憑依
北の高台を登るとそこにはちょっとした花壇があって、赤や黄や紫の花が列をなして咲いていた。さらに一段登ると立派なケヤキの木があり、その向こうの広場に展望台があった。
すでに待っていた
展望台からは盆地の北側が全て見渡せた。左右に走る山脈の間に、あまりぱっとしない灰色の市街地が乾きかけの水たまりのように広がっている。
さて、どうしたものか。
一同は考えあぐねてしばし黙りこんだ。
こうして実際に思い出の場所にやってきたはいいものの、それでなにかが解決するわけでもない。記憶喪失というのはうんうん唸って公式に数字を当てはめたり変数を調整したり、ましてや空から女神が降りてきて「あなたがなくしたのはこの甘酸っぱい記憶ですか。それともこっちの苦々しい記憶ですか」なんてふうに与えられるものではないのだ。
では、どうすれば良い。
どうやったら失った記憶を取り戻せるのだろう。
「どうにもできないんじゃない?」
あっさりと
「身も蓋もないなあ」と
「神経細胞によって創りだされた回路とその活動を『記憶』と呼ぶのなら、記憶喪失というのはその回路が壊れちゃった状態なわけでしょ。普通の機械なら回路のどこが悪いのかわかるし、修理もできるけど、人間の場合はそれもできない」
なるほどそうだ、と腕組みして唸る男性陣。そこに寒河江が手を上げた。
「はいはい、夢子先輩。人の脳は機械みたいには修理できないけど、ある程度の可塑性はあるじゃないですか」
「かそせー?」
十中八九、少子化や産業の停滞といった言葉を思い浮かべているであろう
「可塑性っていうのはつまり、粘土みたいに変形できる性質ってこと。確かに、人の脳は常に変化しているし、損傷をうけても一定の割合で回復の見込みはある。よー君も前向性の記憶障害からは回復してきてるみたいだしね。……だけどそれは、機械みたいに同じ部品を交換するようなものではない。崩れてしまった積み木のお城を、また一から組み上げるようなものだよ。傍から見れば同じようでも、その積み上げる順序はてんでバラバラ……。積み木の順序が記憶だとするなら、一度完全に失われたそれは、もう元通りにはならないんじゃないかな」
間髪入れずに寒河江が異論を唱える。
「でもでも、記憶そのものが壊れているかどうかはわからないですよね。もしかしたら記憶というモジュール自体は無事で、そこに通じる経路が阻害されているって場合もあるんじゃないでしょうか。たとえばお城は壊れていなくて、お城へ行く道が崩れているだけだとしたら――、それならまた別の道を繋ぎ直せれば、記憶にアクセスできる可能性があるってことでしょう」
「そうね」と夢子は首肯する。「そうだと良いけど……」
「記憶そのものが壊れていないことを願いつつ、孤立した記憶への迂回路を作る、か。……でも結局、どうすればいいのかさっぱり検討がつかないな」
陽の問いかけに、その場の全員が難しい顔をして沈黙した。
ややあって、寒河江が口を開いた。
「想像するしかないんじゃないでしょうか」
「想像?」
「崩れてしまった道そのものは、もう直せないかもしれない。でも、その道の周囲には、向こう側に渡れる獣道が隠れているかもしれない。つまりこうやって思い出のある場所に来て、」寒河江は逡巡し、傍らに寝そべるフュシスの頭を撫でる。「
「なるほどねえ」
と頷いた陽は、脳裏にゆーこの姿を思い浮かべ辺りの景色に重ねてみる。しかしそれは等身大のボードに描かれた絵のようにチープで、風に吹かれれば倒れそうな心許無い感じがした。
腰を上げ、欄干に肘をつき眼下に広がる街並みに意識を溶かし、さらに想像する。
この街に居たゆーこの事を。
ゆーこはこの街のどの道を歩いて、どの店を贔屓にしていたのだろう。地方都市とはいえ決して少なくはない人々の中に紛れ、どんな人達とどんな関係を築き、どんな日常を過ごしていたのだろう。学校の先輩として、編集部の部長として、
「夢子と一緒にきたんだよ」
突然、頭の中にゆーこの声が響いた。
それだけではない。その言葉に操られるように、陽の喉が震えていた。
「オ? どうした、早速なにか思い出したか」
いつの間にか隣で景色を眺めていた清治と顔を合わせ、陽は戸惑いながら振り返った。
ゆーこの声は強力な呪詛となって、陽の意思とは無関係にその口を支配していた。頭では拒否しているのに、身体ではそれがとても自然なことのように感じる、奇妙な重ねあわせの感覚。
「確か、中二の三月の――頭ころだったかなあ。この展望台に、夢子と二人で」
頭の中の声がまた、陽の口を借りて言った。
三人の視線を受け止めた夢子の肩が、一瞬こわばったように見えた。
夢子は何かを考えるように俯き、大きく息を吸って、吐き出すと同時に顔を上げ、
「私、そんな覚えない」
温度の低い声で答えた。
「それってお前が写真を見てなにか思い出しそうになったっていうやつのことだよな」
清治に問いかけられた陽は、まさか「ゆーこの声が教えてくれた」のだ、なんて言えるはずもなく、その場の空気に任せて首を縦に振った。
陽は恐る恐る声を発してみる。
「多分、ぼんやりとだけど、そんな気がするんだ。中学二年の三月、夢子とここに……」
今度はちゃんと自分の意志で発声できた。
自分の身に何が起こったのだろう。陽の頭の中では困惑と驚愕と、決して少なくはない恐怖とが、ピンボールのように跳ねまわっていた。
しかし今はゆーこの言葉の真偽を確かめるほうが先だろう。
「なあ、夢子は本当に覚えが――」
「無いよ」陽の言葉を押し潰すように、夢子は否定する。「よー君と二人でここに来たなんて、そんな覚え、無い」
「……そっか」
こと記憶力に関しては陽よりも夢子のほうが優っている。夢子がそのようなことは無かったと言うのなら、それは事実ではないのだろう、と陽は納得する。
では、先のゆーこの声は何だったのか。
口が勝手に動いたのは、ゆーこの仕業に違いない。なんたってゆーこは幽霊で、陽はゆーこに取り憑かれているのだ。身体の自由を奪われるのも有り得ないことではない。
なら、一体なんの目的があってゆーこは陽の声を乗っ取ったのか。
夢子は全く覚えがないという。ならばゆーこはデタラメを言ったのかと疑ってみるが、ゆーこが嘘をつかなければならない理由などそれこそあるはずがない。だとしたら考えられる可能性は二つ。ただ単純に夢子も忘れているだけなのか、あるいは――
「うぅーん。わっがんねぇなぁー、まったくもう」
陽は頭を掻きむしった。
「やっぱりゆーこさんのこととは直接関係がないのかなあ。それともやっぱり、ラッセルデートの時のとほかの記憶がこんがらがっちゃってるのか」
「らっせるでーと?」
なにやら新概念が出てきたぞ、というような疑問符を顔に浮かべて、三人は声を合わせた。
しまった、と陽は口元を小さく歪めた。
自分はあくまでも記憶喪失の体で通さなければならないのだ。なぜそうしなければならないかといえば、ゆーこのことについて他人に悟られるわけにはいかないからであり、それはつまり、ゆーこから語り聞かせられたことを第三者に漏らしてはならないという規範に繋がる。
しかし、気が抜けていたのだろう。うっかり口を滑らせてしまった。
「アー、その、えっとだな。ラッセルデートというのは――」
期待と好奇に満ちた三人の視線が、真夏の紫外線よりも鋭く肌に突き刺さる。
どう誤魔化したらよいものかと当惑する陽の口が、またもや勝手に言葉を紡いだ。
「冬でもアウトドアなデートがしたいと思って、でもスキーに行くのはツマラナイしかといって本格的に山に登るのもキビシイから、近場の
あれよというまに全てをぶちまけてしまった。
『ここはもう、思い出したってことにしちゃいなさいよ。ね?』
今度は頭の中だけで、ゆーこが陽に語りかけた。
「……よー君、それって」
夢子は驚きに目を見開いている。夢子だけではない、清治も寒河江も、突然のことに口を半開きにして間抜けな顔で絶句している。
腹を決めよう。もうなるようにしかならない。
「な、なんか少し思い出せた、みたい、なのかな?」
たじろぎながらも陽は言った。
「おおっ、マジかよ! 早速成果がでたじゃねーか!」歓喜を爆発させた清治は陽の肩に腕を回し、反対側の拳で腹を突っついた。「やっぱ寒河江ちゃんの言うとおり、ちょっと思い出しにくくなってただけなんだな、ぬははは」
肩を揺さぶられながらも、陽はフォローをいてれおく。
「いや、でも、思い出したっていうかそういう事があったような気がするだけで、それ以上のディテールとかゆーこさん自身のことについてはまだ全然思い出せてねーわけで」
「なあに、心配いらねえさ。最初の一歩が振り出せたんだ。たとえ一歩でも、その足跡があるのと無いのとじゃ大違いだ。今日はもうそれだけで万々歳よ。これでみんな気分よく肉が焼けるってもんだ。なあ河姆渡」
夢子は表情を軟化させて答えた。
「そうね。あまり悲観するような状況じゃないのかもしれない」
「そうですよ隹先輩。気負わずに行きましょう」と寒河江も同調する。
素直に喜ぶ三人に対してちょっとした罪悪感を感じないでもない。が、同時に肩の荷が軽くなったようにも思う。
「そうだな。……今のところは、これでいいのかも」
『いぇーす。これでぇーいーのだぁー。これでぇーいぃーのだぁー。ふんふんんふふん――』
どこからともなく響く、陽にしか聞こえない歌声。
その気の抜けた調子に耐え切れず、陽は三人に気付かれぬよう、顔を逸らして小さく笑った。
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