移動と、眠りが、停止する

 クラッチからスマホを取り出し、時間を確認する。あと数分で、二十時。ロマンス通りから騒がしい色彩が溢れ、冷たい空気と混ざり合っている。急いでコートのボタンを締め、真っ赤なスヌードで口元を覆う。匂い、やっぱり付いてた……ムカつく。スマホを戻し、代わりにガムを取り出す。キムさんの苦い味とは違った、爽やかな味。《グレープミックス》と悩んで《オリジナルミント》にしてみたけど、失敗だったな……キムさんのことが頭に浮かび上がる。


 固いガムを噛みながら、目の前に止められていたワゴン車に向かう。運転席にいつもの彼がいたから、きっとこれ。ダークグレーのワゴン車だけど、街灯が仕事をしていないため、背景と同化してしまっている。助手席の窓をノックし、後部席へと乗り込む。ガムは、程よい柔らかさになっていた。

 運転手は無口な人で、私と一度も会話をしたことがない。顔も、服装も、何一つ思い出せないような人。エキストラ役の人みたい。バックミラー越しで軽く会釈をし合い、発車した。


 今回の目的地は、浅草。ここから、約三十分の距離。席を少し後ろに傾かせ、気持ちを落ち着かせる。そういえば、来週テストがあったっけ……急に日常を思い出し、妙な気持ちになる。

 意識を目の前の現実に戻すと、ハンドルを握りしめる運転手が、三度音を鳴らしていた。トン、トン、トン。少しの間を開け、繰り返される。トン、トン、トン。よく、苛立っている時にする癖。何度か乗っていて、気付いたこと。彼の視線の先を見ると、横断歩道を渡ろうとする人がいた。一歩、道からはみ出し、挙動不審にしている。さっさと渡ればいいのに……。

 運転手の苛立ちが移されないように、横に向けることにする。膝丈までくるピンヒールブーツを着た女性と、男性が腕を組みながら歩いていた。甘えているみたいに、背の低い男性の肩に、頭を擦り付けている。男性はニヤつき、色の抜け落ちかけているセミロングを撫でていた。汚れたミルクキャラメル。地面に垂れたカフェオレ。どっちみち、不味そうな色。

 また視線を前に戻すと、信号が青に変わった。


 看板が輝く道を抜け、街灯だけが光る道に入る。足元のスーツケースから、ひんやりと冷たい気配を感じた。それをぐっと持ち上げ、隣の席に置く。クラッチからスマホだけを取り出し、懐中電灯モードにさせる。ざざっ。バックミラーから視線を感じたけど、無視。

 開かれた真っ白なスーツケースの中身は真っ黒で、暗い車内と同化していた。スマホを中身の確認をするために向けると、布地の袋。手前の大きめの袋を開けると、金色の糸状が見えた。ブロンドのウィッグ。微妙なチョイス……。見なかったことにし、別の袋に触れると、硬めの感触がした。

 ——これだ。

 中身を取り出すと、禍々しい黒の拳銃が入っていた。グリップ部分に、黒星ヘイシン。キムさんの好きな、中国北方工業公司ノリンコの92式。確か、中国の兵器を製造している所だった気がする。まぁ、使い方がわかれば、何でもいいけど。

 また、運転手からの視線。何かが変……。今度は無視をせず、彼に目線を向ける。入った時のように、目が合わない。気になり、リアウィンドウに振り向こうとすると——别看bié kàn——緊迫感の溢れる、聞き覚えのない声がした。

「え——」

 空耳だと思ったが、もう一度、はっきりと前方から、

小朋友xiǎo péng yǒu請不要看qǐng bù yào kàn

 こちらをしっかりと見る、声があった。断固とした口調に、こくりと頷く。彼は再度——後ろを、見てはいけない——満足げに言い、運転に戻った。なぜなのだろか。忠告は、背中が痒くなる。

 後ろを振り向こうとする気持ちを抑え、ふと思い出す。彼、話せるんだ。存在がなかったのに、一瞬にして脇役の存在を放ち始めた。あまり見れなかったけど、少し離れている両目、鼻の右にほくろが一つ、ヒゲはところどころ点々と生えているのが見えた。

 どうして? なぜ? わからないことばかり。


 悩むのを少し止め、冷静になってみる。自分の姿を見下ろすと、無意識に拳銃を構えていた。どうやって使おうとしていたのだろう。マガジン部分、空洞なのに……。いや違う、キムさんは「マガジンを取っても、人に向けてはいけない」といつも言っていた。「弾丸がないのに、どうしてなの」分解をし、中身を磨いていた私が聞く。キムさんは決まって「中身に一つだけ、残っているから」とだけ答えた。それ以上に、いろいろ教えてくれたけど、授業の後にくれる沙琪瑪サチマの記憶しか残っていない。

 袋から取り出すのに悪戦苦闘するけど、いざ口に含むと、その苛つきが消え去る。噛んだ瞬間から、脂っこさと柔らかな甘さが、口いっぱいに広がっていく。サクッとも、カリッともせず、しっとりとした味わいの感触。

 そういえば小さい頃、よくキムさんに「小猫xiǎo māoちゃん、もう少しゆっくり。慢慢吃mànmàn chī」と注意された。私の返事は決まって「わかった」ではなく、「私、小猫じゃないもん」とムッとした。


 懐かしい味覚を思い出していると、車がガタリと揺れた。外を見ると、都会の明かりが反射し、灰色に光る夜空が広がっていた。そして、その中央で切り裂くように、紫色に光る塔、スカイツリーがあった。

 そこであることに気づく。味が薄れ、不快でしかないというのに、ガムを出し忘れていた。コートのポケットを探るも、包めるものが見つからない。窓を少し開け、ねっとりと暖かくなったそれを、投げ捨てた。

 ミラー越しに私を観察していた運転手が、見開いた。大丈夫よ、車には当たらないようにしているから。軽く微笑み、安心させる。それでも、運転手は何か言いたげに口元を歪ませ、ついには口を開いた。

小朋友xiǎo péng yǒu請听仔細了qǐng tīng zǐxì le我很担心wǒ hěn dānxīn……你们的安全nǐ men de ānquán

 ——あなたたちの安全が心配だ——こちらを覗かず、唇だけを揺らした。彼は、私だけではなく、キムさんのことも、言っているのだろうか。もう一度微笑み、「不要紧bú yào jǐn」と呟いてあげる。

 えぇ、大丈夫。私は平気。

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