4: Ocean Breathes Salty

死者の自覚は

 数千年前、偉大な哲人にして宗教家であったその人は言った。

 人が感じる世界というものはすなはち『虚仮』であり、その身に宿る五感も、そこで意識される喜怒哀楽も、全てはただの幻にすぎず世界はその一切が無であると。ではその人が言うように世界が無であるなら、人はなぜ世界が『有る』ように錯覚し、さらには万般の悩みまで抱えてしまうのか。そこで彼の人はこう答えた。

 すべては心の働きによるものだと。

 。すべての物事に意味を見出したがる。ただの自然現象に神威を感じ、枯れ尾花にこの世ならざる影を認め、帆布に重ねられた油染みに陶酔し、フェルトが鉄線を叩く音の連なりに涙する。故に心は有りもしない悩みすら世界から読み取り、自ら生み出した五陰盛苦にもがき苦しむ。そのような働きそのものが心の本質なのだ。

 人生百に満たず、常に千載の憂いを抱く。

 その心に抱える悩みを一つ一つ解消するには、人の命は短すぎる。だから彼は全てを否定した。心を、人を、この世も、あの世も、言葉を――否定することすら否定した。

 そうして因果の地平を見定め、確固とした思想を打ち立てるに至ったその人は、名をガウタマ・シッダールタといい、今日においては釈尊と呼び習わされている。


「とんだ山師だよ!」

 憤慨して床を転げまわるゆーこを無意識に避けながら、ようはネクタイを解く。

「まあ生前の行いってやつが悪かったんじゃないんですか」

 上着とタイを椅子の背に掛け、引っ張りだしたシャツに空気を入れながら椅子に腰を下ろす。犬のように伸びきったゆーこを見ていると、身体の緊張がほぐれていく気がした。

 季節はすっかり夏だ。

 さらに言えば、今日はゆーこの四十九日だった。葬式に出られなかった陽にとっては、これが初めての法事だった。着慣れないスーツとタイ、そして法事の雰囲気のせいもあったが、なによりもゆーこの事が気がかりで、一日中嫌な緊張を肩に重く感じていた。

「もうずっとこのままなのかなあ、私」

 あの世に渡りそこねたゆーこがぽつりと呟いた。今朝、陽が部屋で身支度を整えていたところに現れたゆーこはいままで見たこともない不安に満ちた様子で「心残りが晴れないうちは成仏するわけにはいかないから、下ネタでも考えながら手を合わせて」だとか「地獄行きになったらどうしよう。きっと不産女地獄だよ。竹林の地面を永遠に掘り続けるとか意味不明だよ死んでも嫌だ」などと言って部屋の中をじたばたと暴れ回り、しまいには「坊主を呪い殺せないかな」などと真顔で物騒なことを言い出す始末だった。

「なぁーにが誓願よ。いつまで経っても弥陀のみの字すら顕れないじゃない」

 散々成仏はいやだと言っておきながら、法事が終われば今度は何も起こらなかったことに対して文句を言い始め、果てには山師呼ばわりである。とんだクレーマーもいたものだ。

「成仏したいのかしたくないのか、どっちなんですか」

「……わかんない」のそのそとベッドに這い上がって、胡座をかく。「なんかさ、なんだよね」

 夢を見ているよう――

 以前にも聞いたことのある科白に記憶が逆転する。陽は改めてその真意を問いかけた。

「私の意識が――少なくとも意識があるという自意識が働いている時間は、こうして陽ちゃんの時間に介入している時だけなの。ふと気づいた時には陽ちゃんの隣にいて、また気づいた時には別の場所、別の時間、別の姿になって陽ちゃんのそばにいる。そこで初めて自分が『消えて』いたことに気づく。

 死ぬのはいつも他人ばかり。

 この言葉を墓碑銘に刻んだデュシャンは、まさしく慧眼の持ち主だったわけだ。私はそれを身をもって――身体なんてないけどさ――体験中よ。

 ……死の実感なんて、全然無い。感覚はふわふわと曖昧なのに、意識だけは明晰で、何かが酷く間違っているのに全て完璧に働いてる気がする。それがまるで夢を見ているような感じ」

 手足を放り投げて寝そべり、天井を見つめてゆーこは続ける。

「正直に言うとね、すごく怖いんだ。できればずっとこのまま、あなたの周りをふわふわ漂っていたいって思うけど、意識の奥底ではあなたに全てを思い出してもらいたいっていう、強烈な衝動が渦巻いている。そういう理性の及ばない何かによってこの私が作られているとしたら、それは私と言えるのか、『河姆渡かぼと悠子ゆうこ』だと言えるのか。

 ここにいる私は、ほんとうに私の魂でできているのか。

 だから、時々こう思うんだ。実のところ、私はまだ死んでなんかいないんじゃないか。この私は幽霊なんかじゃなくて、むしろこの部屋や陽ちゃんのほうが幻――ようするに走馬灯かなんかであって、次に閉じた目を開いたらそこは寒くて真っ暗な運転席で。ああ、変な夢をみたなあって思いながら、今度こそ本当に死んでゆくんじゃないか……ってね」

 そう言ってゆーこは自嘲的に微笑む。だがその瞳は言葉の通り不安を示していた。

 なんとなしに発した疑問はシリアスな言葉によって打ち返され、受け止め損ねた陽は沈黙に助けを求める。

 自分はゆーこの走馬灯なのだろうかと考えて、そうでないと断言できる決定的な理由などどこにもないことに気づく。確かに自分は今ここに存在していると『思って』いるが、最初からそう思うように設定された書割の一部として、ゆーこに夢見られている可能性は否定しきれない。目の前のゆーこが幽霊であるとするのも、そうしたほうが陽にとっての現実に即しているからというだけの理由にすぎず、いきおい『シミュレーション仮説IN走馬灯』説を不採用とする理由はどこにもない。考えれば考えるほど、理性と言語の断崖に追いやられる。

 とどのつまり、今の陽にはゆーこの不安を否定する術がないのだ。

 それでも陽は、ゆーこが落ち込んでいる姿は見たくないと思った。

「僕は少し嬉しいかも」椅子の背もたれに体重を預けて言う。「もしこれがゆーこさんの見ている走馬灯なら、僕はその主演俳優を獲得しちゃってるわけで。それは裏を返せばそのくらい大事に想われていたってことでしょう? だからまあ、そう考えると悪い気はしないというか、率直に言って怖さよりも嬉しさのほうが先に来るというか、そんな感じがするな」

 ゆーこはしばし呆けた顔で陽を見つめて、

「陽ちゃん、もしかして私を励まそうとしてくれてる?」

 陽は首肯した。

「でも、あまり励ましになってないこともわかってる?」

 もう一度頷く。

 今この瞬間が走馬灯なら、ゆーこはもうすぐ死ぬのだろう。ならばその僅かな時間くらい、都合のいい夢を見たっていいだずだ。

「あれこれ考えても詮のないことです。夢なら夢でいいじゃないですか。大事なのは、いい夢を見られたかどうかだ。僕はゆーこさんに、いい夢を見てもらいたいと思ってる」

 その言葉にゆーこの吐く息が僅かに震えた。表情を隠すように頭をそむけ、

「そうだよね」大きく息を吸って、跳ね起きる。「考えたって仕方ないね。……うん。たまには陽ちゃんの屁理屈に乗っかってあげるとしますかね」

「屁理屈とは随分な言われ方だなあ。ほら、デュエム=クワインのテーゼってやつですよ。どんな仮説も単体では意味をなさず、それを補助する様々な仮説により成り立っている。だからそのほつれがないか探したところで、補助仮説の組み合わせ次第でどうにでも繕える。どんな仮説も煎じ詰めれば反証不可能なんだから、そこで勝手に悲観してても仕方ないってことで」

 するとゆーこは鼻で笑って、

「哲学なんてアリストテレス以降は大体が屁理屈みたいなもんでしょうに。ていうかよくそんな事知ってるね」

「夢子から借りた本に書いてあったんです」

「あー、あれでしょ」とゆーこは本のタイトルを挙げた。陽が肯うと満足そうな顔で、「あれはねえ、元々私の本なんだよ。ていうかむっこの部屋にある本は小説以外ほとんど私のよ?」

 陽はわざとらしく驚いてみせる。

「へえ、ゆーこさんてわりと真面目に本も読むんですね。意外だなあ」

「なにおう! これでも旧帝現役で受かってんだぞ」

 今度は素直に感心した。やはり夢子の姉だけあって素質は悪くなかったらしい。

「まったく……。高校受験の時にあなたと清治に勉強教えたのは私なんだからね。ていうか陽ちゃん今年受験でしょうが。あんまり生意気なこと言ってると面倒見てあげないよ」

 むくれるゆーこの姿がなんだか微笑ましくて、もう少しからかってみようかと思ったが、不意に立ち上がった理性の網に捕らわれて、いたずらな気持ちは立ち消えになった。

「面倒見てもらう気なんて元々ないですよ。記憶を取り戻してゆーこさんを成仏させるって約束したし、既にその件で助けてもらってるんだから。自分でできることは自分でやります」

 そう。と勢いをそがれたように呟いて、ゆーこは視線を窓の外に投げた。ゆるやかに舞う埃が、レースのカーテンの隙間から差し込む夏の日差しを斜めに浮かび上がらせる。

「それじゃあさっさと記憶取り戻して、私を成仏させて、この夢を終わらせなきゃね」

 ベッドから立ち上がったゆーこは周囲の空気を少しも撹すことなく陽の隣へやってくる。机の縁に腰をもたれる妙に大人びた仕草が、陽の鼓動を僅かに速めさせた。

「ま、醒めない夢は無いって言いますしね、それに――」

「にいちゃーん。ちょっときてー。にいちゃーん。おーい」

 階下から響く美鳥の声が、陽の言葉をせき止めた。

「はあーい」大声で返事をして席を立ち、「それじゃあ、またあとで」戸口で振り返る。

 無言で頷いて手を振るゆーこを扉の向こうに残し、階段を四段ほど降りたところで、ふと頭に浮かんだ疑問が足を止めさせる。


 もしもこれが夢ならば、なぜゆーこは自分が死んだ後の夢なんて見ているのだろう。

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