし、「ハイエナがトラに大変身」

「夢子って平常心のキャパはデカイけど、それだけにキレた時の勢いは凄いからな」

「うん、怖かった。後であたしも謝るけど、今はフルちんにフォローお願いできるかな」

「そのかわり、企画の方は受け取ってくれよな。修正上げるまでは保留でもいいからさ」

「わかったわかった」油戸は渋々といった感じで承諾した。

 陽は「んじゃ」と手を上げて背を向ける。が、数歩して思い出したように振り返り、

「あともう一つ」

 なによ。と振り返る油戸に指差して、

「人のことを下半身丸出しみたいなあだ名で呼ぶな」

 ひらひらと手を振って部屋に戻る生徒会長を見届け、陽はその場を後にした。


 部室に戻る途中、トイレから出てくる夢子に鉢合わせた。

 先ほどのような殺気立った雰囲気は無く、いつもの落ち着きを取り戻しているようだった。安心した陽が「お、元気な子は生まれたかな?」とガキのようなからかいを向けると夢子はハンカチを口に当てて、「さいってー」つま先で陽の向こう脛をがしがし蹴りつけた。

 二人は肩を並べて歩きだす。

 道すがら部誌の方針変更について報告するが、夢子は自分には関係ないとばかりにそっけなく「そう」と応えるだけだった。

 やはり、変だと思う。

 先程からずっと口に添えているハンカチも気になる。どうしたのかと訊ねると夢子は、

「うん、ちょっと」言葉を濁し、突然歩みを止めて、「……リップクリーム、持ってる」

 陽は胸ポケットからリップスティックを取り出し、夢子に渡す。リビングのテーブルなどに放っていると美鳥が勝手に使ったりすることが普段からあるので、他人に――身内に限るが――貸すことへの抵抗はあまりなかった。

 だが夢子はまるで散弾銃のシェルでも受け取ったみたいに、手の中のそれを見つめている。たっぷり四秒は沈黙が続き、顔を上げて、

「これ、お姉ちゃんが使ってたのと同じだね」

「へえ、そうなんだ」

「よー君にリップクリーム塗る習慣を付けさせたのもお姉ちゃんだよ」

「それも初耳――ではないよな当然。ごめん。まだ思い出せなくて」

「よー君は夏でも唇がさがさだもんね」そこで夢子の目に閃きの色が踊った、「ねえ、塗ってあげる」

 時として夢子の頑固さは思いつきの児戯も適応されうる。嫌がる陽のことなどお構いなしで、やると決めたらもう揺るがない。このまま根比べを続けるのと、さっさと塗られて終わりにするのと、どちらが賢明かは自明だろう――とその目が訴えてくる。

「ほら、顔よこして」

 もはやこちらが折れるしか無かった。陽は辺りに人の目がないか見回して、

「ほらよ」顔の高さを夢子に合わせた。

 二人の視線が衝突し、間に生まれた沈黙に周囲の音がのみこまれる。

 ハンカチで口元が隠れたその顔に、不意にゆーこの面影が重なった。髪を切らずに伸ばしていれば、きっとこうなっていたであろうという姿が、陽の理性を幻惑に引きずり込む。一番古い『親友』の、見慣れたはずのその瞳が、呪術的な不可思議を帯びて陽の心を絡めとる。

「目、つむって」

「なんで」

「なんでもいいから、つむって」

「夢子」

「なに」

 合成音声のようにソリッドな声が廊下に響く。振り向いたその顔からはいかなる感情も読み取れなかった。二の句に詰まった陽は、逡巡というには長すぎた沈黙の末にぽつりと一言。

「――大丈夫か?」

「なにが」

 突き放すような返答に、陽は視線を逸らしてしまう。

「大丈夫だよ」夢子は表情を崩して言う。「私は大丈夫だから」

 そして芯の通った動作で身を翻し、長い髪を陽炎のように揺らして歩いていった。

 大丈夫なわけないだろ。

 その叫びはしかし、力の抜けた喉からは到底絞り出せず、陽はただ立ち尽くす。

 瞑目の中で感じた苦酸っぱく湿った吐息が、鼻腔にこびりついて離れなかった。

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