決断
職員室に行って養護教諭に声をかけた後、
自分の決断は正しかったのだろうか。
そのことばかりが学校を後にしてからもずっと頭にまとわりついて離れない。
もちろん正しいと思ったからやったことだし、後悔はしていない。しかし何か大事なことを忘れてはいないかという、漠然とした不安感が陽の中から消えてくれない。
なんとなく、まっすぐ帰宅する気になれなかった。いつもの通学路とは違った道に入ってみたりしているうちに、なんだか自分が迷鳥にでもなったような感じがしてくる。
平日の昼間だけあって人も車も少なく、街は海底に沈んだ幽霊のようだった。
蝉の声に思考が遠のく。
小鳥が寝返りを打つような力のない風が、足元から立ち上る熱気をゆらりと押しのけた。
透明なカーテンのようなその隙間から、ゆーこが姿をあらわした。
「あらオニイサン、今から部活? それとも取材?」
「今日はもう上がり」
「ふーん」とゆーこは陽の隣に並んだ。「なにかあったの?」
緩やかな水の流れに押されるように、陽は歩みを止めた。
ゆーこは数歩進んで、不思議そうな顔をして陽を振り返る。
「少し、寄り道していこう」
そう言って陽は相手の返事も待たずに踵を返し、駅とは反対の方へ歩き出した。ゆーこは軽やかな足取りで陽の隣に駆け寄り。
「どこいくの?」
「ゆっくり話せる所」
ゆーこはそれ以上の追求はしなかった。二人は無言で住宅地を歩いた。少しして護国神社につきあたり、裏の方から回ってゆくと河沿いの道に出た。道路を渡り、河川敷へと降りる。
余談であるが、この辺りは芋煮会が盛んだ。広い河川敷は整備が行き届き、ベンチ等も豊富に設置されていてシーズン中は人の姿が絶えない。だが、今は陽以外の人間はここにいない。
陽はベンチの一つに腰を下ろした。
相変わらず日差しは容赦なかったが、河から漂う冷気が幾分か暑さを和らげてくれた。
「それで、話ってなあに?」
隣に座ったゆーこは足をぷらぷらさせながら陽の顔をのぞき込んだ。
「ゆーこさんのことを夢子に話したよ」
ゆーこの表情が固まった。戸惑いに泳いだ眼はしかし、次の瞬間には思案をまさぐっていた。わずかな黙考ののち、ゆーこは顔を正面に戻し空を仰いだ。深く肺の息を交換して、
「それで、あなたはどうしたいの? 私とあの子の橋渡しでもするつもり?」
「それも考えたんだけど、でも今までのゆーこさんの出現状況からすると――」
「あの子があなたの近くに居る時に私が出てくることは、稀ね」
「そうだな。となると、こうして話ができるときに伝言を預かっておくってやり方しかないんだけど――だけど、そもそもそういうことをやろうと思って話したんじゃないんだ」
今までずっと、自分だけの問題だと思ってきた。ゆーこに取り憑かれているのは自分なのだから、全ては自分に課せられた責任なのだと陽は思っていた。
しかしここにきて、それは間違いだったのかもしれないという考えに至った。
ゆーこが初めて化けて出たあの日――掛け布団の上に正座してお説教を受けたあの夜に、ゆーこから聞かされた二つの未練。そのうちの一つが夢子に関わることである以上、はじめからこの問題は陽の中だけに留めておけるものではなかったのだ。
それは換言するならば、今まで夢子をのけものにしてきたということにほかならないのではないか。そうやって『自分の責任』という安全圏にゆーこを囲い込み、夢子へのアプローチを避け続けた結果、夢子は何かを見失ったまま、ここまで辿り着いてしまったのではないか。
自分は逃げていただけなのだと思う。
今更全てを話した所で、時間が六月まで巻き戻るわけではない。むしろ事態を悪化させる公算のほうが大きい。
でも、だからといってこのままにしていてはダメなのだ。
花が枯れるのを見たくないからといって、種を蒔かずにいることほど愚かなことはない。
「もっと夢子と話すべきだったんだ。ゆーこさんや僕のことを、なによりも夢子自身について、ちゃんと話し合うべきだったんだ」
「そっかあ」
ゆーこは否定も肯定もせず、ただ陽の言葉を反芻するように頷いた。
どこからか飛んできた雀の一団が、二人の前の草むらで戯れていた。その様子を眺めていた白い頬が、不意に緩んだ。へらへらと口元を綻ばせるゆーこに、陽は眉をひそめる。
「陽ちゃんってさ、小さい頃からそうだったよね」
「そうって、なにが」
「面倒なことはとりあえず誤魔化して済ませようとするくせに、そのうち誤魔化すことのほうが面倒くさくなって、最終的にはものすごい正直になっちゃうの」
「なんだよそれ。なんか遠回しに馬鹿って言われてるような気がするんだけど」
ゆーこは勢いをつけてベンチから立ち上がった。両腕を広げてくるりと身を翻し、
「馬鹿なんだよっ」
心の底から楽しそうに宣言した。
「ぼーっとしてるくせに抜け目がなくて、小心者のくせに時々大胆で、優柔不断なのに変なとこで首尾は一貫していて、ずる賢くやろうとしてもやっぱり正直者で――」
湿潤な川辺の空気に投影された光の筋のような、白くおぼろげな腕が陽へと伸びる。
「なによりも私みたいな女に惚れちゃうくらい馬鹿な人だもの」
霞を凝集したような指先が、ふわりと陽の頬をなぞる。ゆっくりとその形を確かめるように、手が、腕が、胸が、陽の頭を包み込む。目蓋を閉じれば、太陽に熱せられた頭の暖かさがまるでゆーこの体温そのもののように感じられる。
「大丈夫だよ。ちょっと遠回りしちゃったけど、あなたはあなたが信じた事をやればいい。いままでだってそうしてきたんだしね。だからきっと、大丈夫」
たっぷりと吐息成分を含んだ声が、柔らかく耳介に触れた。
「――だといいけどなあ」
「心配しなさんなって。むっこだって根は真っ直ぐな子なんだから。……まあ、ちょっと真っ直ぐすぎて困るところがあるけど、そんときゃ力尽くでへし折ってやればいいのよ」
その言い草がなんだか面白くて、陽はくつくつと笑みを漏らす。
「まるで喧嘩をけしかけてるみたいな言い方だ」
「残念ながら、私はもうあの子と喧嘩できないからね……。だからちょとレクチャーしておくと、口喧嘩っていうのは理論ではなく感情を正当化したほうが勝ちなのよ。論を戦わせれば必ずどちらかが負けるけど、感情を戦わせられるなら少なくとも負けることだけはない。特にむっこはリクツで相手をやり込めようとするタイプだから、感情を肯定するのが下手くそなの。だからそこを突けば大体は勝てる。ポイントは相手の感情も含めて肯定することね」
「勝つとか負けるとかって話じゃないと思うんだけどなあ」
「いーや、勝ち負けの問題だね。むっこってば頑固者だからさ、徹底的に負かされてからじゃないと素直になれないのよ」
そこでゆーこの気配が遠のいた。陽はゆっくり目蓋を持ち上げる。眼底を重く圧す暴力的な夏の光の中で、淡雪のような輪郭を纏ったゆーこがそこにいる。
「だから私からの質問は一つだけ。――あの子を泣かせる覚悟が、あなたにはあるの?」
思い返せは、陽はいつも夢子に負かされてきた。それなりに喧嘩をすることはあったが、いつも陽が先に折れていた。いわんや夢子を泣かせたことなど一度もなかったのだ。
それが不安の正体だったのだろう。
モヤモヤと胸につかえていたものをゆーこに喝破されて、ようやく気が落ち着いた。
「もちろん」陽は口角を僅かに持ち上げてみせた。「いまさら逃げこむ場所なんかどこにもないしな。こうなったら涙だろうが鼻水だろうがヨダレだろうが、全部絞りきってスッキリするまで付き合うつもりだよ」
「ウム! よろしい!」
ゆーこは我は意を得たりとばかりに頷いて、陽の隣に戻った。その肩は先程よりも近く寄り添い、すこし鼻を寄せれば頭皮の匂いすら感じられそうな錯覚を覚える。
そうして二人はしばらく無言のまま、光の欠片が流れる川面を眺め続けた。
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