ピクニックと犬とミント
昔から、待ち合わせの場所に一番早く到着するのは
しかしそれを殊勝と呼ぶのは全くの間違いである。
陽自身はそれほど几帳面ではなかったし、時間の管理が上手だということでもない。
待ちぼうけるのが好きなのだ。
強烈に野暮な陽光の下でも、星々の太鼓が鳴り響く夜の中でも、待ち人を焦がれる間のあわい不安の中には、まるで静かな夕間暮れに一人取り残されたような心細い感覚があった。
遠くに輪郭のぼやけた人を認めては、そこに待ち人の姿を重ねてしまう心の黄昏時が、陽は好きだった。
その日も例に違わず、陽は待ち合わせの午後一時よりも三時間早く家を出た。
待ち合わせ場所の中央公園の木陰に佇み文庫本をめくり、昼は近所の蕎麦屋で済ませ、また公園に戻ってからは道行く人や車をぼうっと眺めて時間を潰した。
「おまたせ」
しばらくして、これも昔からそうであるように、約束の時間ピッタリに
「
夢子は陽の隣に腰を下ろし、はたはたと手で顔を扇ぐ。
「うん」携帯を確認する。
「暑いねえ」
六月も終盤だった。快晴の空は雲ひとつ無く、夏への助走のような太陽が肌に痛い。
「日焼け止め持ってきてる」
「あ……」
「用意しといて正解だった」
陽はバッグから日焼け止めとウェットティッシュを取り出し、夢子に手渡した。
「よー君はこういうとこ気が利くよね」
「そうか? 変なとこで心配性なだけだと思うけど」
夢子はボトルのフタを開けて、
「大事なとこではぼけーっとしてるくせにね」
「どういう意味だよそれ」
「別に」と夢子は陽の表情を一瞥し、「言葉の通り」
「僕って、そんなにぼんやりしてるかな」
「してるよ。よー君は昔っから、うっかり者のうつけ者」
ウウム。と陽は唸る。うつけとは随分な言われようだが、しかし思い返してみれば自分はよくよく些細なうっかりを連発するタチであると認めざるを得ないし、そのたびに結構な割合で夢子にフォローしてもらっていたのも事実だった。
もしかしたら同じように、ゆーこさんにも助けてもらったことがあるのかもしれない。
穏やかな空を見上げて、陽は取り留めもなく考える。
三〇分という予想に反し、一時間にもなろうかというころになってようやく清治が来た。
「お前おせえよ」
「東根おそーい」
口をそろえて非難する二人に、さすがの清治も帽子を脱ぎ平謝りする。しかし遅刻への怒りよりも、その手に牽かれるキャリーカートのほうが二人には気になった。その中身を尋ねると、清治は満面の笑みで一言。
「肉だ」
「にく?」
陽は疑問符を浮かべる。
「イェス、肉。牛豚鳥と、ウチの爺さんが打ってきた鹿もあるぞ」と清治は得意げに胸を張る。「
陽は心中に納得する。昨晩、清治から『明日の晩飯はみんなで一緒に食おう』というようなメールが送られて来たのだが、なるほどこのためか。
それにしたって結構な大荷物だった。どうやら肉や炭だけでなく、調理器具もひと通り持ってきているらしい。用意周到準備万端、と言いたいところだがしかし、どこか一つ抜けているのが
そしてやはりというべきか、山に登る段階になってその荷物が仇になった。
「あづいー。おもいー。づがれだー」
舗装されているとはいえ、れっきとした山道だ。それなりの勾配がある。陽と夢子から十数メートルほど距離をおいて、死に体の馬車馬のような清治がカートを引きずり追いすがる。
「おらおら、どうした情けないぞサッカー部」
「がんばー」
休日の午後ということもあって、山頂の公園にはぽつぽつと人の姿があった。
陽たちは公園とは反対側にあるバーベキュー広場に向かった。広場には屋根付きの炉が六つ設置されていて、今のところ利用者は陽たちだけのようだ。
荷物を置き、三人は公園に向かった。
山の北側の公園にはサッカーフィールドの幅を少し狭くしたくらいの広場があり、子連れの家族や犬を連れた女性などが芝生の上で思い思いにすごしていた。
「あんれぇ?」
駐車場に差し掛かったあたりで、清治が素っ頓狂な声をあげた。
「あそこにいるの、
「え、どこ」と陽。
「ほら、あの犬と遊んでる」
陽は清治が指さした方向に視線を送る。確かに寒河江だった。マズルの長い、いかにも賢そうな犬と戯れている。手には黄色いフライングディスクを持っていて、素早くコンパクトな動作でそれを投げた。犬は素晴らしい瞬発力でディスクを追う。ジャンプ。ナイスキャッチ。
「ほんとに?」あまり視力の良くない夢子は、じっと目を凝らして、「――ああ、ほんとだ。つつじだ」
芝生に膝をつき、戻ってきた犬の顔をわしわしと撫でた寒河江は、立ち上がってディスクを構えた。さて次はどのあたりに投げてやろうか、と算段するその視界の端でふと、近づく人影に気づき顔を向け、その姿勢のまま固まった。
陽は手を挙げて声をかける。
「よっ、奇遇だな」
「ア、エ、こ、こんにちは! どうしたんですか先輩方」
早く投げろと飛びかかる犬をあしらいながら、乱れた髪の毛を慌てて整える寒河江。
「ああ、えっとだな――」
「時に寒河江サン」
陽が言葉を選んでいる僅かな間に、舞台役者のように大げさな声色で清治が滑りこんだ。
「は、ひゃいっ」
寒河江はびくりと背筋を伸ばし、声を裏返らせた。
「肉はお好きかね」
イキナリなにを言い出すのだろうこの馬鹿は。
意味不明な問を投げかけられた寒河江は、明らかに当惑した顔で、
「えっ、肉?」
「そう、肉だ」
寒河江は数瞬迷ってから、何故か恥ずかしそうに顔を伏せて、
「……好き、です」
「ウム、素晴らしい。俺も大好きだ。肉はいいよな、ウン」
腕組みして一人で納得する清治。夢子は呆れたようなため息を吐いて、
「ねえ、そのワンちゃんとコレ、交換しない」コレ、と親指で清治を指す。
「あの、ちょっと河姆渡さん。イキナリ何言い出すんスか、ってかトレード対象が犬とか酷くないッスか」
「少なくとも、挨拶も抜きに肉が云々なんて馬鹿なことを言わないし、なによりも可愛げがあるでしょ。あなたちょっとつつじに調教してもらったらいいんじゃない」
「俺は散歩も満足にできない馬鹿犬かなにかか」
何だ自分のことをよくわかってるじゃないか、と陽は無言で頷く。
「ちょ、調教ってそんな、イキナリ何言うんですか、もう」
先程にもまして恥ずかしそうな顔の寒河江だが、若干嬉しそうでもある。調教という言葉にここまで反応するというのは、もしやそっちの気があったりするのだろうか、と陽は思う。
清治は口を曲げ、いじけたようなフリをする。
「フン。いいですよーだ。お前らには切り落とししか分けてやらねーもんねー。――というわ、け、でだ。寒河江ちゃん、これから暇?」
「はい、今日はこれといった用事はありませんけど」
「俺たちあっちの方でバーベキューやるんだけど、よかったら寒河江ちゃんもどう?」
寒河江は陽と夢子に視線で伺いを立てる。二人が頷くと、
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな」寒河江ははにかみがちに答えた。
主人の足元にまとわりついていた犬も、ワフワフ、と声を合わせた。
それから四人と一匹は、しばらく広場で遊んだ。
寒河江の飼い犬は名をフュシスといい、健康的で知性にあふれ、良く躾けられていた。牧羊犬にしては社交的な性格で、陽たちにもすぐに慣れた。
「いち、にの、――それっ」
夢子がぎこちないフォームでディスクを投げる。不慣れ故の力みがありありと見て取れる飛翔。円盤は僅かにピッチを上げたかと思うと、瞬時に高迎角をとりズーム上昇。高空で運動エネルギを位置エネルギに変換してUターンし、滑空。フュシスはそんなアクロバティックな挙動にもしっかりと対応し、持ち前の健脚で難なくキャッチした。
「わぁっ、すごーい!」
夢子はまるで子供のようにはしゃいでいる。
戻ってきたフュシスの頭を、少し遠慮した手つきで撫でる夢子。
「そういえば夢子、昔っから犬が飼いたいっていってたよな」
「そうだね。……でも、お姉ちゃんが犬苦手だったから」
「アレルギーとか?」
「ううん。単純に犬が怖いんだって。ほら、お寺の近くの家に柴犬がいたでしょ。小さい頃に噛まれそうになったとかで、それからもう大の犬嫌い。ダックスフントみたいな小型犬でも、狼に睨まれたみたいにビビっちゃって。……そっか、これからは犬を飼ってもいいんだね」
そんな夢子の呟きに、寒河江はどう反応して良いのかわからない様子だった。
そろそろ本来の目的を話しておくべきだろうと思い、陽は寒河江に向き直る。
「実は僕たち、バーベキューのためだけにここに来たわけじゃないんだ」
そして陽は寒河江に説明する。いまだにゆーこのことを思い出せないこと、それでも何かを思い出したいと思ったこと、アルバムにあった写真のこと、それに覚えた違和感のこと。
当然『ゆーこ』のことは――夢子や清治にもそうしたように――伏せておいた。
「――というわけだ。だから、できればでいいんだけど、寒河江にも協力してもらえるとありがたいな」
あらましを理解した寒河江はどこかほっとした表情をして、頷いた。
「もちろんですよ。ぜひお手伝いさせてください。水滴責めだろうが駿河問いだろうがどんとこいです」
「なんでお前もフィジカルを痛めつける方向に発想が行くんだ、ってか普通に拷問だろそれ」
「
朗らかな表情で言う寒河江に、
「ほんとにね」「確かに」
夢子と清治が頷く。
後輩の知られざる一面が明らかになった気がする。これからは寒河江を怒らせるようなことは控えよう、と陽は思う。
「それなら」と寒河江は首を傾げた。「フュシスと遊んでる場合じゃないんじゃないですか? 手がかりを探さないと」
陽は頷く。
「それもそうだな。じゃあちょうど汗かいたところだし、休憩にするか。とりあえず、そこの展望台で待っててくれ」と北の高台の方を指さした。
陽たちは一度荷物を取りに戻った。
水道でタオルを濡らして汗を拭き、飲み物の入ったボトルを持つ。夢子はバッグから取り出した眼鏡を掛ける。
そしてまた寒河江のもとに向かおうと歩き出した時、
「うわっ、ここ目虫がすごい」
夢子が顔の周りで腕をばたばた振り回していた。
整備されてるとはいえ緑が茂る立派な山である。当然虫は多い。アブやハチが出る季節ではないが、メマトイはすでに元気いっぱいに飛び回っている。
ふと思い出して、陽はバッグから手のひらサイズのスプレーボトルを取り出した。
「そういえば、これがあったの忘れてた」
ミントスプレーだった。去年父と沢釣りに行った時、虫よけとして使ったものだ。
陽が夢子の両肩にスプレーを吹きかけると、顔の周りを飛び交っていた小さな虫たちは離れていった。夢子は感心した様子で、
「へえ、効くんだねこれ。それに匂いもいいし」
「腕とかに塗るとすーすーして涼しいぞ」
「んーん、いらない」
次に陽は清治にスプレーを渡した。かけ過ぎないようにという陽の注意も顧みず、腕にシャツに首筋にとスプレーしまくる清治。案の定、揮発するメントールに鼻を襲われ盛大にむせる。言わんこっちゃないと笑いながら、陽は自分の腕に吹きかけて擦りこむ。
「ねえ、ミントの名前の由来って、知ってる」
なんとなく、といった口調で夢子が言った。知らない、と二人は答えた。
「ギリシャ神話のメンテーっていう精霊に由来するんだって。――あるとき黄泉の王ハーデスが、メンテーの美しさに心を奪われて浮気をしてしまい。それを知ったハーデスの妻であるペルセポネーは嫉妬に狂い、メンテーを踏みつけて雑草に変えてしまった。ハーデスは変わり果てたメンテーを哀れんで、その雑草に爽やかな香りを授けた。以来その草はミントと呼ばれ、ハーデスの神殿の庭で咲き続けた」
夢子はよく本を読むほうで、時々こうした博識を覗かせる。本人はペダンチズムを好まないのであまりあれこれ喋らないが、親しい間柄の人間、特に編集部内ではここぞという時にその碩学ぶりを発揮してくれるので、よき助言者として頼られている。
「そのメンテーってのも災難だな。勝手に二号さんにされた挙句、草っぱにされちまってさ」
とリストバンドにまでスプレーしながら言う清治に、夢子は遠くを見るような目で、
「そうかな……。たとえ姿を変えられてしまったとしても、好きな人の傍に居られて、雑草なりにせよ愛でてもらえたなら、草葉のこの身にも耐えられると思う」そう言って歩き出す。
その背中にゆーこの姿を重ねた陽は、後を追いながらぽつりと一言。
「オトメゴコロってのは健気なもんですな」
前を行く黒髪がふわりと斜めに流れ、黒曜石のように光を反射した。
「よー君に言われると、なんだかムカツク」
その声は怒っているというよりもどこか哀しそうなトーンだった。
陽は返す言葉が見つからずに空を仰ぐ。
はるか上空、数匹のカラスがソアリングをして遊んでいる。
その下方ではトンビが一匹、迷惑そうな様子でサークルを描いていた。
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