一時、の休息。

 鉄で遮られた舞台が、扉一つ開けることによって、浮かび上がる。正面にバーカウンター、左手に別の真っ赤な扉と、右手に無人の二人席。

 店内を見渡すと、カウンターの一番右側の席に、ネイビーのスーツを着た背中があった。場違いな真っ赤なスニーカーで彼に近づくと、静かにこちらを振り向いた。

「待ってたよ」

「……たったの数分でしょ、キムさん」

 少し上がった口角と、片手にスノースタイルが施された、ロックグラスの持つ男性。金属製の細い眼鏡に返事をし、ダッフルのボタンを外していく。いつの間に一重の視線はグラスに戻り、クリームイエローの液体を喉に流し込んでいた。

「キムさん、それ何」

咸狗xián gǒu

 中国語……。ネイティブの発音をした言葉を聞くと、馬鹿にされたような感覚に陥る。

「ごめん、キムさん。gǒu……犬の部分しかわかんない」

 仕事を教えてくれた時に、覚えた単語の一つ。キムさんは私の老师lǎoshīで、本当はそう呼ばないといけない関係だけど、キムさんはその呼び方を嫌う。


 キムさんはグラスのふちの結晶を一掴みし、席に着いた私の口元に運び「舐めたら、貴方でもわかる」と意地悪そうに口元を歪ませ、笑った。意味わかんない。

「キムさん……それ塩でしょ」

 手を退け、グラスを指差し、答える。キムさんは少し残念そうな表情を見せ、指に残ったの結晶を舐めとった。

「そう」

「じゃあ、xiánは塩って意味?」

「ちょっと違う。意味はしょっぱい。これ、ソルティードッグだから」

「……中国で犬は『独身』って自嘲する意味じゃなかったっけ」

「独身の犬と書く、独身狗dān shēn gǒuのこと?」

「うん、多分それ。だから私、キムさんはソルティなドッグは頼まないと思ってた」

 ラウンドガラス越しの視線に見つめられ、六四分けにされた短い髪が、くしゃっとかきあげられた。呆れている時にする仕草。あ、キムさんとみた『傷だらけの男たち』に出てくるトニー・レオンに似てる……。


 キムさんは傍に置かれたマニラフォルダーに触れ、ワザとらしい咳を一つし、バーテンダーに「彼女に、いつものを」と注文した。その間、スーツの袖に隠された腕時計を垣間見てから、

「……貴方はこれ飲んだら、独身を非難してると思うの?」

 とまた、会話に戻った。そろそろ時間ってことね。出来るだけ平然とした態度を見せるため、軽く微笑み、馬鹿らしい返事をする。

「うん。そうだと思ってた」

 その言葉を聞き、グラスを磨いていたバーテンダーが軽く吹き出し、キムさんも笑った。

「お二人とも、相変わらずですね」

 何も知らないバーテンダーは、いつものように私の目の前に、白い液体の入ったホットグラスを置いた。これから起こることを知っている、カウンターに座る二人に、甘い落ち着く香りが纏わりついた。、か。

 出されたホットミルクを両手で包み、湯気の踊りを楽しんでいると、キムさんが「時間だ」と呟き、ベージュのフォルダーを取り出した。クラッチからスマホを取り出し、時間を確認する。十九時四十五分。鼓動が早い。

「煙草、吸ってくる」

 それだけ告げ、無地のブラウンネクタイからピンを外した。それをフォルターを挟み、手渡される。そんなキムさんの流れるような作業を見つめながら、ミルクを一口飲む。眩しい。ピンに描かれた銀色の龍の紋章が、私を睨むように、照明に反射した。

您慢走nín màn zǒu

 いってらっしゃいと呟き、キムさんは何も言わずに頷き、チェスターコートを着て、そのまま出ていった。


 去っていった緑青色を見つめ、身震いをする。寒い。背もたれに畳んだダッフルコートを肩にかけ、温かなミルクを飲む。お腹の中が暖かくなるのを感じながら、フォルダーを眺めた。表紙には何も書かれておらず、クリーム色が赤い電球色と重なるだけ。

 ピンを外し、クラッチにしまう。ファスナーを閉める前に龍を睨み返し、ざざっと音を放ちながら、閉じた。

「いつも、ホットミルクを注文しますね」

 一段落し、フォルダーを開けると同時に、頭上からバーテンダーの爽やかな声がした。キムさんがいなくなるとたん、いつも話しかけてくるから、めんどい。

「えぇ、そう」

 それだけ返事をし、書類に視線を戻す。バーテンダーは少し残念そうに肩をすくめさせ、自分の仕事へと戻っていった。

 今回の仕事は《老鼠》の一人と接触するもの。熱が失われつつあるホットグラスを両手で包み込み、脳裏にシミュレーションをしていく。今度こそ、大丈夫。成功させてみせる。


 読了。


 書類をフォルダーにしまい、脇に置いておく。体が硬い。黒いハイネックセーターのシワを伸ばし、背骨を鳴らす。軽快な音が三度聞こえ、店内に冷たい空気が流れ込んだ。カウンターに飾られたワイングラスで、入ってきた人を確認する。 

 ——キムさん。

 乾いた足音を数度、静かなバックグラウンドジャズのリズムに合わせ、歩ませている。左手には、先ほどまでなかった白いスーツケース。一歩ずつ進むにつれ、微かな煙草の苦みとメンソールの爽やかさが舌に残る。急いで、残ったミルクを喉に流し込み眉をひそめ、

您回来了nín huí lai le。それ……終わったんだね」

 フォルダーを返す。キムさんは受け取ると、機内に持ち込める大きさのそれに滑り込ませ、ざざっと音を放った。あ、袖が少し赤くなってる……。

 キムさんは気づいているのか、いないのか、煙草の香りに飲まれた濃紺色のチェスターコートをはためかせ、席に着いた。強張った表情。話しかけずに、いつも通りの表情に戻るのを待った。

 冷たい空気はいつの間にどこかへ消え去り、元の店内へと戻っていた。キムさんは残っていたソルティドッグを飲み切り、バーテンダーは後ろに振り向く。

「今度は、貴方」

 私の肩を軽く抱き寄せ「期待してるよ——」耳打ちをした。ウェーブさせた黒髪が揺れ、鼓動が妙に高鳴る。本当に、嫌な人。近づいた顔が離れてしまう前に、首元に腕を這わせ、抱きしめ返す。ミント味のガムを噛んだ時と、同じ香りが辺りを包み込んだ。匂い、付いたら嫌だな。

 自分の髪とキムさんの髪を眺め、見えない表情を想像する。多分、気づいていない。キムさんは少し驚き、後ろに引こうとするけど、逃がさない。耳元にイヴ・サンローランで染められた唇を寄せ、優しく「——私を誰だと思っているの?」と囁き返す。そうしてプラムに彩られた指先をスーツの襟元から、鎖骨を撫で、元の位置へと戻した。できるだけ自然に、滑らかに、無声映画サイレントフィルムのワンシーンのように。キムさんが、教えてくれたことの一つ。


 私たちの姿を言葉ひとつ発さずに見ていたバーテンダーから、唾を飲み込む音がした。キムさんの顔色を見ずに、残りのミルクを飲み切る。そして、戸惑っている彼に軽く会釈をし、肩から外れたコートを席を立ちながら着直した。

「……時間だから、もう行く」

 チラリとだけ、キムさんの視線の先を見ようとしたけど、バーテンダーが「お二人とも、レオンとマチルダみたいですね!」と騒ぎ始めたから、逃げるようにスーツケースを持って、入り口まで向かった。

 ここに来ることは、もう無いかもしれない。再度、懐かしむかのように振り向き、店内を見渡す。空になったグラスに触れる背中から、

「車、外に止まってる」

 感情のわからない声がした。ネイビーのスーツと同じ口調。冷たく、機械的で、最初に会った時と全く同じ。

「そう……后会有期hòu huì yǒu qī、キムさん」

 ごめんなさいと、心の中で呟き、舞台を降りた。

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