2: Fell In Love Without U
Fell In Love Without U
『朝の県内ニュースです。昨夜〇時すぎ、国道四八号線笹子山峠で、対向車線にはみ出したトラックが乗用車と正面衝突、トラックが橋から転落する事故がありました。この事故でトラックの運転手は全身を強く打って死亡。乗用車を運転していた
***
名前を呼ばれた気がした。
今にも泣き出しそうな、弱々しい声が、沼のように濁った意識の水底にゆらめき、その鯰のような尾で重く積もった泥をぐろりと舞い上げた。
静かな、しかし力の強い水流が足元を吹き払い、意識は闇の中をゆっくり浮上していく。
変な臭いがするな、と
からからに乾いた眼球に引っかかる目蓋が、錆ついシャッターのように重かった。意志の力を込めてこじ開けた隙間から差し込む光に、眼の奥が鈍く痛んだ。
光に塗りつぶされた世界に、徐々に目が慣れてきた。
見たことのない天井だった。
白い石膏ボードのパネルからはカーテンレールがぶら下がっていて、ベージュの布が陽の周りを囲んでいる。ハライタを装って保健室のベッドで寝ていたんだっけか、と有りもしない記憶を捏造してみるが、鼻に潜り込んでくる樟脳のような匂いと、微かに耳に届く人の声が、それは違うと教えてくれる。
鉛をつめ込まれたように重く回らない頭でたっぷり十秒以上考え、ようやく思い至った。
病院だった。
夢かとも思ったが、五感は刻々と解像度を増し、陽はハッキリと覚醒を迎えた。
無意識に、朝布団から起き上がるのと同じ調子で身体を動かそうとし、
「ぅああっだだだだだぁっ! なんじゃこりゃあ! 体中がイテエ!」
悲鳴を上げた。
するとすぐ側から「アッ」という声がして、母の顔が視界に覆いかぶさってきた。
体中に反響する鈍痛に戸惑いながら、なんで母が居るのだろうかと考えていると、
「陽、気がついたの。私が誰だかわかる。痛いってどこが痛いの。陽、大丈夫なの、陽」
母が畳み掛けてくる。何をそんなに慌てているのかという疑問はしかし、全身を襲う鈍痛によってすぐさま吹き払われる。足の先から頭のてっぺんまですべての筋肉が、紫外線劣化したプラスティックのようにミシミシと悲鳴を上げていた。陽がその苦痛に顔を歪めると、母はさらに声を張り上げて呼びかけてくる。腕一本持ちあげる事すらままならぬ身体の重さと、耳元でぎゃあぎゃあ喚く母に、陽の不快感は指数関数的に上昇していった。
「大丈夫だって! 大丈夫だから、ちょっと静かにしてくれよ母さん」
陽が苛立たしげに言うと、母はようやく声のテンションを下げた。それからおろおろと辺りを見回し、ベッドに垂れ下がったナースコールに飛びつきボタンを押した。
ややあって、パチパチとリノリウムの床を叩く複数の足音が近づいてきた。足音が部屋のなかに入ってきたかと思うと、勢い良くカーテンが引かれた。
「よー君」
聞き覚えのある声だった。割れそうな首をいたわりながら、声の方向にゆっくり頭を向ける。制服姿の見知った男女が二人、看護士を従えるようにして立っていた。
「
かすれた陽の声を聞いた夢子の両肩が、力を失って僅かに下がった。にわかにその表情が歪み、わななく唇から、キュウ、と呻くような息を漏らし、震える手で口元を覆った。目頭からあふれた涙が指を伝い、その向こうからくぐもった嗚咽がこぼれだした。
その反応に陽は困惑した。夢子がこんなふうに涙を流すというのは、いったい何時ぶりだろうかと思う。あれは確か小五の夏休み、学年行事のキャンプでの事だ。自由時間に二人で遊んでいるうちに、山の奥に入りすぎて帰り道を見失い、日が暮れてしまった時だった。暗い、怖い、もう歩けないと泣き喚く夢子をおぶって、道を探したっけ。
あの時も全身が筋肉痛になったが、今のように起き上がるのも辛いほどではなかった。
「なあ、あのさ」喉を引きつらせるような声で、陽は尋ねた。「なんでこんな事になってるかわかんねーんだけど、もしかして僕、事故にあったり病気でぶっ倒れたりしたわけ?」
「――よーく、ん、っく、う、よかっ、うぅ、よかっ、っふぐ、う」
夢子は震える喉で何かを言おうとするが、言葉にならない声を絞り出すので精一杯の様子で、よろよろと清治にもたれかかった。
「交通事故にあったんだよ。あなた、二週間も眠ったままで……もう目を覚まさないんじゃないかと思って、お母さんホント心配したんだからね」
そう答えた母までが、目に涙をにじませていた。
夢子の肩を支える清治は、口を半開きにして力のない笑みを陽に向けている。
ようやく合点がいった。二週間も眠っていたなんて言われても嘘のようにしか思えないが、体中の関節や筋肉が固着したように重く痛むのは、ずっと横になりっぱなしだった所為にちがいなかったし、気づけば頭に――事故で負傷したのだろう――絆創膏のようなものを貼り付けられている感触もある。
それにしても、夢子や清治の深刻な反応はやや大げさではないかと陽は思う。体調は万全とは言えずとも、気持ち的には普通に朝目が覚めるのとなんら違いがなかったし、頭はハッキリ回っていて、色々と質問してくる看護士にもちゃんと答えられている。それでもやはり、二週間の昏睡から目覚めるというのは、傍から見れば奇跡の生還に近いのかもしれない。何事においても、心配を掛けるほうは相手の気持にさっぱり無自覚だったりするものだ。
そうこうしているうちに無精髭を生やした若い医者がやってきた。人好きのする良い笑い方をするその医者は、看護士と同じような質問を繰り返し、陽の身体の色々なところをつねって感覚の度合いを確かめたりした。それから陽の身に起きた事を、言葉を選びながら説明した。
酷い事故にあってこの程度で済んだのは、驚くべき幸運だと医者は言ったが、陽にとってはいつのまにか頭蓋骨に
それ以外にも鎖骨やら鼻骨やらが折れていたそうだが、それほど大したことはないらしい。
全身の痛みは筋肉痛のようなもので、それも徐々に良くなるだろうとのこと。
とりあえず一晩様子を見て、明日詳しく検査をすることになった。頭の傷もまだ抜糸していなかったし、もうしばらく入院が必要らしい。
診察を終えた医者が病室から出ていこうと踵を返したところに、
「あのっ、先生ちょっと」清治が駆け寄った。
清治は声を潜め、医者に何事かを耳打ちした。医者は肩越しに陽を一瞥し、ウウム、と唸ってからひそひそと言葉を返す。「ショック」とか「興奮」とか、不穏な単語が漏れ聞こえる。
ベッドの横に戻ってきた清治は、今までにない真剣な面持ちで母に訊ねる。
「やっぱり、今言うのはよくないですかね」
「酷かもしれないけれど、いつならいいってものでもないでしょう」母が応えた。
「まあ、確かに」と清治は頷き、夢子に目配せする。「どうするよ?」
母の隣の椅子に腰を下ろしていた夢子は、一度大きく呼吸した。
「言おう。……私が言うから」パイプ椅子をベッドに寄せて、「気分が悪いとか、頭が痛いとか、そういうのは無いんだよね。大丈夫なんだよね」ベッドをリクライニングさせ、少しばかり上体を起こしている陽に問いかけた。
「体中イテーし、スッキリ爽快ってわけじゃないけど、気分は悪くないよ。ああ、でもちょっと腹が減ってるかな。先生に晩飯は出るのか訊いときゃよかったなあ。ううむ、考えたら余計に腹が減ってきた、ヘヘ」
重苦しい空気を誤魔化すように浮かれた調子で言った陽の右手に、夢子の白い手が触れた。
一瞬、小さな痛みが走った。
声には出さなかったが、少しだけ顔をしかめた。まだ感覚が混乱しているのかもしれない。夢子の熱を感じる膚の奥に、ちりちりとした疼きのようなものを微かに感じる。
「落ち着いて聞いてね、よー君。本当に、辛いことなんだけど、でも――」思いつめた面持ちで言う夢子であったが、しかしその声はどこか精気に欠けてぎこちない。「それでも、言わなきゃって、だから落ち着いて……、あのね、よー君、じ、事故でね、う、ちゃん、が――」
震える喉をどうにか律しようとして、言葉は途切れ途切れになった。項垂れた頭から長い黒髪がこぼれ、上質な炭素繊維のように艶やかな暗幕の向こうにその表情を隠す。縋るように力が込められた右手にぽたりと、温かいものが落ちる。
夢子は陽の手に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。
なだめるように、母がその背中をさする。
せっかく昏睡から目覚めたというのに、まるで通夜のような雰囲気だった。
「あの、ちょっとどういうことなのかわかんないんだけど、何? 何があったの。なあ清治」
陽はすっかりうろたえて清治に助けを求めた。中学からの盟友は、正面から陽の視線を受け止めた。夢子の震える肩に手を添えてから、
「俺から言うよ」縫い付けるような、覚悟に満ちた視線。「いいか、陽。気を確かに持てよ」
首肯する。
「あのな……本当に、本当に残念なことになった。ひどい事故だった。お前がこうして生きているのは、マジで奇跡だと思う。だけどな――
だけど、
頭の奥に穴が開いた気がした。
というか実際に孔が開いているのだが、もちろんそういう意味ではない。
心にぽっかりと浮かんだ虚からは何の感情も響いてこない。
だから陽は、外側に向かって素朴な疑問を投げかけてみた。
「悠子さんって……。ええと、誰だっけ? 清治の知り合い?」
「誰って……。悠子さんだよ。あの日一緒だったろお前」
清治の目からさっと感情の色が消え、
母は信じられない言葉を耳にしたといったふうに眉をひそめ、
夢子が涙と鼻水まみれの顔をゆっくりともたげた。
六つの視線の、禍々しさをも孕むような圧力に陽は気圧される。
まるで記憶にない過去の罪を咎められるような、息の詰まる重苦しさに耐えかね、口元に引き攣った笑みが浮かぶ。
「僕の知り合いに悠子なんて人、いたっけ?」
病室の空気が死んだ。
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