三章 『弱者の砦』 ③

 それから約四時間後、扉の外が再び慌ただしくなり始める。

 どうやら、食料配布の時間らしい。

 ロータムは体を起こして膝を立て、扉に手をかけてスタートの姿勢を取る。

 そして支給の一声が耳に届いた瞬間、勢いよく部屋から飛び出した。他の部屋からも一斉に少年少女達が雪崩れ出し、一目散に声のした方向へと走って行く。

 部屋どころかシェルター自体が揺れているのではないかと錯覚するほどの、決して小さくない振動に身をまかせつつ、この光景には慣れないなと顔を顰めた。

 怒声が半分以上を占める喧騒が収まったのは、その十数分後。

「おかえりなさ……」

 戻って来た彼の手に、缶詰は無かった。彼の頬には争奪戦の最中に殴られたのであろう小さな青痣が浮いていた。

 彼は特に落ち込むでもなく、「駄目だった」と苦笑いを一つ零して元の場所に収まる。体全体に突き刺さる静寂が、そこに居座っていた。

 エリス様が、私のローブの袖を引っ張った。彼女の言わんとしている事は、痛いほどわかる。しかし、応じる訳には行かなかった。ここで情を見せれば、私達が目的地に辿りつけなくなる。

「ねぇ、ジュゼ!」

 沈黙を貫く私に業を煮やしてか、エリス様が口で直接、訴えかけてくる。

 私は身を裂かれる思いで、それも黙殺する。やがて袖を引っ張る力が増し、両手になり、激しく体を揺さぶった。

「駄目です、エリス様。もう私達の食料も殆ど残っていないんですよ!」

「……でもっ!」

 譲れない。それがエリス様の願いであっても、私の使命は彼女を守る事だから。どれだけ非道と罵られようが構わない。エリス様を助けられるのなら。

 私は深々と、ロータムに頭を下げる。

「ごめんなさい、何も出来なくて。私には、出来ません」

 彼は何も言わなかった。

 まるでガラス越しの見世物を見る様な乾いた視線と無表情で、小さく頷く。糾弾された方がよっぽど楽だった。それなのに、彼は全てを諦めた穏やかな表情を浮かべている。

 気がつけば、エリス様は私にしがみつくのをやめて、自らリュックを開こうとしていた。私は慌てて止めに入り、彼女を荷物から引き剥がす。

「ジュゼ、離してっ!」

「駄目です。お願いですから、言う事を聞いてください! お願いです!」

 半ば悲鳴にも似た声での説得は、効果があるとは言えなかった。

 疲弊したエリス様を押さえるのは容易だが、無駄に体力を消費させてしまっているという後悔が、押し留めようとする私の手を鈍らせる。

 一度こうなってしまえば、エリス様は絶対に譲らないだろう。

 私の取るべき道は、一つしか無かった。

「……栄養剤だけなら」

 食料だけはやはり、どうしても認められなかった。

 しかし、栄養剤ならまだ少し余裕がある。

 直接お腹が膨れるものではないが、次の支給までの活力にはなる筈だ。そう言ってエリス様を説得し、私はリュックから錠剤を二粒取り出す。

「……一粒で半日を賄える栄養価があります」

 掌に錠剤を載せて差し出すと、ロータムはやはり無言で、しかし申し訳なさそうな表情で私を見て、続いてエリス様を見てから、「ありがとう」と錠剤を受け取った。

 そして一粒を口の中に入れ、もう一粒を布に包んで胸元に仕舞う。

 もう、砂嵐がどうと言っている状況ではない。このままここに居れば、出発までに食料が尽きてしまうのは目に見えていた。

 次の食料支給までにはまだ時間がある。夜が明けるまで、およそ六時間。天候がどうであろうと、もうここから脱出しなければ身の破滅だ。エリス様を責めるつもりは無いが、やはり彼女の優しさは道中でかせにしかならない事を痛感させられる。

 ――でも、エリス様はそれで良い。

 彼女の分まで、私が泥をかぶって生きればいい。誰かに恨まれればそれでいい。

「六時間後、ここを出発します」

 エリス様に宣言し、少し眠る様に言いつける。

 彼女も今回の我儘に含む所があったのだろう。大人しく首を縦に振り、毛布の上に収まった。私は改めてロータムに向き直り、頭を下げたが、彼の表情を見る事は出来なかった。

 彼が悪い訳ではないのに、彼がいなければこんな事態にはならなかったと、身勝手に考えてしまっていたからだ。

 消灯の時間なのか、扉の外が薄暗くなり、ただでさえ薄暗かった室内が一段と闇の色合いを濃くしていた。エリス様は数分で寝息を立て始め、ロータムも壁に背を預けて瞼を閉じていた。

 それから三十分もせず、一つの足音が廊下に響いた。誰かがトイレに向かう足音かと思ったが、それは一直線に私達の居る部屋の前までやって来て、ぴたりと止まった。

 私が顔を上げると、寝ていると思っていたロータムも同様に顔を上げていた。

 僅かに開いた扉の外から、僅かに充血した眼がぎょろりと部屋の中に定められる。

 続いて小さなノックがあり、ロータムがゆっくりと戸を開いた。

「……そこの女、話がある」

 立っていたのは、フラッツだった。私はそれに応じて、エリス様を起こさない様に立ち上がる。私はエリス様を頼むとロータムに目配せをして部屋を出た。

 彼にエリス様を頼む事に僅かな躊躇いもあったが、出来るだけ彼女を休ませたいという気持ちが勝った。

 私が外に出ると、彼は不機嫌さを隠そうともせずに廊下を歩きはじめる。

「何処に行くのですか?」

「俺の部屋だ。文句を言わずに黙ってついてこい」

 ここで彼に逆らうのは得策ではない。

 私は腹を決めて、彼の後ろに従う事にした。

 長い通路を進み、何度か道を折れて一階へ続く階段を下りる。食糧庫の見える広い通路の横の広い管制室。そこが、彼のねぐららしかった。

 部屋の脇には、長く際の尖ったパイプで武装した二人組が立っていて、その横を素通りして中へ。

 部屋の右手には大きめのモニターがあり、長い廊下の風景が六分割で映し出されている。どうやらそれは内部数か所に設置された監視カメラの映像らしく、一人の男が真剣な表情でモニターを睨み、定期的に映像を切り替えていた。

 そんなモノを動かす電力が余っているのなら、他に動かすべきものがあるだろうと思ったが、勿論口には出さない。

 他にも多数の計器が並んでいたが、半分近くは壊れているのか、操作パネルに光は無い。

「ここでの言いつけは、守ってる様だな」

 豪快に奥の椅子に凭れかかった彼は、開口一番に腐りきった笑みを私に向けてきた。

 私は出方を伺う様に、小さく頷いて「はい」と答える。部屋の中には彼以外に四人が待機していた。例の、取り巻き連中らしい。

「ロータムの奴は御喋りだから、どうせここの事も全部話したんだろ?」

 歯にモノ着せず、単刀直入に彼は質問をぶつけて来た。

「はい。でも、干渉するつもりはありません」

「そりゃ結構。まぁ、みんな自分の事で手いっぱいだよな」

「はい。夜が明ける頃に出発させて頂くつもりです。招き入れて頂き、ありがとうございました」

 深々と頭を下げる。先手で布石を打てたのは良かった。エリス様の気持ちは別として、私は彼らに関るつもりは毛頭無い。そんなもの、こちらから願い下げだ。

「話が早くて助かる。いや、呼び出したのはそういう事なんだよ」

「そういう事?」

「外部の奴を招き入れたせいで、他の奴らがちょっと殺気立っててな。俺達としては、面倒事は無いに越した事は無い訳だ。だから、あんたらには早めに出て行って貰うように言うつもりだったんだが、……そうか、それなら丁度良いんだよ」

 鳥を閉め殺す様な歪んだ笑い声。余りに醜すぎて顔が歪んでしまうのではないかと思ったが、私は無表情で耐え続けた。

 やがて彼は自分の笑い声に飽きたとばかりに、唐突に真顔に戻って両手を組み、指を絡める。

「別件で、聞きたい事がある」

「なんでしょう?」

 出来る限り、間が不自然にならない様に注意を払いつつ返答する。

「俺達がここから、別のシェルターまで移動するのは可能か?」

「俺達、というのは全員の事ですか?」

「ああ、その通りだ。知っての通り、このままじゃ食料が足りないんでね」

 足りないなんて、真顔でよく言えたものだなと感心する。

「防塵装備があれば、あるいは不可能ではないかもしれません」

「無ければ?」

「不可能です。二日も外に出ていれば器官と肺がやられます。目に至っては、一日ももたないでしょう」

「だろうな。俺も同じ意見だ。あんたらは他のシェルターも通って来たんだよな? 他のシェルターがどんな状況なのか、どういう風にしてるのか聞いておきたい」

 私は頷き、出来るだけ詳しい情報を与えた。

 一つ目のシェルターでの事も、二つ目のシェルターで門前払いされた事も。

「どこも逼迫した状況であるのは同じです。食料も分けて貰える状態では無かったので」

「なるほど。なら、俺達の対応も間違いじゃ無かった、って事だ」

 それは私を受け入れた事なのか、それとも独裁体制を築いた事を指しているのかは分からない。どちらにせよ、印象は最悪だ。

「そうか。やっぱ移動は無理か。まぁ、頼まれてもしたくないけどな」

 乾いた笑い声が、そこかしこで起こる。

 この部屋に居る連中は、それこそ先二十年以上の安定を保障されている。

 元々、移動の必要や心配なんて無いのだから、余裕があって当然だ。

「そのありがたい話、あんたらが居なくなった後に皆にしてやらなきゃならないな」

「……どういう事ですか?」

 思わず、質問を投げかけてしまう。

 しかし、彼はその言葉を待って居たんだと、口元をにっと歪めた。

「俺達に反逆出来ないって奴らが、外に逃げる事を考えているらしいんだよ。滑稽だろ。どう考えても外の方が地獄だ。何を夢見てるのかは知らないが、自殺して楽になりたいって言ってるようなもんだ」

 そう思うだろと同意を求められ、私は心を無にして、空っぽの表情で頷いた。下手に反論して期限を損ねる訳にはいかない。自殺行為であるという一点においては同意できる。

 この劣悪な環境に苦しみ、明日を生き延びる事に必死な大勢の子供達がいる事を、この男は分かっていて笑っている。自分が高みの見物でのうのうと生きながらえる事に、少しの罪悪感も覚えていない。

「そろそろ、私も出発に備えて休みたいのですが……」

 間延びした割に埒の明かない会話を終わらせるべく、私は声を上げる。

 彼との会話は得体のしれない嫌悪感を増幅させるだけだ。この閉鎖されたシェルターの中で、彼らの心は着実に歪み続けているのだろう。

 フラッツは僅かに渋い顔をしたが、直ぐに無表情を取り繕って小さく頷く。

「まあ良いだろ。あんたらもせいぜい死なない様に頑張れよ。面倒だから見送りはロータムにやらせるように伝えてくれ」

「分かりました。失礼します」

 深々と一礼した後、踵を返して部屋を出る。

「――早く戻った方がいいかもしれないぜ?」

 扉が閉まる直前、だしぬけにそんな言葉が投げかけられる。私が疑問と共に振り返るのとほぼ同時に、制御室の扉がピシャリと閉ざされてしまった。

 私はしばし茫然と扉の前に立ち尽くし、ハッと廊下の先を見据える。

「……まさかっ!」

 私は元来た通路を全力で走り出した。

 エリス様の身が危ない、そう直感したのだ。その予想が正しかった事を、私は身をもって体験する。大きな足音を立てて走っているのに、周囲の視線を殆ど感じない。あれほど攻撃的だった気配が、完全に消失していた。

 その代わりに、前方から人の蠢く気配がひしひしと感じられる。

 そうして三つの角をまがった瞬間、私は息をのんだ。薄暗い通路の先、ロータムの部屋の辺りに黒山の人だかりが出来ていた。周囲は食料の供給時と変わらない喧騒に包まれ、異様な熱気を放っている。否、これは狂気だ。

 私は声にならない悲鳴を飲み込んで、人だかりに突き進んだ。

 折り重なった少年少女を押しのけ、間に体を割り込ませる。

 私の姿を見て、押しのけられた彼らはさっと蜘蛛の子を散らす様に道をあけた。

 あるいは、私の鬼気迫る表情に怯んだのかもしれない。

「エリス様っ!」

 この場の全員に私の存在を知らしめるべく、大声で彼女の名を呼んだ。

 しかし、反応したのは約三メートル圏内の人だけで、残りは部屋の中へ視線を定めて、周りの声がまったく耳に入っていない。

 私は更に体を割り込ませ、強引に扉の前まで辿りつく。どうやら、中にも数人が詰まっている状態らしく、これ以上は割って入るスペースも見つからない有様だった。

 中からは苦しい悲鳴の様な声が断続的に漏れ聞こえ、何かを打ちつけるような鈍い打撃音が部屋の中に響く。

 そして部屋の入り口の対角となる最奥に、エリス様の頭頂部が一瞬覗いた。

「エリス様っ!」

 私は一層大きな声で叫んだ。

 部屋の中に私の大声が残響し、中の全員が身構えつつも一斉に私の方へと振り返る。その表情には怯えと困惑、そして何より敵意が滲みだしていた。

 私は部屋に踏み込むべく、尤も扉に近い位置に居た少年の背を掴んで部屋の外へと引き摺り出し、部屋の中へと足を踏み入れる。

 すると、未だ室内に残る数人はこうして出来た僅かな隙間に身を滑らせ、まるでパズルピースの様に私の脇をすり抜けて部屋から這い出した。

 私は逃げる彼らに目もくれず、残った少年達を掻きわけて最奥の壁際へと到達する。

 そこには、リュックを背に両腕で顔を守る様にしてしゃがみ込む、エリス様の姿があった。暴行を受けたのか、腕には無数の痣が刻まれ、瞳からは涙が零れている。

「エリス様、大丈夫ですか!」

「私は、大丈夫。でも、ロータムが」

 彼女の手前の足元には、ロータムが仰向けに倒れ伏していた。彼はことさら酷く痛めつけられた様子で、左目は大きく腫れあがり、左頬は血に濡れている。

 息は弱々しく、体全体で浅い呼吸を繰り返すばかりで、駆け寄った私の呼びかけにも反応しない。彼がエリス様を守ろうとしてくれたのは明らかだった。

 多勢に無勢な状況の中、彼は傍観する事も、この流れに便乗する事も出来た筈だ。

 しかし、彼は最後まで私達の味方で居る事を選んだ。そのせいで、彼は死にかけている。

「一体、どうしてこんな事……」

 不条理だと、私は誰に宛てるでもない疑問を口にする。

 ロータムは何一つ間違った事をしていない。

 それなのに――。

「いいから、食料を寄こせよ。あるんだろ?」

 振り返ると、そこに一人の少年が立っていた。歳は十三歳ぐらいだろうか。少年の手には所々が錆びた一メートルほどの細い鉄パイプが握られている。恐らく、これでロータムを、そしてエリス様を殴っていたのだろう。

 私がロータムの容体に気を取られている間に、部屋の中にはこの少年を含めて他に三人の少年だけが残っていた。他の少年達の手にも鉄パイプが握られていて、主犯格がこの四人であるのは間違いなさそうだった。

「どうして、こんな事をするんですか?」

「食料を手に入れる為に決まってる」

 彼は悪びれるでもなく、当然の様に即答した。

 そこに食料があるからだと、私達を見下ろしている。

「そんなの、間違ってます」

「間違ってねぇよ」

「間違ってます! 貴方達が戦うべきは、他に居るでしょう!」

 何もかもを、めちゃくちゃにしてしまいたかった。しかし、私の背後にはエリス様が居る。彼女にこれ以上、悲しい顔をさせる訳には行かない。

「どうしてその力を、この状況を変える事に使わないんですか! 弱い者から奪い取って、それじゃ……彼らと一緒じゃないですか」

 私の言葉に、内の二人が臆した様に顔を見合わせた。

 しかし、残りの二人は私の言葉がまるで届いていない様な、それどころか耳にすら入っていない様な無表情で、手にしたパイプを一定のリズムで床に打ち鳴らしている。

「そんな事が出来りゃ、最初からそうしてる。出来ないんだよ、そんなこと」

「それは貴方達が勝手に決めつけているからでしょう。こんな食料の取り合いをしていても、いつかは自分が死ぬ番が回ってくる事は知ってる筈ですよね。それなのに、どうして抗わないんですか。自分だけは、お目こぼしを貰えるなんて、誰も思ってないでしょう!」

 私の叫びは彼らよりも、扉の向こうに集まった少年少女達に広く疑問の波を波及させる。

「このまま弱い者同士で争っていたら、それこそ彼らの思う壺じゃないんですか?」

 きつく彼らを睨みつける。

 数秒、彼らはその場から動かず、言葉を発する事も無かった。

 彼らに言葉は通じないのだろう。彼らは既に、人を辞めているのだ。

 私は対話を諦め、エリス様に向き直る。

「エリス様、体は大丈夫ですか?」

 私は彼女の手の具合等を慎重に確かめる。どうやら骨は折れていないようで、ホッと胸を撫で下ろした。

 続いてロータムの手を取り、脈を計る。

 此方は重傷だった。私はかける言葉が見つからず、沈黙する。

「……僕は大丈夫だから」

 ロータムの方から、逆に気遣いの言葉が投げかけられる。

 口元に耳を近付けると、彼は後悔の籠った掠れ声で「失敗しちゃったかな」と呟いた。

「いえ、貴方は良くやってくれました。エリス様を守ってくれて、本当に、本当にありがとうございます」

 私は彼を抱き締めて、思いつく限りの感謝の言葉を並べたてた。

 彼の意識が途切れそうになるのを必死に繋ぎとめる様に、何度も、何度も。

 彼はエリス様の無事を知り、「無事で良かった……」と血塗れの唇を僅かにつりあげる。

 そして、「僕は動けないから」と懐に手を入れ、入口の扉を開く為のカードキーを私に握らせた。

「本当は、僕も二人を裏切りかけたんだ。二人が居ない隙に、食料を取ってしまえば良いって。でも、出来なかった。出来なくて……よかった」

 彼の瞳には、光るものが滲んでいた。

「どうして、こんな事言ってるんだろ。最低、だよね。ジュゼさんにはきつい事言ったのに、頭の中ではそんな事、考えてたんだ」

「もう、良いんです。あなたは、立派でした。だから――」

「そう、かな。そうだと、いいな……」

 浅い呼吸が、唐突に途切れた。彼の体がどっと重くなった様な気がして、私は支えていた腕に力を込める。

 しかし、彼が反応する事は無かった。心臓の鼓動も聞こえない。

 彼が最後に見せた笑顔は、悲しそうに歪んでいた。

 私は彼をそっと地面に横たえて瞼を下ろし、啜り泣くエリス様を抱きしめる。

「――行きましょう」

 有無を言わせず、出発の支度を開始する。無論、背後の四人を牽制しつつだ。

 まずはエリス様の腕の状態を見て湿布を張り、粘着部に砂が噛まない様、上から包帯を巻く。

 続いて新しいマスクを取り出して装着し、ゴーグルをかける。防塵対策を万全にした後、エリス様に小さなリュックを背負わせた。彼女のリュックの中身は既にクマのぬいぐるみだけだ。他の食料等は既に消費し尽くしている。逆に、私のリュックの中には残り少ない食料と水筒、そして薬類が入っている。

 狙われるとすれば、私の方だ。

 支度を整えてリュックを背負い、改めて彼らに向き直った。

「言っただろ。食料は置いていけ。痛い目に遭いたくなかったらな」

 彼は頑として道を譲らない。となれば、強行突破するしかない。

「貴方達は最低です」

「だから知ってるって。お説教なんてここじゃ何の意味もねえんだよ」

「人を殺して、よく平然としていられますね」

「は? 俺が殺したわけじゃないだろ。コイツが軟弱だっただけ。運が悪かっただけ。ここでは人の死なんて日常茶飯事なんだよ」

 私は彼がまくし立てている言葉に耳を傾けず、エリス様に左手を差し出して強く手を握り締める。

「離さないで下さいね」

「……うん」

「行きましょう」

 彼の暴論が終わるか終らないかのタイミングで、私は一歩前に足を踏み出す。

 彼ら全員が私の行動に虚を突かれ、半歩後ろに下がった。

 当然だ。此方は手ぶらで、相手は全員が鉄パイプを持っている。

 どうぞ殺して下さいと言っている様なものだ。

「舐めやがって」

 彼らは自分達が怯んで下がってしまった事に苛立った様子で、それを私への憎悪へと変えて睨みつけてくる。私はそれでも臆することなく、更なる一歩を踏み出した。

「ふざけんなッ!」

 先頭の少年が鉄パイプを大きく振りかぶり、私の頭めがけて振り下ろす。

 ――ゴオゥォン。

 鉄と鉄が激しくぶつかる様な重低音が、部屋に響き渡る。その音は、私が頭を庇う様に前に突き出した右腕と、振り下ろされた鉄パイプによって奏でられたものだった。

「……なんだ、こいつ」

 異質なその音に、彼らは等しく驚きの表情を浮かべる。

 その隙だけで、反撃には十分だった。

「殴りましたね。正当防衛を行使します」

 私は素早く右腕を引きつつ鉄パイプを奪い、唖然とする彼の左側頭部に振り抜いた。

 湿った打撃音と共に少年の顔が右方向へと傾き、そのまま横合いに倒れる。体は痙攣し、左の耳の穴からは血が流れ出した。廊下の方から、引き攣った悲鳴が巻き起こる。

 呆気に取られる残りの三人を前に、私は鉄パイプを地面に打ち付ける。

 甲高い金属音が残響し、外の数人が耳を塞いだ。エリス様にも負担を強いる形になった事を声に出さず詫びつつも、視線は三人から外さない。

「通して下さい。これが、最後のお願いです」

 最後、という部分を事更に強調しつつ、一歩前へ。三人は互いに顔を見合わせ、その内の一人が目の前の惨状に怯んで鉄パイプを取り落とす。

 既に、状況は決していた。彼らのなけなしの歪んだ勇気を代弁する役者は既に脱落している。軍師を失った彼らは結局、何も出来ない腰巾着だ。

「行きましょう、エリス様」

 私は一定のリズムで鉄パイプを地面に打ち付けつつ、道を開けた三人を牽制しながら部屋を出る。そして、残飯に群がるハイエナの如く集まった少年少女らも等しく睨みつけて道を開けさせ、出口に向かって廊下を進む。

 彼らは戸惑いと怯えを顔に張り付けて広く道を開け、私達から七メートルほどの距離を保ちつつ、醜くも後をついて来た。

 自身が童話に登場するハーメルンの笛吹きになったような、最悪の気分で一階へと辿り付き、一つ目のロックを開ける。

 ここまで来ると流石に彼らも砂塵の影響が怖いのか、更に距離を大きく取り始め、人数も減り始めた。私は危険が無くなった事を見て取り、彼らに視線を向ける事を止めて二つ目の扉を開く。

 煤けたエントランスを横切り、鉄パイプを外に繋がる扉の隙間へと差し込んで押し広げる。十センチほど開いた所でパイプを捨てて、両手で扉の端を持つ。この時になってようやく、自分の右腕に上手く力が加わっていない事に気付いた。渾身の一撃を受けたので、当然と言えば当然だ。

 しかし、動かないほどではない。私は気を取り直して、扉を一気に引いた。外は未だ暗く、轟々と風が吹き荒れる音がトンネル内に木霊している。

 私は予め用意していた棒状のケミカルライトを取り出して膝で折った。青白い光が灯り、ぼんやりと周囲を照らし出す。

「ロータム、貴方の恩は決して忘れません」

 エリス様の手を取り、シェルターから足を踏み出す。

 一秒でも早く、このシェルターから離れたかった。

 そうしないと、私は大切なものまで見失ってしまいそうだったから――。

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