二人のアルバム

 夕食後。自室に戻ったようはアルバムを手に取りベッドに腰掛けた。

「ゆーこさぁん」

 控えめな声で呼んでみるが、反応はない。

「ほら、アルバム見ますよー」

 イマイチ出現条件がわからない。そのまま少し待ってみるが、出てこないのではしょうがない。「先に見てますからね」と一応の断りをいれ、ベッドに寝転がり表紙を開いた。


 写真の中のゆーこは、まだ中学生だった。

 陽も見慣れた地元中学の制服。当然髪はまだ染めておらず、丁寧に磨られた墨のような長髪は今の夢子とそっくり――当時の夢子ゆめこはその逆で、おかっぱ頭――だった。子供臭さが抜けない顔に浮かぶ奔放な笑み。むき出しの犬歯。


 ページをめくると、今度はそのフレームに陽自身の姿もあった。満開の桜の下、ゆーこと夢子と陽の三人は、おどけた顔で玉こんにゃくの串にかぶりつこうとしている。その場所には見覚えがあった。城跡にある公園で、県下有数の桜の名所だ。


 全く身に覚えの無い写真に写る過去の自分は、どこか別の世界の人間のようで、自分や夢子に瓜二つの他人なのだと言われたほうが、まだ納得がいく気がした。


 ぱらぱらとページをめくっていく。その他にも中学の頃に見覚えのあった上級生、夢子の両親、そして美鳥みどり清治せいじなどが一緒に写っていたりした。

 しかしゆーこの存在は、そんな馴染みの存在すら異なったものに見せてしまう。

 それは演劇か何かの一場面のようで、まるでモキュメンタリーの世界に投げ込まれたような。見続けるほどに、現実性が遠のいてゆく奇妙な感覚を陽に与えた。

 すべての写真が、幻を描画するカメラ・オブスクラの結像に思えてしまう。


 一冊目も残り四分の一ほどに差し掛かったあたりで、ゆーこの制服が陽の通う高校のものに変わった。入学したての頃らしく、まだ制服に着られている感がある。長かった髪がバッサリと短くなっていて、ともすれば中学の時よりも幼く見えた。


「ちょうど付き合い始めた頃だよね」

 イヤフォンでもしているみたいに、ほぼ右耳の中といっていいほど近くで声がした。

「おわ」と思わず声が出た。

 ゆーこがベッドの端に顎をのせ、大型犬のように穏やかな目をアルバムに向けていた。

「びっくりしたぁ」

 驚く陽をよそにゆーこは写真を指さし、

「そんでもって、初デートもこの頃だよね、確か」

 陽は『初デート』という言葉が出てきたことに何故かぎょっとしてしまい、少し慌てる。

「そ、そうなんだ……。えっと、デートって、それは僕とですか」

 あなたとじゃなきゃ誰とするのよ。とゆーこはふわふわ笑った。

「フンパツして電車で遠出したのはいいけど、いきなりデートだなんていったって何をどうすりゃいいのかわかんなくてさ、結局普通にアーケード街ぶらついて遊んで帰ってきて、別れ際に、なんだかいつもと変わらなかったね、みたいなことを私が言ったらさ」

 そこでゆーこは言葉を区切り、もったいぶった視線を陽に送る。

「言ったら?」

 陽が促すと、ゆーこは不敵に口元を吊り上げて「ほれほれもうちょっとそっちいって」陽をベッドの片側に押しやり、さも当たり前のような顔で開いたスペースに体を横たえた。大胆な接近に為す術もない陽は苦し紛れに「幽霊なんだからそこら辺に浮かんだりしないんですか」とからうが、「幽霊だからこそ、ちゃんと地に足つけていたいの」というゆーこの乾いた声に悪戯心のやり場を見失い、「幽霊もイロイロあるんですね」とぼんやりした感想を述べた。

「それで、話の続きは」

「あなたはだよ。あの日あの夜、駅から帰る途中で私に言ったこと」

「ウウム」陽は記憶をまさぐって、「なんて言ったんですか、僕」

 するとゆーこは組んだ腕を枕にして、まどろむように目を細めて、

「キスでもしてみようか、って言ったんだよ。いつもと同じだねー、そうだねー、みたいな会話を想像して油断してたとこに突然だもの、すごい焦っちゃって。夜だったからわかんなかったかもだけど、私が顔真っ赤にしてあわあわしてたら、陽ちゃんから手を握ってきてね、そんでもってちゅーですよ、初めてのちゅー。やあー、あの頃は若かったなあ。ムフン、フフン」

 ませガキめ、と写真の中の自分を見て陽は思う。SFで、自分のコピー人間に嫉妬を抱く、みたいな話があるが、その登場人物の気持ちが少しわかったような気がする。

「ああそうだ、初めてで思い出したけど初体け――」

「いやいやいやいやちょっと待ってくださいそういうのは後にとっておきましょうよ、ね」

 陽は慌ててゆーこの言葉を遮った。みなまで聞いてしまったら、なにかものすごい損をしてしまうような気がしたし、ちょっと落ち込みそうな予感もする。それになにより恥ずかしい。

 そんな初心い焦りを隠すように、ゆーこの意識をアルバムに引き戻そうとして、テキトーな質問が口をついて出た。

「そういえば、随分思い切って短くしたんですね、髪」

「あなたが綺麗だって言ったから、切った」

「え、それってどういう――」

「あ、ほらほらこれ、編集部に入った日の写真だよ。しかも入ったその日から副部長に任命されちゃってさ。多分、私の代って、編集部史上もっとも多忙だったんじゃないかな」

 明らかに話をそらそうとするゆーこ。だが陽は聞く耳を持たず、

「綺麗だって言われたんなら、なんで切る必要があったんですか」

 数瞬の沈黙。空気を叩く秒針の狭間に、ゆーこの目から感情が滑り落ちる。

「違う。私はそんな事言われてない」

 ゆーこは平坦な声で呟いた。

「あのう、意味がよくわからな――」

「あーもう! どうだっていいでしょそんなの! 気分よ気分。ロングも飽きたなあって思ったから短くしただけなの。陽には関係ない!」

 風船が割れたように怒りだしたゆーこは、枕に顔を埋め手足をばたばたさせて暴れる。

「ちょ、静かに静かに。部屋の外に聞こえるってば」

「うっさい!」

 うるさいのはお前だ、と思う。たとえ物理的な音が発せられず、その声も陽にしか聞こえないものだったとしても、何かの拍子で他人に気づかれないとも限らない。

 陽はゆーこをなだめるために、なんでもいいから話を続けて気を紛らわせようとした。しかし意識が外に向いていたせいもあり、脳内検閲官の手元をすり抜けた思考が勝手に喉を震わせて、だらしなく緩んだ口からそのままこぼれた。

「何あったか知らないけど、でもほら、そろそろ時効なんじゃないですか。だってもう――」

 言いかけて、喉が詰まる。

 だってもう、なんなのか。

 だって死んでしまったのだから、

 もう人ではないのだから、

 いつかは消える存在なのだから、

 だから今のうちに何もかもをゲロって、

 さっさと楽になってしまえ――とでも言うつもりなのか。

 『幽霊にもイロイロあるんですね』という言葉は、裏返せば『幽霊なんだから何もありはしないだろう』という蔑視がその根本にありはしなかったか。

 相手が死者とはいえ、その心中をいたずらに暴き立てるようなことは許されるのか。

「時効なんかないもん」ゆーこは頬をふくらませて、「墓まで持っていくって決めたんだから。……ってもう墓直前か。私いま骨壷ん中だもんね、へへ」ぷすんと空気を抜いて力なく笑った。

「ごめんなさい。ちょっとしつこかったですよね僕」

 ふすん、とゆーこは鼻から掃気して。

「んーん、べつに謝らなくていいよ。私もちょっとムキになっちゃったね。悪かった。……ほら、写真見ましょ。ゆーこ解説員が手取り足取り魂取って教えてあげるから」

「さすがに魂は取られたくないなあ」


 二人は気を取り直してアルバムに向かった。

 ゆーこは色とりどりの風切羽を並べるように、優しい手つきで陽に思い出を語り聞かせた。なんとしても記憶を呼び戻そうという心肺蘇生のような荒々しさは、そこには無かった。過ぎ去りし日々を慈しむ眼差しの焦点は、写真の画角を外れた遥か彼方に結ばれていた。ゆーこは猫の目のようにころころと表情を変え、時には面白おかしく、時には郷愁にひたりながら、自然とあふれる言葉に身をたゆたわせていた。

 そこに綴じられていたのは、ゆーこの人生の半券だった。

 一人の人間が歩んだ道の、その途中でちぎってきた旅の証はしかし、もうページを増やすことはない。


「――で、この文化祭事件以降、学外からのトラフィッキングは厳禁ってことになったの」

「なんかあまり懲りてない気がするんですけど……。下手すれば謹慎どころか部のお取り潰しや退学レベルの問題ですよそれ」

 ゆーこと話している時は不思議と気が楽だった。まるで十年来の親友のような気の置けなさがあり、時折訪れる沈黙すらも心地よかった。

「あれ、ここ……」

「ンフ。どしたの」

 二冊目のアルバムは高校時代のもので、そのロケーションの半分以上は学校であったり編集部の部室であったり、運動際や修学旅行などのイベントの様子であったりした。その間にちらほらと日常の情景が混じっていたのだが、その中の一つに、陽は違和感を覚えた。

「この写真、天鶴山あまづるやまですよね」

「そうだね」

 天鶴山というのは地元の中心、市役所からすこし南へ歩いたところにある標高二四〇メートルほどの小さな山だ。山頂は公園になっており、春は桜が美しい。展望台から市街地を見渡すこともできる。とはいえ、所詮は地方の小都市である。開闢以来二桁以上の階数を有する建物など在ったこともないような『おらが町』を見下ろしたところで、大して面白いものもない。

 そんな面白くもなんともない山頂の展望台に二人は居た。

 真冬だった。

 周囲は雪の白に塗りつぶされていて、その中にぽつんと二人だけ、宇宙まで透けるような青空を背負い、カメラにポーズをとっている。遠くの空に、ダイアモンド編隊を組む白鳥が見える。

「これはラッセルデートの時だね」

「らっせるでーと?」

 なにやら新しい概念が提示されたぞ。

「そう、ラッセルデート。冬でもアウトドアなデートがしたいなーって思ってさ、でも普通にスキーに行くのもツマラナイし、かといって本格的に雪山に登るのもキビシイじゃない。それで近場の天鶴山に行ってみようって事になったの。道があるっていっても、真冬は除雪されてなくて、だから腰まで埋まりながら二人でラッセルして展望台まで登ってさ。お父さんから借りたストーブでお湯沸かして、ラーメン食べたりコーヒー飲んだりして」

 桜の時期でも無い限り、天鶴山なんて地味なスポットは、元気なジジババのお散歩コースか盛りのついたカップルが夜中に来る程度のものだ。そこへあえて真冬に登るというのは、なかなか新鮮なアイデアのようにも思える。

「それって楽しかったんですか」

「楽しかったよ」

 ゆーこは頬杖をつき、

「最初はうわーやっちゃったなーって感じだったけど、なんか雪こぎしてるうちに変なテンションになってきちゃって。頭ん中からっぽにして、小学生みたいにシャベル振り回してはしゃいで、カマクラとか作っちゃったりしてさ。最後は二人ともイタチの革みたいにクタクタになって帰ってきて、もう次の日全身筋肉痛よ。陽ちゃんったら一日中、腰がぁ~腰がぁ~って言ってて、もう可笑しくってさあ」

「それは何よりで。――で、その冬の天鶴山なんですけど」

「この時のことなにか思い出した?」

 ゆーこが無防備に顔を近づけてくる。にわかに体温が上がるのを感じた陽は顔をそらし、

「い、いえ、何も思い出してはいないんですけど。でも多分これとは別の時に、雪のある天鶴山に登ったような……。おぼろげだけど、そんな感じがするんです」

 雪のある時期に天鶴山に登ろうなんて風変わりな人間は、それこそゆーこくらいのもので、普通の地元民にとってはそうそうないシチュエーションだ。そんな特徴的な出来事を思い出せないということはつまり、

「私と間接的に関わりのある思い出、って可能性もあると」

「そうなのかもしれない」陽は額に拳を当てて考える。「一人で行ったような気もするし、誰かと一緒だったような気もする。……でも確かに、まだ雪が残っている頃だった」

「フムウ」とゆーこは唸って、「じゃあ今度、天鶴山に登ってみようよ。雪どころかもう春も終わりだけど、何かとっかかりが見つかるかも」

「でも、その記憶が正しいかは疑問ですよ。――ほら、思い出せそうで思い出せない曖昧な記憶があったりする時に、周りの人間からああだったこうだったと断定的な口調で言われたりすると、なんだかことってあるじゃないですか。それと同じで、今のゆーこさんの説明と、他の記憶がごっちゃになってるのかも」

 人は実際に体験した出来事であっても、その細部まで忠実に覚えているということはあまり無い。犯罪現場を目撃した者の証言に誇張や創作が入り込むように、人はその意思と無関係に記憶を改竄してしまう。自分が納得できるよう、欠けたピースを想像で補完する。


 記憶とは、自分に読み聞かせるためのなのだ。


 故に意識的になればなるほど、記憶の物語化は顕著になる。無関係な記憶や思想が思考の中でノイズになり、純粋な記憶は地面に転がされた飴玉のように汚れていく。様々な場面で直感が重要とされるのは、単なる精神論などではないのだ。

「だとしても一度は行ってみるべきだよ。少なくとも私との思い出は、確かにあるんだから」

 陽は首肯する。

「そうですね。じゃあ、暇ができたら夢子と清治を誘って――ってなんですかその顔は」

 ゆーこは口をへの字に曲げ、眉間にしわを寄せじっとりとした目で陽を睨んでいた。

「べっつにぃ、なんでもありませんけどぉ」

 なんでもない割にはあからさまに不機嫌な声だった。そしていじけたように、

「ま、私なんて忘れられた女ですからね。事実この世には存在しない幽霊ですし。どうぞお友達と楽しくピクニックに行けばいいと思いますよ、エエ。むっこに弁当でも作ってもらって、思う存分イチャコラしてくればいいんじゃないですかねえ、私抜きで」

「別にゆーこさん抜きだとは一言も言ってないじゃないですか。ていうかゆーこさんは僕に取り憑いてるんでしょう? それならいつでも一緒ってことじゃないですかそれこそもう――」

 そこまで言って気づいた。

 いつでも一緒。

 それはつまり、四六時中の行いをゆーこに見られているということではないか。アホ面で鼻をほじり屁をこく姿はおろか、便所や風呂といった無防備な部分までも。

「もう、なによ」

 恐る恐る確認を取る。

「それこそ……もう、見られちゃってますか、僕。あんな姿や、こんな姿まで」

 ゆーこはたちまち狐のような顔になり、

「そりゃあもう、あんなナニからこんなナニまで、全身の穴という穴まで隈なくお見通しよ。ヨッ、左曲がり」

 あまりの恥ずかしさに全身から火を吹きそうだった。陽は両手で顔を覆い、言葉にならない呻きを漏らす。

「――なんてね。本当にいつでも一緒にいられるなら、死んだ甲斐もちょっとはあったんだろうけど。正直なところ、私もよくわからないんだよね」

 ぺっとりと湿った手を剥がし、陽は顔を上げた。

「よくわからない?」

 いつの間にか仰向けになっていたゆーこは、ピントを無限に合わせた目をして、

「なんかね、夢でも見てるみたい。……私、本当に死んじゃったのかなあ」

 そう言って目蓋を下ろした。みぞおちに組んだ手がゆっくり上下する。鼻から抜ける息づかいが変に生々しい。年頃の女の子が自分の隣にいるということを強烈に意識してしまった陽は反射的に顔を逸らして、言い訳めいた科白で沈黙を埋めようとした。

「制服着たまま寝るとシワになりますよ」

 口にしてから、馬鹿みたいだなと思った。

「じゃあ、陽ちゃんが脱がして」

 馬鹿の顔が赤くなった。馬鹿は咳払いし、平静を装って言った。

「触れないんだから無理でしょ。そんなことより、まだアルバムみてる途中じゃ――」


 その時、部屋の外から足音が聞こえた。


 階段の踏み板を軽やかに叩くその歩調は、美鳥のものだった。

 陽は息を呑む。このまま自分の部屋に入ってくれ、という念を送るも見事に通じず、目の前のドアがココンとノックされた。

「にいちゃーん。居るー?」

「エ、ア、ちょっと待て! 少し待て!」

 ゆーこさん! と小さく叫んで横を見るが、そこには真っ平な布団があるだけだった。

「もういーい?」

「あ……ああ、もういいです」陽は胸をなでおろして答えた。

 ドアノブが回転する。部屋に入ってきた美鳥はイタズラっぽい声で、

「なーにアヤシイことしてたのかなぁー」

 なにも怪しくねえよ。と答えた陽の枕元にあるそれに美鳥の視線が留まった。

「あ、なにそれなにそれ。ゆっこねえちゃんの写真じゃん」

 美鳥はベッドに腰掛けた。体重を受けた布団がくぼむ。

「えっ、なになに、どーしたの。にいちゃん、ゆっこねえちゃんのこと思い出したの」

 陽は首を横に振る。

「夢子から借りてきたんだよ。こうやって眺めてるうちに何か思い出せたらいいなと思って」

「フン」と美鳥は頷いて、「あたしも写真みたい。いいでしょ」

 返事も待たずに冊子の一つを手元に引っ張っていった。

「わー、なっつかしー。中学のゆっこねえちゃん可愛いー。やっぱ髪長いほうが美人って感じだよねー。ほあー、こうやって見るとむっこねえちゃんと似てるなあー」

「目鼻のあたりとか似てるよな」

「うんうん。でもやっぱさ、髪の毛だよね。つやっつやで芯が通ってて、すごいキレイ」

 ――あなたが綺麗だって言ったから、切った。

 ゆーこの言葉が脳裏に蘇る。同時に水底に沈めたはずの疑問が再浮上した。それは不明瞭な多数の泡になって、ぶくぶくと口からあふれてしまう。

「なんで切ったりしたんだろうなあ」

 言い切ってから、しまったと思った。

「さあねー。ゆっこねえちゃんのことだから、理由なんか無いんじゃない。ゆっこねえちゃんてすごい飽きっぽいじゃん? だから――」

 美鳥はトーンを抑えて、続けた。

「――だからさ、にいちゃんと五年も続いたってのは、すっごい本気だったってことなんだよ。にいちゃんに何も言っていないなら、本当に理由なんて無いんだろうし、理由があったとしても言わなかったのなら、それは絶対に言うつもりがないってこと。……そういう人だったんだよ、ゆっこねえちゃんは」

 どこか達観したその眼差しは、中学生とは思えないほど大人びていた。

 美鳥もまた親しい人を亡くしたのだということに、改めて気付かされた。『ゆっこねえちゃん』という呼び名には、夢子に対するそれと同じような敬愛のこもった響きがあった。

「美鳥は、ゆーこさんのことが好きだったんだな」

「あたりまえでしょ」美鳥はページをめくる手を止めずに、「将来は本当にあたしのねえちゃんになるんだーって思ってたのに。……なんでこうなっちゃったかなあ」深くため息。

 言葉のわりにはドライな表情だった。なんだか美鳥らしくないな、と陽は思う。

 そしてふと、二人が小学生の頃、近所に住み着いていた野良猫のことを思い出した。

 野良のくせに人懐っこい猫で、学校の帰りによく顔をあわせては、頭をなでたり耳を裏をかいてやったりした。親に内緒でこっそりエサをやったこともある。名前なんて無かったし、名付けようとも思わなかった。陽が小六の時、その野良猫は死んだ。車に轢かれたのだろう。胴体はまさに皮一枚を残して半分にねじ切れ、半開きの口からこぼれた舌がアスファルトを舐めていた。それを見た美鳥は凍りつき、ひとたまりもなく泣きだした。陽だって泣きたかったが、妹の手前泣くわけにもいかない。むせぶ美鳥を背負って一度家に帰り、シャベルを持って現場に戻った。亡骸を掬い上げる際、ついに皮が千切れて半身がぼとりと落ちてしまい、陽は腰を抜かしそうになったが、それでもなんとか遺体を回収し、二人で近くの雑木林に埋めた。墓標の代わりに、家の庭から手折ってきた名前も知らない花を突き刺した。美鳥はそれから一ヶ月近くものあいだ、学校帰りに現場の近くに差し掛かると、野良のことを思い出してはめそめそと泣きだし、陽の背中に鼻水を垂らしながら帰宅したものだった。

 あの頃に比べたら、今の美鳥は冷徹といっていいほどまでに落ち着いて見えた。

「なんだかあまり悲しそうに見えないな」

 厚顔を承知で陽は言った。

 美鳥は憮然とした表情で、

「にいちゃんには言われたくないっつの。にいちゃんが暢気に寝てるあいだ、ずっーと泣いてたから、もうなんにも出なくなっちゃったの。涙ってね、本当に涸れるんだよ?」

「そっか……。辛かったんだな」

「あたしなんかよりも、むっこねえちゃんのほうがずっとずっと辛いはずだよ。だから、むっこねえちゃんのこともちゃんと見ててあげなよ、にいちゃん」

「ああ」陽は頷いた。 

 いつまでも手のかかる妹だと思っていた。しかし自分が病室のベッドに横たわり尿バッグに小便を垂れ流している間にも、美鳥は一つの儀礼を乗り越えていたのだ。

 もう、昔のようにおぶってやることもないのだろうと思う。

 そんな寂しさを覚えると同時に、やはり不甲斐ない自分への憤りも感じずにはいられなかった。

 部屋でゆっくり見たいと言うので、陽はアルバム――と当初の目的だった古語辞典――を美鳥に貸した。

 美鳥が部屋に戻ったのを確認してから、声を潜めてゆーこを呼ばわってみたが、ゆーこは姿を現さなかった。

 ベッドに寝転がり何かを考えようとしてみても、頭の中はゴミだらけで所在無く、耐えかねた陽は机に向いラップトップを立ち上げ、編集部の仕事を片付けることにした。

 その夜はもう、ゆーこが出てくることはなかった。

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