文芸・編集部
まるで絶滅したと思われていた珍鳥が再発見されたようだった。
無事に退院し復学を果たした
陽の姿を認めたクラスメイト達は一斉に息を飲み、教室のざわめきが立ち消えた。
誰かが「おかえり」と言った。
その声が嚆矢となって、教室のあちこちから声が飛んでくる。陽は宇宙から帰還した英雄のように手を上げて応え、自分の席に凱旋した。
早速友人たちに机の周りを囲まれ、いつもは開けば馬鹿話しか出てこないその口々から、気持ち悪いほどの思いやりと心配と安堵の言葉が浴びせられる。
身体はもう大丈夫か。二週間も昏睡ってマジか。後遺症とかないの。うそ頭に穴とか大丈夫なのか。休んでたほうがいいんでねえの。マジ生々し過ぎんだろうわぷにってしてるキモイうわキモイ。いやでも生きててほんとよかったわ。不幸中の幸いってやつ。俺が見舞いに行ったの覚えてる?覚えてないかやっぱ。ニュース見たけど車ぐしゃぐしゃだったよな。あれで生きてるって半端ねえ。ムチウチとかなってないの。死神もドン引きのタフネスだな。実は超能力とか使えるようになってんじゃね。頭の穴からこう電波みたいなのビビビって出しそう。富士山登ったらポテチの袋みたいに膨らんだり。んであの世と通信できたりしてあイタイ――
近くの席の女子生徒が、目の前にあったケツをグーで殴った。
「ちょっと無神経すぎない」
殴られた男子生徒は一瞬相手を睨みはしたが、悪戯を叱られた子供のようにバツの悪い顔で、
「ア……。わりぃ、ちょっと調子こいてた」
そしてまた雑談が再開される。
とにかく無事で何よりだ。そうだそうだ。よかったよかった。生きててよかった。
本当に、生きててよかった。
そんな友人らの口ぶりには、いたたまれない空気を取り繕おうとするようなぎこちなさと、腫れ物に触れまいとする距離感があった。
陽の感覚としては一週間ほど休んでいただけなのだが、時間はしっかりと進んでいた。カレンダーは一枚めくれ、衣替えの季節が訪れていた。今日は比較的温かいこともあり、女子はほとんどが合服で、男子も上着を着ている者は少ない。
そこには日常しか無かった。
朝のニュースで流れた事故も、人事不省の二週間も、頭に開いた穴も、粛々と繰り返される生活の残響に繰り込まれ、容赦無く咀嚼され、新たな日常としてひり出される。
そうやって一日を過ごし、放課後を迎える頃には、陽はすっかり日常を取り戻していた。
ホームルームが終わり、デイパックに道具をしまっている陽の肩を、友人の一人が叩いた。
「フルちんさあ、ラーメン食いに行かねえ。退院祝いに奢るぜ」
「ああ、申し訳ないけど、今日はやめとくわ。部活に顔出しとかないとだし」
部活なら仕方ねえな。と友人は納得する。
「んじゃ、そういうことで。オゴるっつったの覚えとけよ」
陽は友人の胸を拳で軽く叩き、教室を後にした。
さて、陽は文芸部に所属している。
しかも部長などやっていたりする。
高校における文芸部なんてものは、往々にして文芸誌よりも漫画雑誌片手にひたすら駄弁ってるような文も芸もへったくれもない実態であり、日陰者やボンクラ共の憩いの場になっていたりするものだが、しかしこの学校における文芸部の立ち位置は、それらと少し違っていた。
どのように違うのかは、部室棟に足を運べば判る。
部室棟の一階は運動部の備品置き場として使われており、文化系部の部室は二階に押し込まれている。だが文芸部だけは一階の――それも通路側の一番広い部屋に居を構えていた。
なぜ文芸部ごときが数ある運動部を押しのけ部室棟の一等地を獲得しているのかといえば、その答えは至極単純。
みんなお世話になってるから。
そんじょそこらの文芸部とは、モノが違うのだ。そもそも部室の表札からして文芸部ではなく『文芸・編集部』となっているし、学内では専ら『編集部』の名で通っている。文芸部とは登記上の表現に過ぎない。その実態は学内の書類・張り紙・冊子類の作成、掲示などを一手に引き受け、さらには忙事の助太刀から揉め事の調停までこなす多機能集団であった。具体的には、各部活動の勧誘広告や催し物の告知ポスター、文化祭や運動祭のパンフレットなどを主に制作しており、それらの仕事をこなす合間にも月に二回部誌を発行している。
故にその活動は猫の手も借りたいほど繁多であり、学内イベントの前後は泊まりこみになることもしばしばであった。
活動的といえば聞こえはいいが、率直に言えば学内一のブラック部活動だ。一番良い部屋をあてがわれている理由にしても、結局は「そこにあると便利だから」という身も蓋もないものだったりするのだが、それでもその利便性と働きっぷりにより、他の部は言わずもがな教師陣からも一目置かれているというのも、また事実である。
そして毎年のように、そんな事情も知らぬ幼気な新入生が心の安息地を求め『文芸部』に入部を申し込み、運動部以上に体育会系な『編集部』の激戦地に早々と心を折られ、垂頭喪気して科学部や手芸部に落ち延びるという流れが繰り返されるのだった。
「おつかれさゃあッス!」「ウッス!」「おつぁしゃーッス!」
「うぃーっす」
道具を抱えた運動部の下級生とすれ違いざまに挨拶を交わしながら、部室棟に入る。
編集部のドアに手をかけようとし、少し思いとどまった。
自分が留守にしていた三週間で、どのくらいの一年が脱落したのだろうかと考える。去年は六人が踏みとどまってくれたが、陽の時は自身を含め二人だけだった。今年は新入部員が少なかったし、全員脱落ということも十分あり得る。
なんだか開けるのが怖くなる。乾燥してめくれた唇の皮を噛む。ポケットからリップクリームを取り出して塗る。
深く呼吸し、いつも以上に重いノブを捻る。
新入生は、一人も居なかった。
それどころか、せわしなくPCのキーボードを叩く指も、紙の詰まったコピー機に蹴りを入れる音も、他の部のマネージャーと打ち合わせる姿も、土壇場の仕様変更・追加要求に怒り心頭の顔も、携帯片手に表には出せない依頼を受ける声も、何一つ無かった。
もぬけの殻である。
耳鳴りがするほどの静けさに唖然としてつっ立っている陽の背後で、蝶番がギジジジジと鳴いた。頭を向けるが、やはりそこには誰もいない。
編集部の扉は立て付けが悪い。閉め方が甘いと時々こうやって勝手に開く。
陽は扉を閉め、金具がカチリと鳴るまでしっかりノブを引っ張って、
鳥のオバケがいた。
「おわあっ!」
思わず叫び声をあげた。
振り返った先には鳥の被り物を被った女子生徒が一人、忽然と姿を現していた。
「びっくりしたあ」飲み込んだ息をどっと吐き出し、「ったく、ドッキリとかやめてくれよ……。僕がそういうの弱いって解ってるでしょ」
というよりも、解っているからこそやっているのだろう。鳥のオバケはしめたとばかりに腕を広げ、コの字型に並んだ机の周りを羽ばたくように、ふわふわと小躍りして周回する。おおかた
陽の元へ戻ってきた女子生徒は、スカートをつまみちょこんと膝を曲げお辞儀する。しかし無駄に精巧な――白鳥だ――被り物のせいで可愛らしさの欠片もない。黒い冬服。スカーフ留めは使わずにリボン結びにしている。その色からするに二年であり、編集部で二年の女子といえば二人しか居ないのだが、
「それで」陽は話しかける。「ドッキリはこれでオシマイ?」
鳥頭は肯定するようにくるりと一回転。
「ええと、君は編集部の人?」
当ててみろ、というように一歩踏み出る。
「まさか、加茂……じゃないよな」
答えはない。また一歩、陽に近づく。
陽は不意に、異様な場の感覚に怖気付いた。頭の裏でホラーな妄想が展開する。真空に引かれたような無音の部室はまさに異界のようで、正体不明の女子生徒が物怪に見えてくる。羽毛や嘴の質感までリアルな被り物は、手を伸ばせば本当に身体と癒着しているのかもしれない。
「被り物、取っていい」
無機質なアクリルの眼が、沈黙のままに陽を見つめている。
陽はそれを肯定とみなした。唾を飲み、おっかなびっくり手を伸ばす。
ゆっくりと、
鳥のオバケの正体が暴かれる。
「……ドチラサマデスカ?」
見知らぬ少女だった。
鼻筋の通った端整な骨格。人の膝に乗っかった猫みたいに静かな微笑みを浮かべている。年下というには妙に大人びた雰囲気は、枯れたガットギターの音色のような、不思議な心地よさすら感じさせた。軽く茶に染めた髪に、羽を象ったヘアピンをつけている。
少女は呼吸すら忘れたように、じっと陽を見つめている。
その表情には人を騙してやったぜというような、浮かれた色は全くない。堂々と相手の瞳を覗き込む眦はしかし柔らかく、午後に訪れる怠惰のような優しい陰りがあった。
陽は目を逸らせなかった。瞬きをすることも、口を開くことも、何故かはわからないがそうしてはいけないような気がしていた。
それはほんの数秒、もしかしたら数瞬の出来事だったかもしれない。だが彫刻のように静止した二人は、傍から見ればこのまま永遠の時をも過ごそうとしているようだった。
「――あ」
我に返った陽が口を開きかけたその時、背後でドアノブが回った。
「ありがとねー」
扉を開けてくれた生徒に礼を言いながら、寒河江つつじが引き足で部室に入ってきた。
両の腕いっぱいにファイルやら本やらを抱え込んだ寒河江は、振り向いてすぐ目の前にあった陽の背中に「キャッ」と声をあげて驚き、その拍子に荷物をいくつか落としてしまった。
「
「なんでって、随分な言い草だな」陽は落ちたものを拾う。「なんでと言いたいのはこっちの方だよ。なんで皆いないの、っていうかさ、この子だれ――」
そう言って陽は後ろを見たが、そこには誰も居なかった。
「あれ……」
まるで映画のフィルムを継ぎ接ぎするように、少女はその姿を消していた。長机の下などを覗いてみるが、やはり居ない。もう一度部室を見回すと、窓の一つが開いているのに気付いた。吹き込む風が、安物のカーテンを揺らしている。多分あそこから逃げたのだろう。
「なにかあったんですか?」寒河江は荷物を机に置いて訊ねた。
「いや、さっきここに二年の女の子がいたんだけど……」狐に化かされたような顔で陽は窓を指差す。「逃げられた」
「えー、なんですかそれ。まさか部室荒らしとかじゃないですよね」
寒河江はあちらこちらを確認しながら開いた窓に歩み寄り、身を乗り出して外を見る。
「ドッキリとかじゃないの。退院オメデトーワーワー、みたいな」
「んなことしませんよ。……アア、ヨネあたりならやりそうですけど」寒河江は窓を閉める。「隹先輩も病み上がりだし、今日は休みにしたんですよ。連絡しませんでしたっけ?」
「休みだったのか」ようやく腑に落ちた。「でもそんなに気を使ってもらわなくても」
「まあ、それだけじゃないんですけどね」
寒河江は椅子に腰掛け、ため息混じりにファイルを開く。
春の山場を過ぎたとはいえ、相変わらず編集部の仕事は多い。しかしここで貴重な新入生を崖から滑落させてはならぬと、その荷のほぼすべては上級生らが背負っていた。上級生にとってはそれこそ今が山場という時だった。だがそこに運悪く陽の事故が重なり、混乱と人手不足の為に編集部は機能不全に陥りつつあった。
「一年の子にもなかなか根性あるのがいましてね。その子のお陰で結構楽になって、なんとかキャンセル出さずに済んだんですけど。でも皆疲れちゃって――特に
陽の体調云々というのは、夢子を休ませるための口実に過ぎなかったのだ。己の意志を曲げるのが下手な夢子は、一度自分に課した物事は頑迷なまでに守ろうとするきらいがある。
「ア、でもでも、隹先輩のこともちゃんと心配してたんですからね。ってかもう本当に大丈夫なんですか。あちこち骨がイッちゃってるとか聞きましたけど」
陽はまってましたとばかりに頭の傷を見せつけた。頭蓋骨に孔を開けられたことや、そこにカテーテルを挿し込まれていたこと、傷口はステープラーのオバケみたいなのでばちんばちんと閉じられていて、それを引っこ抜く時に滅茶苦茶痛かったこと。その生々しい語りに、寒河江は頬に手を当て足をばたばたさせて怖がり、陽は肝試しの脅かし役のような楽しさを覚える。
「ほんでさあ、尿カテ引っこ抜く時もイテーのなんのって。尿道を金たわしで擦られるみたいでさ、もうチンコ裂けるんじゃないかって。どうにか取り外しが終わってひと安心と思ったけど、ところがどっこい勃起したとこにまた針で刺すような痛みですよ。マジ不意打ちですよ」
「うわわわわわ、やめてくださいよう、ってかセクハラ? セクハラ?」
これだけ反応が良いと、怪我のしがいも少しはあったのかもしれないと陽は笑う。
「それと、たまに右手が疼くっていうか、軽い火傷みたいにちくちくと痛むんだよなあ」
「ええー、大丈夫ですかそれ神経オカシイとかじゃないんですか、うわー」
「神経、か」陽は右手を見つめ、「確かにオカシイのかもしれないな」自嘲的に呟いた。
寒河江は息を詰まらせた。
「ア、……ごめんなさい」
その様子からするに、例の件について寒河江は知っているらしい。ということは、部の皆も知っているだろうし、もしかしたらクラスメイトも知っていたのかもしれない。
昏睡から目覚めた陽は、過去の記憶を失っていた。
それもかなり特殊な形の失い方だった。
脳に何らかの外傷を負ったせいで、一時的な記憶喪失になったりするのは間々あることで、場合によっては深刻な前向・逆向性の健忘症を患うこともある。そしてそれらの障害は程度の差こそあれ、何を忘れているかについてはムラがあるのが普通だ。
しかし陽の場合は徹頭徹尾、たった一人の人間と、その人にまつわる物事の記憶だけを、選択的に失っていたのだ。
陽にしてみれば、まったく実感は無かった。記憶喪失という違和感やそれを抱かせる不整合さといった部分まで、まるで腕っこきの設計士が図面に線を引いたように、綺麗さっぱり取り除かれていた。
忘れられたその人の名は『
周りの人間から語って聞かせられた話によれば、河姆渡悠子なる人物は陽が幼い頃からの知り合いであり、高校では編集部の先輩であり部長を努め、卒業後は隣の県の大学に進学し、あの日は陽が乗っていた車を運転していて、そして事故にあい不幸にも二十の若き命を散らした、
「謝らなければならないのは、僕の方なんだろうなあ」
確かに陽は身体に傷を負い生死の境を彷徨った当事者であるが、肉親を失い心に傷を負った夢子もまた当事者の一人なのだ。本来ならば陽も同じ傷を負わなければならなかったはずだが、陽はその重荷を忘却の海に投棄した。それはつまるところ「なんで知らない人のために泣いてるの」という心底笑えないオトボケであり、夢子の傷口に塩を塗りこむようなものだった。
そしてその残酷さにも気付かないほどに、陽は『河姆渡悠子』を忘れていた。
「あ、あのう……本当に、覚えてないんですか」
躊躇いがちに寒河江が訊ねた。
「寒河江は知ってるの。悠子って人のこと」
そんな陽の口調に、寒河江はなにか怖ろしいものを見たような顔をする。
「だってウチのOGじゃないですか。去年も夏休みとか時々遊びにきてくれて――」そういって視線を下げ、「その被り物だって、悠子さんと隹先輩が作ったって、演劇部の依頼だって」
しゃくり、とハサミを入れられるようだった。
そうやって自分の中の欠落を指摘される度に、目の前の世界と自分が切り離されていくような、小さな疎外感を陽は覚える。
「そっか」陽は被り物を机に乗せ、語りかける。「ごめんな……。やっぱり思い出せない」
白鳥は黙して答えない。外から野球部のヤケクソのような声が聞こえる。
「そのうち思い出しますって。時間が経てば、きっと、必ず」
「そうだといいな」
黄色と黒の嘴を撫でる右手が、ぴりぴりと疼いた。
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