取り戻す決意

 そんなに悪い気分じゃなかったことに驚いた。

 まるで眠った気がしない頭に響く母の大声にテキトーな返事をしながら、登校のための身支度をしている時、ふと昨晩の出来事を思い出した。

 夢か現かも判然としない――いや、普通に考えれば荒唐無稽な夢以外のなにものでもないはずだが、それでもまだ蝸牛の奥にはゆーこの声がこびりついていて、喉の底では言葉未満の欠片たちが、外に出たいと貧乏揺すりをしていた。

 冷水で寝汗を洗い落とし顔を上げれば、またゆーこに会いたいと思う自分が鏡の中に居た。

 ようはそんな自分に驚き、そして自嘲を覚えた。

 確かにゆーこは陽がイメージするような幽霊らしい幽霊ではなかった。そのうえ話も合うし、なにより笑顔がキュートだった。あんな幽霊ならいつだって歓迎だ、なんて思ってしまうしょうもない自分はいい意味で馬鹿らしかったし、悪い意味で愚かだと思う。


 案の定、その日はほとんどの授業をつむじで聴くことになった。

 教科書の背を後頭部に落とされること通算四回(新記録)。清掃の時間になってようやく頭の中のゴミが片付き、いつものワーキングメモリが確保される。

 清治せいじとだらだら駄弁りながら、廊下の水場周辺の床をモップでテキトーに撫で付けていたところ、ゴミ箱を持った夢子ゆめこが通りかかった。

 ふと、あることを思い出した陽は、その場で夢子を引き止める。

「ア、夢子、ちょっと待って」

 夢子はゆるく束ねた黒髪をふわりと揺らして振り返り、陽の元にやってきた。

「なあに、よー君」いつもと変わらない、落ち着いた様子で首を傾げる。

「あー、えっと、その、あれだ……」

 これから口にすることに、なんとなく後ろめたさを感じてしまい、言葉が濁る。

「なによ」夢子は怪訝な顔で、「アホヅラこいてないで、用があるならちゃっちゃと済ませてよ。私んとこの掃除まだ終わってないんだから。っていうか東根ひがしね、あなた担当ここじゃないでしょ。サボってると黒坂くろさか先生にシバかれるよ。あの人なんか竹刀で遊んでたよさっき」

 今週は休みだっつーの。と清治は応える。普段は淑やかな――というよりも寡黙すぎる印象の強い夢子であるが、こと陽や清治が相手となると、なかなか遠慮のない物言いをする。

「学校終わってから、時間ある?」

 夢子は目を伏せて数瞬考え、

「溜まってる仕事も無いし、暇といえば暇だけど、遊んで帰るとかそんな気分じゃないかも」

「いや、そういうんじゃなくて」

 腹を決めて、言う。

「仏様を拝んでおこうと思って……。今日家に行って良い?」

 その発言に清治はぎょっとして、

「もしかして、なにか思い出したのか」

 陽は申し訳なさそうに首を振る。

「いや、まだなにも思い出せない。でも、だからといって未だに掌も合わせていないってのは、流石に礼を失しすぎると思って」

 そう言った陽の視線が夢子とかち合う。だが夢子はすぐに目を逸らし、やや間をおいてから、陰りのある声で応えた。

「……うん、そうだね、わかった。いいよ。お姉ちゃんも多分、待ってると思うから」

 じゃあ、また後で。と声の調子を持ちなおした夢子は、水色のゴミ箱を抱えて黒猫のように廊下を駆けていった。

 その後姿を目で追って、清治が呟いた。

「なあ、俺も一緒に行っていいか」

「僕は別に構わないけど、清治部活は?」

「サボる。ってかもう引退だしな。ロッカー片付けて、一年の小僧どもをイジって遊んで、それくらいしかやることねえよ。そんなことより、お前だって部活あるんじゃねーの。編集部って卒業まで現役なんだろ、部長さんよ」

「まあね。でも仕事は家でだってやれるし、部室の方は副部長が居りゃどうとでもなるだろ。部長だなんだっていってもさ、実際は雛飾りみたいなもんだよ」

 編集部は伝統的に二年生から副部長が選ばれ、部の全ての活動について部長と同等の権限を与えられることになる。いっぽう部長はといえば『二年の時に副部長に選ばれなかった者』という消極的な理由によって選出されるのが通例であり、事務作業と揉め事が起こった際の弾避けが主な仕事だ。雛飾りとは言い得て妙で、ようするに部に厄が降りかかった時に責任を負わせてクビを切るための形代なのだ。そういう背景もあって、実質的に編集部を回しているのは副部長と、それを補佐する元副部長である。ちなみに去年は夢子が副部長を務めた。

「お前みたいにテキトーなやつが部長だと、寒河江さがえちゃんもさぞ大変だろうなあ」

 しみじみと、清治が言った。陽はモップをバケツに突っ込でかき回しながら、

「テキトーじゃねえよ、寛容っていうんだよ。寒河江だって結構楽しそうに好き勝手やってるみたいだし。……まあ、確かに今は少し迷惑を掛けてるけども」

 そう言って陽はバケツを持ち、埃とチョークの腐った臭いがする汚水を流しに捨てた。


 ホームルームが終わり、いつか何処かで見たような放課後が、また今日も再生される。

 陽が二人を迎えに――夢子と清治は同じクラスだ――行くと、ちょうど教室の戸口から夢子が姿を現した。そのすぐ後に清治が続く。

 携帯を操作していた夢子は、ふと顔を上げて陽に気づき、

「ア、よー君。今副部長にメールしておいたよ。今日は部活に出ないって」

 陽はマヌケに口を開き、

「うわ、そういや連絡してなかった。いやいや、助かりましたよ夢子さん」

「やっぱりね。まったく、ただでさえコレだもの」

 手のかかる子供の相手でもするみたいに言って、夢子は歩き出した。その両脇に、陽と清治が槍持ちのように従う。

 三人は地元が同じで、とりわけ陽と夢子は保育所からの友人――いわゆる幼馴染というやつだった。家も比較的近くにあり、初めて一人で遊びに行ったのも夢子の家だと陽は記憶している。小学校に上がってからもその関係は続いた。往々にして男子というのは小学校に入るあたりから「女と遊ぶなんて」というしょうもない自意識を持ち始めるものだが、陽の場合は「面倒を見てやらねばならない妹」としての美鳥みどりが居たために、夢子に対してもそのような男女間の不和を抱えることもなく、夢子のことを『むっこねえちゃん』と呼んで懐く美鳥と一緒に、三人でよく遊んでいた。そして陽たちが中学に進学すると、距離が開いた美鳥の代わりに東根ひがしね清治せいじが仲間に入り、以来高校三年の今に至るまでその関係は続いている。

 学校ではつるむことも多い三人だが、部活が違う――清治はサッカー部所属――ということもあって、こうやって肩を並べて下校するのは、実は久しぶりなのであった。

 だから、というわけではないだろうが、間に交わされる会話の雰囲気が、妙にぎこちない。

 いつもはしょうもない駄話を垂れ流すのに熱心な清治の口が、今日はやけに大人しい。元々口数は少ないが、言葉を投げればそれなりに打ち返してくれる夢子も、全てが上の空といった感じでやる気なさげに見送り三振を続けている。

 言い知れぬ気まずさが漂うこの空気は、多分に自分のせいなのだと、無言の裏で陽は思う。

 それぞれの胃の腑に煮え切らない何かをかかえたまま、三人は歩を進めた。

 電車に乗り、六つ先の地元駅に到着し、そこからまた自転車を押してしばらく歩く。

 とうとう河姆渡かぼと家に到着した。

 その門構えに、陽は内心で安堵のため息つく。どうやらこの家まで忘れていなかったようだ。

 門から続く踏み石の形も、庭木の影に転がる苔むした鉢も、日差しに暖められた風除室も、玄関の戸の隅っこにある傷も、陽の記憶の中にある『夢子の家』と同じだった。

 だから、玄関の敷居を跨いだ次の瞬間、不意打ちを食らった。


 焼香の匂いがした。


 それは陽が知っている河姆渡家からもっとも遠い匂いだった。

 盆の墓参りで親戚の家に行った時くらいしか嗅ぐことのない、線香独特の枯れた匂いが、玄関に充満していた。それはこの家に不幸があったということを何よりも如実に物語っていた。

 上がり框に腰掛け靴を脱いでいる夢子と、死者に捧げられた香の匂いは、どうやったって結びつくとは思えず、その現実感の無さが逆説的に、記憶喪失という事実を陽に実感させた。

 靴を揃え終わった夢子は、呆けたまま立ち尽くす陽を見上げて、

「どうしたの」

 咄嗟に、自分の戸惑いを知られたくないというなんともみみっちい方向に考えが働き、口が勝手に誤魔化しの言葉を並べる。

「や、なんでもないけど。ほら、夢子ん家来るの久しぶりだなと思って。一年ぶりくらい?」

「三週間ぶりだよ」

 夢子はか細い声を吐いて立ち上がり、居間の方に歩いて行った。

 胸の内に食い込んだ虚が、じわりと縁を広げる。陽は苦い顔をして、半ば助けを求めるような視線を清治に向けた。清治はそれを慰めるように、無言で友の肩を叩いた。

 居間に入ると香の輪郭が一層はっきりと感じられた。

 細々としたものが片付けられており、やけにすっきりしている。

 神棚の扉が閉じられ白い紙で隠されていた。

 客間の襖が中途半端に開いていて、向こう側に飾り物が無いまっさらな床の間が見えた。

 夢子は襖を開けて、客間に入った。陽と清治もその後に続いた。

 ゆーこが居た。

 昨晩よりも心持ち大人びた雰囲気で、穏やかな笑みを口元に浮かべ、床脇に置かれた額縁の中からこちらを見ていた。

 その隣には骨箱が置かれていた。葬儀屋からレンタルしたような台や、同じく借り物のような使い古した感のある仏具。それらの両脇を飾る仏花の花瓶。印象的なアヤメの紫。

 夢子に促された陽は、大仰な飾りのついた座布団の上にぎこちなく膝を畳んだ。

 全てが作り物のようだった。

 こんな道具まで借り出して、皆が自分を担いでいるのではないかと思う。

 陽は盆の親戚回りを思い出し、ロウソクに火を灯した。台の上に乗っているマグカップ――ゆーこが使っていたものだろうか――の水を捨て、水差しから新たに注ぐ。線香を手に取り、

「この家は立てるほう?」

「寝かせる。二つに折って」

 言われたとおりに線香を折り、オレンジ色の火で炙ってから香炉に寝かせる。そろそろと鐘を叩き、くすんだサステインが消えるまで、漠然と掌を合わせゆーこの遺影を眺めた。改めて観察すれば、なるほどゆーこの顔には夢子の面影があった。目鼻の位置などよく似ている。

 陽の後に続いて、清治も線香を上げた。

 それが済むと、三人は居間に腰を落ち着けた。誰も口を開こうとせず、目を合わせようともしない。まるで初めて出会った者同士のような、よそよそしい沈黙が続いた。

 時計の針を動かしたのは夢子だった。

「お茶煎れてくる」と立ち上がり、「東根はどうする? サイダーとかあるけど」

 俺も茶でいいや。と答えた東根に頷いて、夢子は居間を出て台所に向かった。

「陽ってさ、結構図太いよな。『拝んでおこう』だなんて、よく言えるよ」

 夢子の足音が聞こえなくなるのを待って、清治が口を開いた。

「そんなこと言われても。正直な話、未だに実感がないんだよ。それに、心にもないことで深刻ぶるのはやっぱり不誠実だと思うし」

「でも、河姆渡にしたら実の姉が生きていたということを否定されるようなもんだろ。しかもお前にだ。お前の実感なんかどうでもいいんだよ。河姆渡の気持ちを考えてみろ」

 何も思い出せないならいっそ口を塞いでいろ。喪った記憶の重みを人になすりつけるな。そういった非難が言外に込められた、稜のある声。

「考えてるよ。――いや、考えてないか。結局、僕は僕のことしか考えられないんだと思う。だから今日こうして拝みに来たのも、踏ん切りをつけるためなんだよ」

「踏ん切りってなんだよ」

「これから話す」

 少しして、夢子が盆に茶を乗せて戻ってきた。弓手にはスナックの袋もある。

 夢子が座り、全員に湯呑が渡り菓子の袋が開けられるのを待って、陽は本題を切り出した。

「夢子と清治に訊きたいことがあるんだけど」

 なに。と二人は声を合わせた。

「僕が入院していた時のことなんだけど。そのあいだにゆーこさんの写真とか、僕に見せたことある?」

 二人は明らかな戸惑いを浮かべ、言葉にならない息を吐き出し、互いに目配せした。

「見せたよ。何度も見せた。でもよー君、なにも思い出せないって」

「まさかお前、そのことまで覚えてないのか」

 陽は頷き、「やっぱりそうだったのか」と自分に向かって呟く。

 『ゆーこ』が『悠子ゆうこ』の幽霊ならば、なぜ最初に遭遇した時そうだと気付かなかったのか。目が覚めてから『悠子』の写真や動画を一切見なかったということは、考えにくい。普通なら関係のあるものをあれこれ見せたりするはずだし、実際そうしていた。

 つまり陽は意識を取り戻した後も『のだ。

 しかし、

「昨日、僕の部屋でこれを見つけたんだ。机の中に入ってた」

 陽はデイパックから封筒を取り出し、夢子に渡した。中には数枚の写真が入っていた。夢子は力のない指で、それをめくる。写真の中では悠子と陽が睦まじく肩を寄せていた。

「その写真を見つけた事は、現にこうして覚えている。それから今も遺影を見て、ゆーこさんだとちゃんとわかった。……これってつまり、前向性の記憶喪失からは回復しつつあるってことなんじゃないかな」

 夢子がはっとして写真から顔を上げた。

「お姉ちゃんのこと、思い出しそうなの」

「いや、それはまだ解らない。もしかしたこれもたまたま覚えてるだけで、明日になったらまた忘れてるのかもしれない。だけど、このままずっと忘れっぱなしっていうのは、僕は嫌だ」

 まったくの本心から出た言葉だった。

 自分が何を失っていたのかすら空漠としていた。それはまるで自分の頭皮の匂いのように、想像しにくいものだった。だが今になってようやく、自分が異臭を纏っていることに気づいたのだ。今まではどこか冗談のように響いていた記憶喪失という言葉が、剃刀のような冷たさで肌の上を滑っていく。

 それは、とても恐ろしかった。

 見知った世界との舫いがささくれだち、今にも千切れてしまいそうな予感がした。それが解け、沖に流されてしまった船は、もう元の岸には戻れない。真っ黒な波が押し寄せ、全てが変わってしまった世界の中でただ一人、あるべき自分の姿も声もわからぬまま、書割の世界に漂泊し続けることになるだろう。

 だから、

「夢子、清治。二人に頼みたい」

 畳の上に拳を立て、頭を垂れる。

「記憶を取りもどす手助けをしてほしい。全てを思い出せる保証も見込みも――その方法すら解らないけれど。でも、一つだけでいいんだ。何か一つだけでも、確かなものを思い出したい。思い出さなきゃならない。そう思うんだ。だから、頼む。――僕を助けてくれ」

 窒息するような沈黙に、線香の匂いだけが漂っている。

「やっぱりお前、図太いっつーか、卑怯なとこあるよな」

 そう言って清治は菓子の袋に手を伸ばし、スナックが割れるのも気にせず鷲掴みにし、手前に引いたティシューの上に取り分けた。

「ちょっと東根、そんな言い方――」

 清治は手のひらで夢子の言葉を押しとどめ、

「お前さあ、俺も河姆渡も嫌だって言わないのわかってるだろ。誠実だとか不誠実だとか言うけど、いくら頭を下げたところで俺たちとお前の間じゃただのパフォーマンスにしかならねーんだよ。確かに、親しき中にも礼儀がうんちゃらっていうけどよ、相手の反応がわかっててそういうことするのって結局、『誠実な自分』をアピールしてことを上手く運ぼうとか、さもなきゃそういう自分に酔っ払ってるだけなんだと思うんだよな」

 清治の辛辣な言葉に、戸惑い通り越して怯えるような表情をする夢子。

 陽はまだ頭を下げたままだ。

「俺が見たいのは――知りたいのは。そんなセイジツなんかじゃねーんだ」そう言って陽の肩を抱く。「ちゃんと顔上げて、こっちを見て話してくれれば、それでもういいんだよ」

 陽はゆっくり頭をもたげた。目と鼻の先に、何時もと変わらない垢抜けた笑顔がある。

「友達なんだから、素直に甘えりゃいいんだっつの。ほれ、あーん」

 あーん。と給餌を受ける雛のように口を開ける陽。放り込まれたスナックを、もさもさ咀嚼する。夢子は喉に詰まった息をようやく吐き出した。

「清治……」

「おう、なんだ」

「お前、結構キツイこと言うのな。なにげにショックだったんだけど」

「おう、自分でもちょっとびっくりした」

 ヘッヘッヘ、とゆるい笑いが交わされる。

 少しだけ肩の緊張が解れた。確かに驚きはしたが、それでも心に広がる波紋は心地い波形を保って、身体の奥でじんわりと反響している。なんといっても二人は親友なのだ。ちょっとやそっとのことで違える仲ではないという、無根拠ではあるが確信的な信頼が共有されているからこそ、あの物言いができるのだ。

「でも、どうするの」夢子が口を開いた。「記憶を取り戻す方法って、そんなのあるの?」

 清治は顎に手をそえて、

「ウウム……。不思議な薬キメるとか?」

「キメません。ってか記憶を取り戻す前に人生を失っちゃうだろ」

「催眠術とかどうかしら」

「なんか胡散臭いし、素人には無理っぽくないか」

「そうかな。私、よー君にかけてみたいかも、催眠術」

 なんだか不穏な目付きである。

「ぶん殴ったら直るんじゃね」

「僕は昭和のテレビかなにかか」茶を啜りながらツッコミを入れる。

「じゃあ電気ショックは?」さらっと怖いことを言う夢子。

「ちょっとまてよなんで夢子までフィジカルをいじめる方向にいくの」

「じゃあじゃあ、その頭のあなぼこに指でも突っ込んでヒーヒー言わすってのはどうだ。押せば記憶の泉が湧くぜえ?」親指を立てて迫る清治。

「湧かねーよ! ヒーヒーってなんだよ早速目的がオカシイだろ。つーか背中がぞわぞわするからそういうこと言うなよな!」陽は座布団で頭を隠して後ずさる。

 実にくだらないやりとりだった。だが随分と気分が和んだのも事実だ。二人がいればなんとかなるだろう。そんな漠然とした楽観を与えてくれる友の存在が、今の陽には頼もしかった。

 話し合いは長く続かなかった。平々凡々な高校生が思いつく程度のことで記憶が戻るなら、記憶喪失なんて言葉は世の中に存在するはずがないのだ。結局は運と時間に任せる他に方法などないという、わかりきったことを再認識するため話し合いだった。

 手始めに、と夢子が持ちだしてきたのは、二冊のアルバムだった。

「これ、お姉ちゃんの部屋にあったの」

 陽はそのアルバムを受け取り、河姆渡家を後にした。


 清治と別れ、陽は一人家路につく。まだ十分に明るかったが、日の隠れた柔らかい空の背後には、散文に付箋を施すような愚かさにも似た、黄昏に向かう静かな熱狂があった。

 朱に振れつつあるスペクトルの下でふと、濃密な人の気配が首筋を撫ぜた。

「やっほ」

 気づけばゆーこが隣を歩いていた。

「ちわっす」とりあえず挨拶。

 不思議と驚きや慄きは無かった。それどころか、その声に少なからぬ安堵すら覚えた。

 陽は何事もなかったように歩き続けた。チリチリと、後輪のラチェットが回っている。

「陽ちゃん久しぶりに男らしかったね。頭なんか下げちゃって」

 陽の顔を覗きこむようにして、ゆーこが言った。

「言い訳がましいとは思うけど、あれはゆーこさんに言われたからってわけじゃなく、僕がそうしたいと思ったからそうしただけのことで。……でもまあ清治の言う通り、パフォーマンスでしかなかったのかもしれない」

「私はそんなことないと思うよ」ゆーこは莞爾と笑みを向けて、「だって陽ちゃん、演技とか下手だもん。ほら、小五ん時の文化祭の演劇。本番ですごかったじゃない。まるで痛風のペンギンの悪霊にとりつかれた操り人形みたいって、もうみんな大爆笑」

 陽の脳裏に過去の屈辱が蘇る。

「うげえ、なんでそんな事まで知ってるんですか」

「笑われすぎてむくれちゃって家を飛び出したあなたを探して、慰めてあげたじゃない」

「ごめんなさい。覚えてないです」

 そっか。とゆーこは頷いた。少し残念そうな横顔。

 昨晩、ゆーこは陽に未練と恨みがあるために自分は化けて出たと言った。具体的には、

 一つ、陽の記憶を取り戻すこと。

 一つ、夢子の心の傷を癒すこと。

 それら二つの心残りがあるために、ゆーこは陽に取り憑いたのだと言う。

 成仏させたくば、それらの痛惜を晴らす以外に方法は無い、とも。

 それが直接の理由ではないにしろ、ゆーこの言葉が引き金になり、自らの記憶を取り戻そうという決意につながったのは事実だ。

 夢子のことも気がかりなのは確かだが、テメエの問題の落とし前も付けられない奴が、一丁前に他人の心配をするなど、それこそおこがましいと陽は考える。

「後でそれ、一緒に見ようね」

 声を弾ませるゆーこに、陽は頷いた。

 町内放送の有線がボソッと咳をして、スピーカーが枯れた喉で『遠き山に日は落ちて』を歌い、誰も反応してくれないことに腹を立てたように、バツンとぶっきらぼうに回線を切った。


 残響は薄い空に吸い込まれ、その下には一人自転車を押す陽だけが残された。

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